【Present Day】
「そいえばさ、今度、銀蘭堂でランジェリーイベントあるだけど――チセ、行く?」
アジエが振り返ってそうわたしに尋ねた。
銀蘭堂……正式名称、銀蘭堂ミッドブロック。
オラクル・パシフィックゲートにその名を轟かせる、名門の老舗百貨店。
英国ハロッズにデザインの原点を見出せるという重厚なアイコニック建築と、笑顔で扉を開けるドアマンが並ぶ大きなエントランス。
その両脇には、黒曜石のような質感のグリフォン像が台座の上で睨みをきかせている――まるで、通過する者の品格を試すように。
と、その瞬間。
耳元で、あの曲が勝手に脳内再生されていた。
『♩ミッドブロックは世界を越える。手に入らぬものなど、ない。銀蘭堂――あなたの奇跡になる』
(……もう、うるさいな……)
誰が仕掛けたのか、CMソングは常に音像広告として空間に埋め込まれているらしく、近づくだけで自然と再生される仕様になっている。
曲の最後、音がフェードアウトした直後、ナレーションが来る。
「あなたの欲望に、至高の逸品と愉悦の演出を……Presented by PRAXIS」
「……美しさも、欲望も、君の手の中にある――さあ、迎えにきて?」
最後に耳元で息遣いまで感じるような、ヴァイロン・アークライトのASMRの囁き……。
(……うぃぃいいい……気持ち悪い!)
一瞬で腕にブツブツと鳥肌が立った。
あの声。
ヴァイロン・アークライトの、軽薄で芝居がかった喋り。
あの顔が脳内に浮かんでくるたび、わたしは無意識に奥歯を噛んでしまう。
それに、実態はどう考えても――。
「いいんじゃない――富裕層に刺さるもんは、全部混ぜとこう」
とヴァイロン・アークライトが言ったかどうかはわからないが、そんな魂胆が透けて見えるのだ。
――でも。
その品揃えは、誰が何と言おうと完璧だった。
全部ひっくるめて、それでも尚、ここには
「どんな感じのイベント?」
「あたしはジローヌかプラヴォーク――攻め系のイケイケランジェリーが狙いだけど、ペシュ・アンド・ジョとか、エモ・フィールあたりのカワイイ感のもあるよ」
「うーん」と思考を巡らせる。
正直、寄せて盛れるエモ・フィールはどちらかというと好みではないのだが、しっかり優しくホールドが売りのペシュ・アンド・ジョの新作には興味がある。
「行く」
「オッケー! そう来なくっちゃ」
故郷から着ていた、お手製の下着が一張羅だった頃から随分と変わったものだ。
今でこそ理解できるが、ブラとパンツが一着だけ――アジエがそんなことを許すわけがなかったのだ……。
【Flashback】
気づけば、豪華な革張りのシートに座っていた。――個人用ライナーの中だ。
シートだけを見ると、六人乗りで最低限の短距離移動機能にだけ特化したライナーらしい。
操縦はジーブスが行なっているので操縦席などなく、内部はゆったりと広い……
向かいの席でアジエは左手に小さな鏡を手のひらに持ち、右手には小さな棒のようなものを持って唇をなぞった。
鮮やかなピンクの強い赤色に唇が染まると、鏡でいろんな角度から出来栄えを確認するような仕草をする。
わたしは、アジエに言われるがまま、お出かけ用とされる服を着せられていた。
まず黒のレザースカート――と呼ばれるらしいそれは、腿の半ばまでしかなく、まともに動くのが怖いほど短い。
それだけでも十分に落ち着かないのに、渡された下着もわたしの常識を軽く超えていた。
下から持ち上げるようなブラという人間の胸当ては、着けてすぐ異物感があったし、白と黒のストライプのシャツ――アジエはゼブラと言っていたが……。
それは、へそが出るほど短く、胸を締めつけて谷間が見える。
見下ろした瞬間、自分の胸が予想以上に主張していて、顔が熱くなった。
……これ、私の身体、だよね……?
