リーダーの言うところのバカ面を晒した俺の前に、エイプが体を起こして立ち上がった。
試すように、右、左と足踏みする。
エイプの関節が小気味よく鳴った。
リーダーはただシートでじっと虚空を見つめる。
機体がわずかに身体を前のめりに傾けた。
そのタイミングでリーダーはシートの上で体を軽く左右に振り込んだ。
軽い金属音とともに、機体がリズムを刻み始める。
十回ほどその動きが続いた後、リーダーは上体は起こしたまま、ズンと大きく腰を後ろに落とすような、そんな動きに変化した。
連動するようにエイプが、両膝を左右交互に沈ませ、足裏で地面を滑らせるように一歩──そしてまた一歩。
脹脛の裏から覗くリニアダンパーが沈んでは、瞬間的に展開していた。
そして、蛇がうねるように地面を滑り、エイプが前進と後退を繰り返す。
次の瞬間、エイプが肩をすぼめ、上体を捻りながら両腕を振る――まるで、ボクサーのシャドーのように。
ヒュッ、ヒュッ、と空を切る音が、薄暗いドックの静寂に映える。
俺は見惚れていた……。
その動きは、あまりに軽やかで、なめらかで、まるで人間の関節が入っているかのようだった。
脚が……腰が……腕が、まるで一体で悶えるように身をよじる。
そして次の瞬間、カミソリが煌めくようなシャープさを持って伸びる。
ゴリラのような不格好なCFがその瞬間、なぜかとてもエロティックに踊る女のように見えた。
形は俺の乗ったエイプだが、その動きはまるで別の機体としか思えなかった。
ほんの数十秒の出来事だった。
エイプが直立の姿勢に戻り、止まった。
「まあ……、こんなもんか」
リーダーは小さく笑う。
そして俺を見ると、眉の間に皺を寄せた。
「なんだ、バケモノでも見る顔しやがって」
「なんなんですか――今のは?」
まだ頭からあの動きが離れない。
鮮烈な動きにそんなつまらないセリフを言うのが精一杯だった。
「あー? ただのウォーミングアップだぞ」
まるで金魚のように口をパクパクしている俺に、リーダーは口をへの字に曲げた。
怒っているのか、呆れているのか――どちらとも言える表情だった。
「メンドクセェなー。 おらっ! もういくぞ!」
「うわぁっ! ちょ、ちょっと!」
エイプのでかい左腕が、体を引き寄せた。
一瞬でエイプの小脇に俺は抱えられていた。
力強く、ガッチリとホールドされて動けない。
だが、それでいて痛みはない。
これが、とても繊細な動きだと気付かされる。
闘神のコード・ライダー。
そのキーワードが頭をよぎった。
「悠、口閉じとけ! 舌噛むぞ!」
リーダーが叫んだ。
次の瞬間、ズドンという衝撃と共に、顔面にものすごい風圧を感じた。
上下に強烈にシェイクされるような振動。
エイプは俺を小脇に抱えたまま、全力疾走を開始した。
エイプの胸のアーマー・カウルの中からはドラムを乱打するようなリズミカルなコード・ベースの駆動音が響き、処理負荷が熱という形で現れ、俺の右半身を炙るようにムワッっとする熱気を浴びせかけてきた。
両脇の景色を歪ませ、どんどん視界が狭くなっていく。
スピードは強烈に上がっているのがわかる。
吹き付ける風圧に目が細まり、涙が出そうだ。
喉から「ヒュー」と声にならない悲鳴が漏れそうになったところで、違和感を覚えた。
スピードが乗るに従って、ガクン、ガクンとした上下の揺れを感じなくなっていたのだ。
俺は何が起こったのかと、エイプの足元に視界を落とした。
そこには水たまりを蹴った飛沫のような、虹色にも似た光が散っては消えてを繰り返していた。
エイプの足は、左と右をトン!、トン!と、まるで跳ねるように、そして滑るように機体を押し出していた。
それは小さいジャンプを繰り返すことで、機体をスケートのように、コンクリと鉄でできたドックの地面を滑っているかのようだった。
その美しい処理干渉光に目を奪われていた俺にリーダーの声が降ってきた。
「レッスン1だ! どうよ! こいつはよぉ! 飛べねがぇよ! 跳べるんだぜ!」
俺は、その言葉にはっとして体を捻ってエイプを駆るリーダーを見た。
小型が故に出力に限界はあっても、原理は同じ。
俺は、ドタドタと、コソコソと、現実世界にもある作業ロボットでもできるような動かし方しかしていなかった。
そうだ、このエイプもCFなんだ。
このインター・ヴァーチュアという物理演算の枷に囚われた仮想現実世界で、その鎖を引きちぎる能力を持った、コード・フレームワークという存在なのだ。
範囲は狭く、効果は小さくても、この世界のルールに干渉して動く――俺は何故、そのことを忘れていたのだろう……。
そして、せり出した
軽い前傾姿勢で、軽くハンドルに手を添えるように――でもしっかりと右手はスロットルの開閉をしている。
チラリとリーダーが俺の方を見た。
「レッスン2だ!」
リーダーは突然、上体を起こした。
それはウォーミングアップのときに、見せた動きと同じだった。
「悠! パワーを殺さずに突っ込むなら、肘出して潜り込むな! トルクをかけろ!」
瞬間、リーダーはまるで斜め右後ろに捻りこむように、体を振り込んだ。
ザーッ! という金属が擦れるような音と共に、エイプの足元から干渉光とは別の赤い火花が散った。
俺を抱える、左半身を正面に向けて滑っていく。
