――「だって菊川くん、先輩に“依存”してるもん」
その言葉が、脳の奥にひっかかったまま、桜が消えた景色に季節の変わり目を感じながら自転車で下っていた。
本当は放課後、先輩と一緒に帰りたかった。
でも、今日はそれができなかった。
《俺:熱出して早退したんで、坂下ったら連絡ください。迎えに行きます》
《先輩:ダメ。寝てて》
《先輩:寝てなきゃ罰ゲーム》
《俺:それ、ご褒美です》
《先輩:……お願い》
《先輩:私は平気だし、すぐ帰るから。安静にしてて。何もしないで》
《先輩:夜は私がご飯作るから》
《先輩:食べたいもの、ある?》
《俺:バナナとか……》
《先輩:帰りに買ってくるね。他に、帰ったらしてほしいことある?》
《俺:先輩の太ももで挟まれて寝たいです》
《先輩:へんたい》
――と、いうわけで。
めちゃくちゃ幸せでした。
LINE交換して最初のやりとり。
熱が出た甲斐はあったらしい。
……先輩、一人で大丈夫かな。
でも、今日は何もしないって決めた。
先輩のためにも、ちゃんと家で休もう。
家の前に着き、自転車を駐輪場に押し込んで階段を上がる。
……その時だった。
「どうして君がここに?」
その声を聞いた瞬間、全身が凍りついた。
意識的に無視して鍵を差し込み、ドアを開けた。
「待ってくれ! 話を聞いてほしい! 娘を探しているだけなんだ。あの子、友達もいないし、どこにいるかもわからなくて……」
……しばらく沈黙が続いたあと、俺はゆっくりと振り返った。
「……お茶でも飲んでいきますか?」
そう言って、先輩の父親を家に招いた。
*
「ずいぶん、綺麗にしてるんだな」
「一人暮らしですし。散らかってたら詩織さんに怒られますから」
麦茶を注ぎ、テーブルに置いた。
「ここに、詩織も住んでいるのか?」
「……いえ、一人暮らしです」
とぼけてみせると、彼は静かに頭を下げた。
「頼む。……連れ戻しに来たわけじゃない。ただ、心配で。警察に届けることも考えたが、学校には通っていると聞いて。それでも、顔が見えなくて……」
……嘘じゃない。その気持ちは、たぶん本物だ。
「一緒に暮らしています」
「そうか……詩織は、今どこに?」
「学校に行ってます」
「……君が行かせてくれたのか?」
「違いますよ。あれは詩織さん自身の努力です。次に会えたときには、褒めてあげてください。……話せるかわかりませんけど」
そう言って、麦茶を一口啜った。
「ありがとう。君と一緒なら安心だ」
「そう思ってもらえるなら、嬉しいです」
「ところで……君は、詩織の彼氏なのか?」
ブフォッと盛大に咽せた。
「ち、違います! 付き合ってはいません! 俺の片思いでして。でも……娘さんを大切に思ってるのは本当です。……お父さんと、同じくらいには」
(……いや、この人が本当に先輩を大事にしてたかどうかは知らないけど)
「……そうか。でも、たとえ何があっても、君を責める資格は俺にはない。俺も好き勝手に生きてきたからな」
父親は麦茶を啜りながら、静かに続けた。
「それにしても……なぜ今日は別々に?」
「俺が学校で熱を出しちゃって。先に帰ってきました。普段は一緒です」
「そうか……迷惑をかけてしまっているな。申し訳ない」
「いえ。むしろ、迷惑なんて思ったことないです。……思ってるとしたら、詩織さんの方でしょうね。俺が一緒に居たいからいるだけなので」
後々、先輩のせいにならないように予防線を張っておく。
「……詩織は嫌なことがあると、すぐパニックになる。だから詩織は自分の意思で君といるんだと思う。繊細で、俺のせいでテレビもダメになったと聞いた」
「はい。コードは抜いてます」
「……そうか。本当に、申し訳ない」
「いえ。俺もテレビ見るより、詩織さんと話す方が楽しいんで」
本音で答えると、父親が俺の手をそっと握った。
「部屋を……片付けてくれたのも、君か?」
「はい。言うほどそんなに酷くはなかったですよ?」
「……あの部屋が、あの子の“心の重さ”だった気がするんだ。……ありがとう」
少しだけ、胸があたたかくなった。
この人も、ほんの少しは――詩織を理解しているのかもしれない。
「でも、本当に頑張ったのは詩織さんです。
学校に行こうと決めたのも、俺じゃなく、本人なんです。全部、彼女の力です」
「……ありがとう。君に、そう言ってもらえて良かった」
頭を下げる父親を横目に時計を見て、そろそろ帰ってもらうことにした。
「下校時間くるんで、そろそろ先輩帰ってきます」
「……そうか。君、嬉しそうだな」
「当然ですよ。だって、先輩がご飯作ってくれるんです」
「……“先輩”って呼んでるんだね。年下なのか?」
「はい。一個下です」
「……詩織は、魅力的な子だ。間違いなく」
そう言って、父親は少し俯いて言った。
「……だが、睨む顔の印象が強くてな。もしよかったら、写真を見せてくれないか。……自業自得なんだが、見たいんだ」
スマホを取り出して、キスしていないツーショット写真を拡大して見せた。
「どうぞ」
スマホを受け取った父親は、そのまま画面を見つめて――
涙を流した。
「……よかった。元気そうだ。……ありがとう」
スマホを返してもらいながら、聞かれた。
「名前、聞いてもいいかな?」
「菊川創です」
「菊川くん、か。詩織も、君のことが好きなんだと思う。写真の顔……とても幸せそうだった」
「じゃあ早く仲直りしてもらわないと、挨拶に行けないですよ。“お父さん”」
「……“お父さん”って言われる資格、俺にはないよ」
父親は麦茶を飲み干し、立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ帰るよ。邪魔したね」
「いえ、お気をつけて」
玄関で靴を履きながら、彼は振り返った。
「……あの時、君が言った言葉。俺は信じることにした。ありがとう」
その言葉の意味は、すぐに思い出した。
――『詩織は俺が幸せにするから、そこで黙ってろ』
遊園地で、彼に吐き捨てた一言だった。
……今思い出しても、顔が熱くなる。
父親相手によくあんなこと言えたな。
ふぅ、と息を吐いて、コップを片付けようとテーブルに手を伸ばす。
その時、目に入ったのは……見慣れない封筒。
「……忘れ物?」
中には、手紙と現金が入っていた。
──『君へ』
『ごめんね。君が詩織と暮らしているのを知って行ったんだ。危ない男だったら連れて帰るつもりだった。
この手紙を読んでいるということは、君を信用することに決めたということだ。
……偉そうに言える立場じゃないけど、娘のための生活費として使ってくれ。足りなかったら、こちらに連絡を』
……電話番号が書いてあった。
これ、受け取っちゃっていいのか……?
人生で初めて触れる“札束”に、手が震えた。
頭がぐらっとしてきた。
「……ちょっと早いけど、風呂入って寝るか」
封筒を引き出しにしまい、風呂に入り、布団を敷いて――
先輩の帰りを、静かに待った。