どうしてこんなことになったのか。
思い返せば、全部はお風呂から出たときの――あの
――
「……おっ……おまえ……何してる……」
カゴの中の下着を穿いたとき。
お尻のところの裾をつまんで腰まで持ち上げた時だった……新しい胸当てをつけたアジエがわたしを指差し、目を大きく見開き震えていた。
「何って……下履き穿いてる」
「パンツ穿いたのは見りゃわかるわ! ……でも、それって風呂入る前に穿いてたやつだろ……?」
「……リセットしたよ……臭くないもん……」
凄まじいプレッシャーにわたしはたじろぎ、清潔であることを主張したつもりだったが、それは火に油を注いだだけだった。
「そこじゃねぇ! 不精なヤローじゃあるまいし! それは絶対にNO! 女子的にNO!」
その迫力に下履きを穿いた直後の状態でわたしは固まって、ぷるぷると震えてしまった。
「おまえ、下着の替えは?」
「……これしか持ってないよ……」
「はぁ? なんでブランド偽造する奴が、ブラとパンティ、1つしか持ってねーんだよ!」
アジエが叫んだ。
そのあとは怒涛のような展開だった。
アジエは下着姿のまま、いきなり柳橋にメッセージを繋いだ。
空間に浮かび上がった柳橋はあのキャプテンシートに座って、本を片手にメガネをかけていた。
あられもない姿のアジエに柳橋はたじろぎもしなかった。
「なんだ、お前……誘ってるのか」
メガネを外して表情一つ変えず、柳橋はそう言い放った。
「チゲーわ、バカ! 預かった子――チセだけどメカをイジらせる前にやることがあるから! 三日はかかるから!」
アジエもアジエでまったく恥じる様子もなくそう言い返した。
柳橋はチィっと舌打ちした。
「何だそりゃ、別にいいけどよ。 悠のやつはどーすんだ」
「ドックの端っこに
そう言うアジエに柳橋はやれやれと大きなため息をひとつした。
「わかった、わかった。好きにしろ」
柳橋は面倒くさそうに手をヒラヒラさせながらそう言うと、視線がチラリと動いた。
アジエの背後で下履きを引き上げたまま、お尻を突き出すように固まって、胸をさらしたままのわたしと目があった。
「あー。なんだ……ガキのわりには発育いいじゃねーか」
例の細い目をしながら、柳橋は吐き捨てるようにそう言った。
「うひぁぁぁぁぁ!」
それまで展開についていけず固まったままのわたしは、男に裸をみられているということに気づいて叫び声をあげ、胸を抱えてその場にうずくまった。
「見てんじゃねーよ! このアホが!」
アジエはそう怒鳴ると、通話を切った。
切りぎわに柳橋の「いや、俺のせいじゃねーだろ」という声がかすかに聞こえた。
そのあと、アジエに凄い目で睨まれながら胸当てもつけて服を着た。
仲見世通り近くにあるラーメン屋、麺匠HODO屋にも連れてってもらったが、終始無言……そして、ずっと怖い目でこちらを見るアジエに怯えて味わうどころではなかった。
そして屋敷に帰りつくと、アジエはわたしにこう宣言した。
「明日は買い物に行くよ――とりあえず一通りイッとくから……いいね?」
「は……はい……」
そして次の日、あの巨大なリビングに現れた人物にわたし驚愕した……と言っても、アジエではあるのだが。
――えっ、誰?
とっさにそう思ってしまうほど、昨日のアルマナックと呼ばれるギルドのメンバーであるアジエとは別人のようだった。
緑の渦巻き模様のワンピースは、体のラインにぴったりで、まるで彫刻みたいなシルエットを強調している。
それなのに下品じゃなくて、なんというか……華やかで、堂々としていて、目を逸らせない感じ。
しかも、髪は後ろでひとまとめにしていて、太いヘアバンドが落ち着いた雰囲気を添えてる。
服と同じ明るいグリーンのサングラスの奥の目は見えないのに、見透かされてるような気がする。
口元はきゅっと結ばれていて、いつもの冗談好きなアジエの面影が見えない――けど、それが妙に格好良くて、ちょっと、悔しかった。
まるであの宿でみていた映画の中から登場人物がそのまま出てきたような、圧倒的な存在感がそこにはあった。
「ホラ、あんたもそこにある服に着替える!」
ラウンドソファの上に、下着も込みで服が一揃えおかれていた。
「あたしがティーンの時に着てたお古で悪いけど、多分サイズはちょいどいいと思うから。今日のところはそれがあんたのヨソ行きってことで――」
アジエはサングラスをつまんで目を見せると、ここでようやくお風呂の時にも見せたイタズラそうな表情になってこういった。
「さあ、チセ。楽しい、楽しい、お出かけだよー」
――
こうして、私はまたアジエに引っ張られてリムジンへと乗り込んで今に至るというわけだ。
リムジンの窓から外を見ると、HODOがだんだんと小さくなってくのが見えた。
リムジンは緩く大きく右に旋回しながら上昇しているようだった。
