たった数歩で、景色がすべて塗り替えられるなんて――。
まるで別の世界に迷い込んだようだった。
エントランスホールを抜けた先――そこには、わたしの想像を軽く超える空間が広がっていた。
頭上には、光を内包するようなガラスのアーチ。
天井なのか、空なのかすらわからない。
その透明な天蓋から、虹色の霧が垂れ下がり、彫刻のような植物の柱を濡らしていた。
階層は何重にも重なり合い、奥行きはビル十棟分の吹き抜けのように続いている。
浮遊式のエスカレーターが優雅な曲線を描き、上下左右へと人々を運んでいる。
誰もが完璧なコーディネートを纏い、歩くたびに香りが変わるような錯覚すら覚える。
(……さっきのは、ほんとうに、ただの入口だったんだ……)
膨大な空間に圧倒されていると、唐突に、斜め上の回廊から、誰かの声が降ってきた。
「アジエ~~~ン! やだもう、サプライズにも程があるってばぁ!」
小柄な男が、カツカツと小気味よく床を鳴らし、後から同じスーツ姿の部下らしき二人を引き連れてこちらへと駆けてきた。
背は高くないけれど、全身から妙な存在感が溢れている。
よく陽に焼けた顔には深い笑いジワが刻まれ、歯を見せてにこやかに笑いながら、まっすぐアジエのもとへ向かってくる。
細身のジャケットは肩が高くウエストは鋭角に絞られ、動くたびに布がしなやかに生き物のように揺れた。
なにより目を引いたのは、派手な柄のネクタイと、金の縁取りのハンカチがのぞく胸ポケット。
全体的に
(……この人、何者……?)
「ちょっとぉ、連絡ナシとか水くさっ! あたし、昨日まで南棟の展示会詰めだったのよぉ?」
男――のはずなのだが、喋り方はなんというか、ものすごく丸い感触がした。
あまりにも女性的でわたしは面食らった。
そして、アジエを見るなり、ふわっと両手を広げてハグを交わす。
アジエは、さも当然のように軽く抱き返した。
二人のそのオーバーリアクション気味の挨拶にも驚いた。
「連絡なしで、ごめんね、アルデン。急に思い立っただけだから」
「もう……や・め・て。うちの特大VIPをお出迎えしない、なんてことになったら、あたし、上に叱られちゃうわよ」
そのやりとりを見ていたわたしは、少しだけ後ずさってしまう。
気配を察したアルデンの目がわたしを捉えた。
「あーら、珍しい……。アジエがお連れ様付きだなんて」
いかにも物珍しいという顔でアルデンはわたしを見つめる。
いぶかしむというか、値踏みするというかそんな感じで目を細める。
柳橋の目に似てるが、あの奥底に冷たい刃のようなものがある感じではなくこちらは、情熱的で熱いというか……ぶっちゃけ、暑苦しい。
「ちょっと、アジエ。誰なのよこの子? ゴイスー、じゃないの……。もしかして、あなたの謎の事務所の新顔さんかしらぁー?」
「あっはっはっ……まあ〜、そんなとこかな。チセっていうの、よろしく」
「チセちゃん……ふふっ、キュートな名前! アジア系のミューズって、あまりいないからさ。これは注目株ねぇ。スカウトかしら~?」
(……何を言ってるんだろうこの人)
「で、今日はどうしましょう? 特にアジエ好みのイベントはやってないけど?」
「チセにいろいろとさ、欲しいんだよねぇ。こいつ、自覚なくてさぁ……」
アジエはサングラスをおでこに乗せて、こちらをジロッと見る。
しばらくそうしてると、何やら閃いたといった笑みを浮かべると、アルデンに向き直った。
「あの、試着室使わせてよ。ついでにアルデンがチョイスしてくるとありがたいんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、アルデンは顔の前で手を合わせ、目がキラキラと輝き出した。
感動に息を呑むといった雰囲気だ。
「いいの? もちろん! VIPエントリーでご案内だわよー」
そして、次の瞬間にはスッと歩みより、両手を握りしめてわたしの顔をのぞき込んでいた。
「よろしく、チセちゃん。今日は精一杯お世話させていただくわ〜。わ・た・く・し、気合い入れちゃうから」
目はキラキラというより、ギラギラとして鼻息も荒い……。
そんなふうに急に男に近づかれたというのに、不思議と怖いとは思わなかった。
