セレスティアは、薄暗い晩餐室の長テーブルの端に小さく座っていた。机に並べられた豪華な食事や燭台の柔らかい光は、いかにも貴族の館らしい優美さを放っている。それでも、彼女のまとう空気は重く、今にも降り出しそうな雨雲のように沈んでいた。
目の前には、父と母――そして兄二人がいる。彼らは高価そうな食器を手に取りながら、まるでセレスティアの存在などなかったかのように会話を続けていた。
「セレスティア。お前は先日も話した通り、近々エドワード公爵家の次期当主に嫁ぐことになる。もちろん断る余地などない」
ひとしきり会食が進んだ頃、父親が唐突にそう宣言した。父はいつだって、彼女が拒絶することなど微塵も想定せずに物事を決定してしまう。セレスティアは幼い頃から知っていた。父にとって自分は、ただの“駒”でしかないのだということを。
「……はい。承知いたしました」
僅かな沈黙の後、セレスティアは小さくうつむいたまま答える。言葉を挟もうものなら、すぐさま叱責を受けることはわかりきっていたからだ。母もまた、父の決定をまるで当然のように受け入れている。兄たちにしても、家の栄光を取り戻すため、セレスティアが望まぬ結婚をするのは「当然」だと思っているらしい。
セレスティアの家はかつて栄華を誇った大貴族だった。しかし、ここ数年の経済的失敗や政治的トラブルが重なり、家名は明るい未来を約束できるような状況にはなかった。だからこそ、父は権勢を握り続ける公爵家との縁談を取り付け、それを家の再興への“唯一の希望”だと信じている。
「エドワード様は……どのようなお方なのでしょうか」
思い切ってそう訊いてみたところで、目線を上げずにいた母が憂鬱そうにまぶたを伏せる。
「さあね。お会いしたことはないけれど、まあ……噂は聞くわ。あまり人を寄せつけないというか、冷徹なお方だとか。けれど、それ以上に財力と権力は魅力的でしょう? 家の未来を支えてくださるには充分よ」
母の言い分は終始それだけで、エドワード本人の性格や生い立ちなど、具体的な情報はほとんど得られなかった。冷酷な男――そういう噂は、セレスティアも耳にしたことがある。これまで何人もの婚約者を破棄してきたとか、短期間で愛人をとりかえてきたとか……真偽の定かではないものも多い。だが少なくとも、愛情を注いでくれるような相手ではないのではないか、という不安がセレスティアの胸をかき乱していた。
その晩餐が終わると、セレスティアは自室に戻った。部屋は、かつては父からの贈り物だとされる美しい調度品がいくつも飾られているが、セレスティアにはそれらがまるで呪いの道具に見えてしまう。豪奢なベッドも、花柄のカーテンも、彼女が心から欲したことなど一度もなかった。どれも父の所有物の延長として“与えられた”だけのもの。
「……私には、選択肢なんてないのね」
ため息をつきながら、セレスティアは手鏡をそっと取り上げる。淡い金色の髪と青い瞳。鏡越しに映る自分は、それなりに美しいといわれる容姿をしているらしい。だからこそ、父は彼女を“使える道具”として見ているのだろう。それを理解しつつも、抗う術がない。自分が弱い、意志がない。ずっとそう自責してきた。
結婚という人生の大事を、自分が望んでもいないのに勝手に決められていく。この先、どんな生活が待っているのか。エドワードという人物はどれほど冷たい人間なのか。思い悩むほど恐怖は増していき、身体が震える。
翌朝。まだ夜明け前の薄暗い空気を吸いこみながら、セレスティアは庭に出ていた。屋敷の中にいるよりは外のほうが心が落ち着く。外といっても、広大な敷地内は高い塀に囲まれ、それこそ大きな鳥籠のようにも思えるが、それでも多少なりとも風を感じられるのが救いだった。
そのとき、後ろから控えめな足音が聞こえた。振り返ると、セレスティアの専属の侍女が頭を下げている。彼女は幼い頃からセレスティアの世話をしてきた人物で、数少ない心を許せる存在だった。
「お嬢様、お体の具合はいかがですか。あまり寝つけなかったのではありませんか」
侍女の細やかな気遣いに、セレスティアは少し肩の力を抜く。そっと笑みを返しながら「大丈夫よ」と一言返事をする。しかし、嘘だとわかっているのか、侍女の瞳には憂いが滲んでいた。
「……聞いたところによると、エドワード様のご準備は既に整っているそうです。ですから、婚礼の日取りはそう遠くないとか……。私がお嬢様の味方になれることなど、ほんの些細なことしかないのでしょうが……それでも、何かございましたら遠慮なくお申しつけくださいませ」
温かい言葉に、セレスティアの胸が少し熱くなる。家庭では感じられない優しさが、侍女の言葉には詰まっていた。
「ありがとう……。あなたが側にいてくれるだけで、随分心が救われるわ。父も母も、兄たちも……私の気持ちなんてどうでもいいと思っている。結局、私は家の名誉のために嫁いでいくだけ。きっと……向こうでも同じように扱われるのでしょうね」
心に巣くう不安と苦しみを隠さず吐き出すと、侍女はそっとセレスティアの手を握ってくれた。だが、それだけではどうしようもない。結婚という大義名分のもと、彼女を待ち受けるのは、噂に聞く“冷酷な男”エドワードの元での新たな生活だ。果たして、それは地獄なのか、それとも――。
セレスティアは空を見上げる。東の空がうっすらと白み始め、朝陽が顔を出そうとしていた。その光がどれほど彼女の未来を照らしてくれるのかはわからない。それでも、一歩を踏み出さねばならないことだけは理解していた。どれほど恐ろしい噂があろうとも、結婚を拒むことは許されない。
「もう、戻りましょうか。あまり父に見つかりたくはないわ」
侍女にそう告げて、セレスティアは庭を後にする。まるで籠の中の小鳥のように、逃げ場所などどこにもない――そう知りながら、彼女は心を守るために、思考の一部を麻痺させるしかなかった。飾りのように美しい姿を保ち、何も感じないふりをして生きるしか道はないのだと。
しかし、この数日後、セレスティアは彼女自身が思いもしなかった運命に翻弄されることになる。それは、絶望と恐怖の先に、どこか救いの光を宿しているかのようにも見えた。彼女の知らない世界――“エドワード”という名の冷酷な男が支配する、危険で甘美な檻の中へ足を踏み入れるその瞬間が、少しずつ近づいていたのである。