「ねぇ、どこに行くの?」
少しでもお腹や胸を隠そうと腕をモゾモゾとしながらアジエに聞いた。
「んー?」
アジエは鏡と唇に色をつけた小さな棒をしまうと、着慣れない服に戸惑っているわたしを嬉しそうに眺めて、「キシシッ」と小さく笑った。
「パシフィックゲートの第5区画。モールやデパートが密集した商業エリアだけど……どうせ行くなら、一番派手なとこがいいっしょ」
今度はアジエが振り返って、リムジンの窓から外を見た。
「そろそろ、見えてくるわよ。ほら、アレ」
わたしもアジエの肩越しに外を覗き込んだ。
上昇しているリムジンの窓の先には巨大な建造物の群れが飛び込んできた。
HODOは上か下へと広がる巨大さだが、ここは逆に上へ、上へとどこまでもそびえるような巨大さだった。
かつては巨大な船だったというその構造体は、今や都市そのものとなり、雲をも貫くようなシルエットで天を裂いていた。
最上層には太陽光を反射する強化ガラスのスカイウォーク。
その下にいく層にも折り重なるように取り付けられたモール、連絡通路、搬送ベルト、空中庭園。
左右にせり出した船体のリブ構造は、いまや重層的なビル群となって機能しており、どこからが船で、どこからが都市なのかその境界はもはや誰にも判別できない。
「……あれが、第5区画よ」
アジエがウィンドウを指差した。
目に飛び込んできたのは、まるで空中都市の一角のような人工地平。
リムジンの窓の外では、あちこちに浮遊するプラットフォームが上下に移動し、モノレールとライナーが縦横に交差している。
その下では、薄い霧のような演算気象のエフェクトがゆっくりと流れ、全体が幻のような淡い光に包まれていた。
建物一つひとつがまるで意思を持っているかのように、異様なデザインで自己主張している。
「HODOだって十分すぎるくらい大きかったのに……」
わたしは思わずそう呟いた。
けれど、目の前に広がるこの空間は――あのとき感じた巨大さを、あっさりと飲み込んでしまう。
高層棟がまるで鉱山の岩柱のように連なり、何層にも重なった回廊と航行帯が、立体的な蜘蛛の巣のように浮かんでいる。どこまでが建物で、どこまでが空間なのか。遠近感すらあやふやになるほどのスケールだった。
リムジンが滑るように進むたび、遠くに霞んでいた塔の頂が、徐々にこちらへせり上がってくる。
「これが元船だしね。しかも、オラクルの初期の主力モデルだ」
「ふっ……」と呆れたように肩をすくめながらアジエが笑う。
開発は二十年以上、いまだに続き、すでに船としての面影はほぼ失われているという。
ターミナルからHODOへと通りぬけただけではわからなかったが、こうやって見て、そのスケールを体感した。
目に全貌を納めることは到底不可能だ。
故郷、エクス=ルクスが矮小に感じる。
都市ではない――これはもう、世界そのものだ。
「で、今日に行くのはあそこよ」
アジエが指差したその先。
窓の外、雲の切れ間に浮かぶようにして――
はじめは遠すぎて、ただの塔のように見えた。
でも、リムジンが少しずつ高度を下げるにつれ、それがただの建物でないことがわかってきた。
岩のように重々しい土台、その両側に据えられた獣――翼のある四足獣が、まるで睨みをきかせている。
中央には、装飾のついた大きな扉。その前には、人のような姿の誰かが、整列して立っていた。動きはない。まるで儀式の守人のようだった。
でも、そこから上へと目を向けた瞬間――。
わたしの認識は、ぐらりと揺らいだ。
塔はねじれていた。
まるで金属とガラスの蛇が、空へ向かって身をくねらせるように。
そこに、細かい光の筋や模様、文字とも記号ともつかない装飾が重なり、何重にも巻きついていた。
視線を持ち上げるほどに、その頂は遠ざかり、そして消える。
最上部には、光る管のようなものが輪を描いている。
それは時を刻んでいるようにも、なにかの脈動を示しているようにも見えた。
塔の左右には、さらに別の構造物が広がっている。
いくつもの建物が、重なり、ねじれ、光を放ち、互いに食い込み合うように存在していた。
まるで「建築」というより「風景」そのもの――世界が折りたたまれたような密度。
わたしはただ、口を閉じるのを忘れて、見入っていた。
(なんだろう……これは)
(……きもち、わるい? ……ちがう。……たのしい? ……ちがう)
これは、なんだろう。
まだ知らないもの。知らない世界――それが、今、視界を埋め尽くしている。
「――銀蘭堂ミッドブロック。正式名称ね」
横から、アジエの声が届いた。
その言葉は、空気よりもゆっくりと、わたしの思考の膜に沈んでいく。
「銀蘭堂……?」
「パシフィックゲートが誇る、名門中の名門。ラグジュアリーの殿堂ってやつよ。高級って単語が安く思える場所」
アジエの言葉に、わたしは首を傾げる。
堂?