むしろ、暑い……強烈な日差しに照らされるような気分で苦笑いが出てしまう。
「よ、よろしく、お願いします」
するとわたしの手を握ったままアルデンは背後に控えていた男たちに振り返った。
「グズグズしてんじゃないわよ!まずは動線確保、次にアプローチリストの確認――。 いい? 最高のラインナップで迎えるの!」
さっきまであんなに丸かった声が、一転して野太く、響くような命令口調になっていた。
まるで別人みたいに――。
「いちいち、言わせるんじゃないわよ!テナントのマネージャをすぐに呼び出して、スタイリストもかき集めるの! まずは、ミーティングよ。さあー、行った!行った!」
男たちは「イエス・サー」という掛け声と共に、ものすごい勢いで走り去った。
何かものすごいことになってきた……。
わたしはその熱気と興奮に巻き込まれたまま、銀蘭堂の本当の内側――その狂騒のステージへと、一歩を踏み出していた。
【Present Day】
「イベントってアルデンの企画?」
銀蘭堂の外商部長の名前を出してアジエにそう聞いた。
「そう、あいつの企画だよ。いやー、来ないのかって、すげぇ鬼電だったわ」
その光景が目に浮かぶ……。
銀蘭堂外商部を仕切るアルデン・マストロヤンニとも今ではそれなりの付き合いになっていた。
アジエが言うところの見た目はコテコテのナポリ野郎――典型的なイタリア系だ。
実にマメできめ細やか、銀蘭堂外商部での地位もあり百貨店業界のみならず、ファッション界隈でも、一種のイベンターのような地位を築いているらしい。
出会った時はその見た目に反した、話し方に驚いたものだが、今では彼が誇り高いオカマであるということを理解している。
アルデンはナポリの伊達男にして、誰よりもモードを愛する。
そんな純粋な人物なのだ。
それにわたし自身も、あの時以来、かなりお世話になってる。
「そういえば、アルデンがまた頼めないかって言ってたよ」
「……まさか」
「そっ。今回の企画のやつだってさー」
「えーっ。ランジェリーはちょっと……」
困ったわたしを見て、また「キシシッ」と小さく笑った。
そうやって、アジエはよくわたしをからかうんだ……。
「大丈夫、大丈夫。あたしが保証するよ、あんたならイケるって。それにアルデンの頼みじゃ断れねーっしょ」
またテキトーな……アジエはきっと面白がってるだけだ。
でも、確かにアルデンのお願いは断れない。
「まー、あたしもあんたを銀蘭堂に連れてった甲斐があったわ。まさか、今やあんたが銀蘭堂のイベント広告や、カタログを飾るとわ、ビビるわ〜」
顔が熱くなって、うつむいた。
そういうことだ。
これが、わたしがアジエほどではないが、自立した上で、それなりに余裕のある生活を送れるている理由だ。
そもそも、勝手気ままなコード・ライダーどもは論外として、ジクサーで開業している滝沢先生やフォンさんじゃあるまいし、アルマナックなんて怪しい宝探し集団のメカニックがそれだけで生活できるほど世の中甘くない。
桁違いの経歴持ちのアジエはレアケースだが、基本的に皆、メカニックは副業をしている。
手に職のメカニックなので、ギルドの活動がなければ、他の皆もアジエの斡旋で街の修理屋なんかをやっているのだ。
そして、わたしはと言えば……。
初めて銀蘭堂に行ってアルデンと出会って以来、いわゆる読者モデルのようなアルバイトをするようになっていた。
あれがアジエの意図したものであったのか今となっては定かではない。
【Flashback】
アジエに教えてもらったところによると、銀蘭堂ミッドブロックは大きく分けて三つのセクションに分かれているらしい。
銀蘭堂の構造は、仮想都市における階層構造そのものを体現している。
左右に広がる大衆向けのエリアは、都市の賑わいと経済活動の表象。そして、その中心にそびえる《フロントタワー》は、選ばれた者のみがアクセスできる象徴の塔――富と特権の中枢。
ここだけは完全に別格らしい。
地上一三六階建ての超高層タワーで、ハイブランドのフラッグシップショップが集まり、超高級ホテル、〈ヴィラ・グランド・スカイウォーク〉や企業のオフィステナント、展望フロアやラウンジ、レストランまでが一体となって存在している。
アジエいわく、ここが