同時に機体が沈みこむ。
腰を落とし、滑る方向に左脚を出し、右足は膝のリニア・ホイールと大腿部の片持ちスイングアームの関節部分を限界まで屈伸させていた。
下腿部と足首をつなぐ、倒立フォークのダンパーが押しつけられるように沈みこむのを感じる。
まるでサーフィンでもしているかのような体制のまま高速で機体が滑っていく――そしてその先には……。
5層と4層の壁が近づいていた。
「――――――!」
俺を声にならない悲鳴を出して、顔の前で手を交差させて身を守ろうとした。
「イヨッしゃあ! ハイヨ〜、シルバ〜! ってな!」
リーダーの聞いたこともない、実にはしゃいだような掛け声が聞こえたが、それどころじゃなかった、「死んじまう!」と本気の恐怖で身が固まっていた。
近づく壁に凍りつき、目すら閉じられない。
「ゴフゥ!」
突然に視界が乱暴に回転した。
リーダーが逆サイドに、エイプを捻り込んだのだ。
突然振り回された俺は一瞬、気が遠のいたが、さっきよりもさらに重く沈みこむ感覚に意識を引き戻された。
エイプは今度は右半身を正面にスイッチした。
右脚が、逆サイドで限界まで沈み込んだ左脚へと引き寄られる――。
バネが弾かれるように、エイプが壁に向かって斜め上へと、飛び跳ねた。
砲弾のように上へ、上へと飛行できないはずのエイプが上昇し、壁へと近づいていく。
「オラァ!」
リーダーはその壁面を、右脚で着地するかのように機体を沈みこませると、まるでカンフーのように蹴り飛ばした。
今度は壁とは逆の斜め上へと、俺を小脇に抱えたままエイプはまたロケットのように跳ねた。
見ると、このまえ、必死によじ登ってた壁のオーバーハング部分が見えた。
俺はこのオーバーハングにたどり着くのに三時間はかかったというのに――。
次の瞬間、エイプの右腕から発射音と共に、ワイヤーが伸びていった。
ワイヤーがピーンッと張ったかと思うと、その先へと勢いよく引っ張られた。
右手を地面につけ、火花を散らしながら、まるでどこかのヒーローのようなエイプの着地先は4層だった。
俺は目を見開き、手を交差させた姿勢のまま固まっていた。
再び、エイプが直立の姿勢に戻ったところで俺はダラリと体の力が抜けた。
「し、死ぬかと思った……」
情けないことを言っていた。
何時間もかけて登ったあの壁を、あんなに簡単に……。
何が起きたのか、目の前で見せられたら理解するしかなかった。
エイプをただの機械として扱い、CFとして使っていなかったと俺は思い至った。
リーダーがやったことは、CF特有の座標干渉機能、それと回転させる力のモーメント、その力でダンパーに負荷をかける。
それを利用してエイプで飛ぶ――いや、跳んで見せたのだ。
さらに、慣性モーメントも利用して壁を蹴り、最後はワイヤーガンを使って一気に踏破して見せたのだ。
「どうだ、トルクかけてモーメント溜め込めば、こいつだって二十メートルはジャンプできる」
リーダーはエイプに抱えられたまま、ぐったりした俺に続けた。
「コード・フレームワークがこの、たいして使い勝手の良くねぇ、こんなクソみたいな世界でなんで特別かってこったな」
その吐き捨てるような言葉を聞いて、俺は顔を起こした。
「こいつらは、現実には無い。 ここだけでだ。 この世界だけで成立する存在だ」
「……なんすか……急に……」
「このデータでできた、でっかい、コンピュータの中なんだが、わけのわからねぇこの場所はよ、
「……えーと。 時間ですか?」
「そうだな。 時間だけはたっぷりありやがるな。 それにちょっとしたモンならゲームみたいにリセットできる」
リーダーはライディングウェアからタバコを取り出し、また火をつけた。
その姿を見て、こんな不快な煙を、なぜあんなにうまそうに吸えるのか。
やっぱり、不思議だ。
「確かにここはちょっとはイージーだ。 でもよ、データとやらが複雑だとどうだ? ぶっ壊れるし、直すのも一苦労だ」
リーダーはじっくりと、体内に染み込ませるようにタバコを吸った。
火口がジジっという音を立てオレンジ色を明るく灯す。
そのあと、大きく煙を吐き出す。
「それに、傷つけばイテェ。 それに手当もいる。 時には治らねぇ……」
苦しそうな、悲しそうで、リーダーの表情はそんな顔だった。
「でも、リーダー、ほんとはCF乗れるじゃないっすか。 俺、びびりましたよ……」
「買い被んなよ、悠」
リーダーは「へっ!」と苦々しい表情で笑う。
「ヤニの力借りて、この
そう言うと、もう一度、大きくタバコを吸った。
「でもよ、どうだ。
リーダーは短くなった火口を指で弾いた。
くるくるとオレンジ色の光が小さい円を描きながら、放物線をなぞって飛んでいった。
「こんなちっこい機体でも見せてくれるもんがある。 CFに乗らないやつにはわからない景色だよなぁ、おい」
クククッと小さくリーダーは笑った。
間違いなく、この柳橋亮平がオモチャと呼ぶエイプの動きに魅了された。
「今の俺の精一杯」そういったこの男の言葉と、自嘲するかのような笑いに、なぜか俺は切なくなり、泣きそうになった。
リーダーは気持ちよさそうな、それでいて何か未練を湛えたような目で言った。
「やっぱり脚はイテェし、目がかすみやがる。 まあ……。 ヤニもこれで、吸い納めだ――」