銀?
ブロック?
それぞれの単語は知っているはずなのに、並んだ途端に意味が揺らいだ。
「つまり……欲しいものが全部あって、値札にゼロがいっぱいついてて、歩くだけで金持ちになった気分になる、そんな場所。……って言えば伝わる?」
「……ようするに……買い物するところ、なの?」
「まあ、正確には買い物もできる異常建造物って感じ? たぶん初見はみんな引くよ。チセならきっと面白がれると思って」
アジエが微笑む。
買い物はわかる。
わたしもHODOでは商売もしたし……。
ただ買ったものと言えば食べ物ばかりではあったが、それはお腹だけでなく心も満たす行為だと感じた。
でも、今見ているそれが、
巨大な蛇のような塔。
光を発する記号と線。
睨む獣。重厚な扉。
そして、わたしの知らない、たくさんの欲望の形。
(わたしも……ここに、入るんだ)
リムジンはゆっくりと銀蘭堂ミッドブロックの正面へと降り立った。
ボディの側面の中心から上へ回転するようにドアが優雅に開いた。
アジエは迷いなくリムジンを降りた。
一方のわたしは、服の裾をつまみながら、数秒だけ躊躇ってしまった。
「チセ、何やってんの。ほら、行くよ」
アジエが早く来いと急かす。
ここまで来てしまうと、引き返すわけにもいかない。
(えー い、ままよ!)
覚悟を決めてリムジンから飛び出した。
「レディ・ジンガノ、ミス・チセ。いってらっしゃいませ」
ジープスのイケボがわたしたちを送りだす。
わたしたちを降ろすと、リムジンのドアがゆっくりと閉まり、上昇をはじめ、どこかへと飛び去っていった。
アジエは慣れた様子で、緑色の扉へと向かう。
慌ててわたしもその後を追った。
「いらっしゃいませ」
重厚で大きな扉の前まで行くと、背筋をピンと伸ばし、その扉と同じ色をした帽子とコートをまとった、守人のような背の高いがっしりとした男が――うやうやしく扉を開いた。
アジエと二人でその扉をくぐる。
扉を力強く開いた男の横を通りすぎる時、軽く会釈された。
同じような扉は全部で十個ほど並んでいたが、そのどれにも同じ姿をした男が立っていた。
もしかして……客が来るたびにこうやって扉を開いて挨拶をするのか。
たったそれだけのために、立っているのか?
なんてコストの無駄なんだろうと少し呆れたれていたが、そんなものは、序の口だったのだと、この銀蘭堂のエントランスに立って思い知った。
高さ、広さ、深さ――そのすべてが過剰だった。光は渦を巻き、音は奔流となって全身を撫で、匂いですら何かのメッセージのように意味を帯びて漂っていた。
天井は星空のように輝き、床は鏡面仕上げのようにすべてを映し返している。その反射の中、壁という壁が動いていた。広告、映像、踊る花の彫刻――見たこともない情報の波。
階段が浮かんでいる。
まるで宝石を散りばめたような照明装置が逆さまに吊られている。
水が天井を流れている。
(……なにこれ)
わたしの中の合理が、崩れる音を立てていた。
ここは、見せるためだけの空間だった。意味も、目的も、すべてを超えて――
アジエは軽やかに歩き出す。まるで、ここが自分の庭だと言わんばかりに。
わたしはその背中を追いながら思う。
(これが……銀蘭堂)
その名を、ようやく少しだけ理解できた気がした。
でも、今のは、結局のところただの入り口だったのだ。