夕暮れ時だった。武道館のわき道を麻里は歩いていた。木陰になったブロックの縁に並んで腰をかけている二人の人影を見かけた。寄り添っている男女のようだ。武道館で不埒な、と麻里は思った。今日の稽古の参加者なのだろうか。
確認しようと近づいて目を凝らした。大柄な女と小柄な男子。女は男子の肩を抱いており、男子は女の胸にほほを当てていた。夕暮れの中、麻里はさらに近づき、木の幹に体を隠して目を凝らした。あろうことか、大柄な女は同級生の安達英子。その横にいるのは麻里の義弟、弘樹だった。麻里は動揺した。
後から思い出しても、なぜそんなことをしたのかわからない。麻里は二人につかつかと近寄り、英子をなじった。「中学生に、何いかがわしいことをしているの!」
「私たちはここで夕涼みをしているだけよ。何か悪いかしら?」と英子。
「それが夕涼みですって、子供を誘惑しているようにしか見えないわ!」と麻里。
「だから何?」と英子。
「その子は私の弟よ」と麻里。
「あら、あなたからそんな言葉が聞けるとは思わなかったわ」と英子。
「どういう意味よ!」と麻里。
「姉らしいこと、何もしてないでしょ、あなた。ろくに話もしないってみんな知ってるわよ」と英子。
「あんたには関係ないことでしょ!とにかく離れなさい!」と麻里。
「麻里姉さん、勘違いだよ」と弘樹。
「あんたとは、もう二度と口を利かないわ!私たちの家に二度と入らないで!」と麻里は怒鳴り声を残して去って行った。
その夜、弘樹はこっそりと帰宅すると、「修行に出ます。心配しないでください」と書置きを残して家を出た。
父の和也は出張が多く、帰宅しない日が多い。翌日の朝、書置きに気が付いた母の令子は麻里に何か心当たりがないか尋ねた。
麻里は昨日の出来事を話した。
令子は困った顔をした。「なぜ放っておいてあげなかったの?」
麻里は母の言葉が意外だった。「だって、いかがわしかったのよ!」
「並んで座ってただけでしょ。かわいそうじゃない」と令子。
「母さん、私にはすごく厳しいじゃない!私が男の人と、ひっついて座っていても平気なの!」と麻里。
令子はやれやれという顔をした。「あの子はこの家に来てから、ずっと借りてきた猫のように暮らしてるのよ。」
「お母さんが厳しくしてるんじゃない」と麻里。
「だって、私が甘やかすわけにはいかないでしょ。あの子を預かってるのだから」と令子。
「だからって私にどうしろっていうのよ!」と麻里。
「二度と帰ってくるなっていうのはかわいそうよ」と令子。
二日後に義父の和也が帰ってきた。事情を聴いて、「麻里ちゃんには迷惑を掛けちゃったなあ。ごめんよ。弘樹を怒っておくから。あいつのことは放っておいてやってくれ。」
「だけどどうするのですか?弘樹君を探さないと」と令子。
「心配するな。どうせまた親父の家に行ってるはずだ。おふくろに電話してみるよ」と和也。
「親父の家にはいないみたいだな」と言いながら、和也は携帯電話を置いた。
「麻里、安達英子さんに連絡は取れないの?」と令子。「安達さんと話せないのなら、私に連絡先を教えて。私が聞くから。」
「明日、学校で私が聞くわ」と麻里。
「あいつのことだから死にはしないよ。気にしないでくれ」と和也。
次の日の朝、麻里は教室で英子に話しかけた。
「私が連れ去ったような言いぐさね。とても不愉快だわ」と英子は格闘家の目を麻里に向けながら言った。
「そんなつもりじゃないわ」と麻里。
「知っていれば私も一緒について行ったわよ。そもそも、何であなたが弘樹を探してるの?」と英子。
「心配だからよ」と麻里。
「白々しい嘘をつかないで。親に言われて探してるんでしょ?」と英子。
「大声を出さないで。ここ、教室よ」と麻里。
「あんたが二度と帰ってくるなって言ったから、出てったんじゃない!」と英子。「私の弘樹を返して!」
麻里は英子を初めて怖いと感じた。
「弘樹に何かあったら私が許さないから」と英子。
結局、一週間たっても弘樹は見つからなかった。手がかりを求めて、和也たちは実家を訪ねることにした。弘樹は土地勘のある実家の近所に潜んでいるかもしれない。