「そんじゃあホームルーム終わり。お疲れさん」
帰りのホームルームが終わった。
学校では先輩に会うことがない。
会いに行きたいけど、「彼氏」って噂が立っている今、先輩に迷惑がかかるかもしれないから。
だから、放課後のこの時間が、一番のご褒美だ。
「菊川、今日帰りラーメン寄ってかね?」
「ごめん、先約があるんよ」
「また女か。佐々木がいることも忘れるなよ」
相原は冗談交じりにそう言って、他の男子と一緒に教室を出ていった。
俺も鞄を肩にかけて、駐輪場に向かう。
「せんぱぁい!」
姿が見えた瞬間、無意識に声が漏れた。
「お疲れ様、どうだった?」
「先輩、それ俺のセリフですよ。今日は普通でした。ただ授業受けて、クラスのやつらと話して、って感じです。先輩は?」
「私も、変わらないかな。……色々とやらかしてるから、仕方ないんだけどね」
「挽回できますって。とりあえず帰りましょ」
俺は自転車を出し、後ろに先輩を乗せてペダルを踏んだ。
「朝、大丈夫でした?」
「うん。最高の作戦だね。朝に人目を気にしないで済むって、すごく気が楽。ありがとうね、菊川くん」
そう言って、俺の腰に回された手の力が少しだけ強くなった気がした。背中に感じる温もりに、胸が高鳴る。
信号に引っかかって、自転車を止める。
ふと背中にやわらかい感触が押し当てられて、意識が跳ね上がった。
「んっ。赤だね」
「……せ、せんぱい」
なんとか平静を装って信号が青になるのを待ち、自転車を走らせる。
「また彼氏と下校か」
「橘って、いきなり泣き出すってマジ?」
「ほんとだよ、正直怖い」
「不思議っ子って類じゃないもんね」
前を歩く数人の学生の会話が、耳に入ってきた。
「……菊川くんも知ってるの?」
「……はい。風の噂で聞きました」
先輩の手が、少しだけ震えた。
黙っていても、その震えが全てを語っている気がした。
「俺も昔、授業中に教科書投げたりしてたなぁ。花瓶割って先生に怒鳴られて、家に帰ったら姉にどやされて」
「それって、島にいた頃?」
「そうですよ。ボール蹴って窓ガラス割ったり、その破片が早食いしてた先生の弁当に飛び込んだり」
「なにそれ、面白い」
先輩の表情は変わらなかったけど、どこか肩の力が抜けたように見えた。
「もっと面白い話ありますよ」
「じゃあ、もっと聞かせて」
先輩が珍しく前のめりになってきたのが嬉しかった。
「じゃあ、明日。大富豪で俺に勝つ度に、1つ教えます」
「えー、そんなに聞けないじゃん」
「じゃあババ抜きでも」
「やった。全部聞ける」
「先輩?」
「なに?」
「好きです」
しばらくの間、沈黙が続いた。
長い、長い間だった。
「……んっ。ありがと」
その一言が、やけに胸に染みた。
「今日はまだ言ってなかったので」
「毎日言うつもり?」
「だって、毎日思いますから。1回か2回くらいは、口にさせてください」
「別に、私がいるときに言わなくてもいいじゃん」
「でも、言いたいんですよ。先輩の前で」
「……はぁ」
先輩はため息をついた。
それでも俺は、少しだけ笑った。
だってそのため息の奥には、きっと「拒絶」じゃない何かが、混じってる気がしたから。