今、わたしたちは銀蘭堂フロントタワー八十五階のロイヤルサロン――さらにその奥のVIPルームにいた。
「ねぇ、アジエ。この部屋ってなんなの?」
アジエの屋敷のリビングと同じぐらいの大きさの部屋の真ん中にあるテーブルの椅子でわたしたちは見るからに高価なティーセットを挟んで座っていた。
「うーん。そうだな、ランウェイ付きの試着室」
試着室というのはワードで何かわかるけど、ランウェイとは何だろう……。
たしかにテーブルのすぐ脇は、通路のような形状をしていてまっすぐその先にはステージのような場所がある……。
怪訝な顔をするわたしにアジエは宣言した。
「今日はさ、全部あたしが持つわ」
「いや……ちょっと意味がわからない。ここの服が高いってことくらい、わたしでもわかるよ」
「ケチくせぇこと言うなっつーの」
そんなわたしの返事にアジエは唇を尖らせた。
「あのね、これはハッキリ言ってあたしの押し付けなの。だから今日はあたし持ち。OK?」
そうは言われても、やっぱり気が引ける。
わたしは無言のまま抗議の目をアジエに向けた。
アジエは大きなため息をついた。
「チセ。あんたはね、まずはいろんな自分を知ることが必要なの。わかる?」
テーブルに肘をついて手の上に顎を乗せてたアジエは私の顔を見つめてきた。
そして顔と、胸と、お腹をそれぞれ指さしていく。
「それと……これと……それ。自分がどれだけの武器持ってるがわかってねーだろ。そいつは、正しく使えるようにならないと危ねぇの」
わたしは困って首を傾げた。
正直、何を怒られているのがさっぱり理解できないのだ。
容姿のことを言ってるのだということはわかる……。
アジエが綺麗なのはわかる。
エクス=ルクスにいた時には考えもしなかった、外見の美しさというものだ。
でもアジエのソレとわたしではまったく違う。
肌の色も、目の色も、髪の質だってまったく違う。
これほどに違うわたしがアジエのようになれるとは思えない。
「とりあえず今日は、自分にびっくりしろ。それに……」
そう言い放ったあと、アジエはまたあの「キシシッ」という小さい笑を見せた。
……なぜだろう、今、アジエがものすっごく悪い顔をしたような気がした。
「服代もってやる代わりに、あたしは世間知らずの原石からしか摂取できない栄養をもらうからさー」
それはどんな意味なのかと聞こうした時、突然にVIPルームの扉は開かれた。
驚いてそちらを見ると、そこにアルデンが立っていた。
背後に大勢を引き連れて……。
「は〜い、お・ま・た・せ。ごめんなさいね、ちょっと手間どちゃったわ」
アルデンを先頭に次々と部屋の中に人が入ってくる。
さっきまで、アジエと二人だけでガランとしていたVIPルームはあっという間に人でいっぱいになっていた。
「おー、すっげぇーな。こりゃ見応えありそうだ」
「だってアジエのリクエストが『一通り頼よろしく』でしょ。も〜うそれって丸投じゃないのよ」
喜ぶアジエにアルデンは背後に控える集団を紹介するように大きく手を広げた。
「だから全部持って来ちゃったわよん」
アルデンの背後の集団から四人の女の人がわたしのところに進み出てきた。
その四人はわたしを囲んで見下ろしていた。
一人はサーモンピンクのジャケットとタイトなロングスカートを着た、赤と紫色のグラデーションの色の髪を左に流したショート。
一人は袖や肩はフリフリとした鮮やかな水色のブラウスにグレーのスカートを着た長い黒髪。
一人は光沢のある赤いダウンジャケットと膝や腿に穴の空いたジーンズ、そして無造作な青みがかった髪のショートカット。
くちゃくちゃと何やら口の中で噛んいる。
一人は体のラインがくっきりと出る黒いニットのワンピースに、明るいブルネットを後で縛っている。
驚くことにワンピースの胸の上側が一文字に裂け目があり、胸の上側と谷間を覗かせていた。
ジーッと四人はわたしを凝視し続ける。
「うちの腕っこきのスタイリストを連れてきたわよ。各フロアのトップの子たち。どうあんたたち、いけちゃうわけ?」
アルデンがそう言った瞬間、それまで無表情だった四人の顔が揃ってニマァとなった。
まるで獲物を見つけたと言わんばかりの表情だ。
その視線に、わたしはお尻から頭の先にゾゾッという感触が昇るのを感じた。