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第2話 : 籠の中の花嫁2

 花々が咲き乱れる庭園を、午後の日差しが照らし出す。降り注ぐ光はまだ春の柔らかさを残していたが、それでもセレスティアの胸は重く、まるで真冬のように冷えきったままだった。父親の命令で「今すぐ庭園に来るように」と言われ、侍女に手を引かれながら急ぎ足で向かった先には、初めて目にする男性が立っていた。長身で、遠目にもわかる気品ある立ち居振る舞い。きっと彼が、噂に名高いエドワードなのだろう――そう直感するのに、時間はかからなかった。


 セレスティアが足を止めた瞬間、足元を通り抜ける風が、そっと彼女の金色の髪を揺らす。顔を上げると、視線の先には鋭い眼差しと、まるで氷のように張り詰めた雰囲気を纏う男性の姿があった。彼の隣には執事らしき人物が控えており、その背後には数名の従者が距離を置いて立っている。その一団の中心にいるのが、これから彼女の夫となる――エドワード公爵家の次期当主。噂では彼は冷淡で、愛を知らない男だと耳にしていた。


 「セレスティア、こちらがエドワード様だ」


 そう言って、父親がセレスティアの背を軽く押す。彼女が少しよろめきながらもなんとか姿勢を正すと、エドワードの鋭い眼差しがピタリと彼女に向けられた。青みがかった灰色の瞳が、まるでセレスティアの心の内を覗きこむかのように冷徹な光を放っている。


 「初めまして、エドワード様。私……セレスティアと申します」


 なんとか言葉を紡ぎ、膝を軽く折りたたんで礼をする。貴族の女性として相応しい優雅な挨拶のはずなのに、セレスティアの心臓は早鐘を打ち続け、声が震えそうになるのを必死でこらえていた。


 彼は一瞬だけまぶたを伏せ、それからわずかに口元を動かす。まるで感情をかき消したような冷静さがその表情に宿っている。熱さも、優しさも、温かみも感じられない――まさしく「冷酷」という噂が体現されたような雰囲気だ。


 「こちらこそ。エドワード・ウィンタークロフトだ」


 低く響く声だった。けれど、その声には重厚感と響きの美しさが同居している。まるで凍てつく氷の上を金属の靴で歩くような、鋭い緊張感が耳に残る声だった。


 「では、さっそくではあるが……話をしたい。時間を取ってもらえるか」


 無駄な挨拶を省くように、エドワードが短く切り出す。セレスティアが返事をする前に、父がすすんで頷いた。


 「もちろんですとも、エドワード様。どうぞセレスティアを自由にお使いください。何なりとお申しつけくだされば、我々は喜んで協力いたします」


 父のその言葉に、セレスティアの胸はぎゅっと締めつけられる。まるで彼女が既に“家の道具”となったかのような言い回しだ。それでも彼女は声を上げることすらできない。自分に下された運命を、いやおうなしに受け入れるしかない状況だからだ。


 「……では、少し席を外させていただきましょう。セレスティア、失礼のないように」


 父はそう言い残し、侍女や使用人たちも従えて去っていく。庭園に残ったのは、セレスティアとエドワード、それからエドワードの執事だけという、妙に気詰まりな三人の空間だった。


 「…………」


 エドワードは無言のままセレスティアを見つめ、彼女が動くまで待っているようにも見える。その瞳には冷たさだけでなく、どこか探るような光も宿っていた。セレスティアは一瞬戸惑いながらも、彼の視線から逃げてはならないと思い、意を決して口を開く。


 「え、ええと……私にお話があると、先ほどおっしゃいましたが……」


 声が少しだけ上ずってしまったのが自分でもわかった。必死に平静を装おうとするが、見知らぬ相手の前で、しかもこれから結婚する相手という重圧の中、緊張を抑えるのは困難だった。


 「そうだな。歩こうか。ここで立ち話をするのも何だし、少し庭園を回りながら話をしよう」


 エドワードがそう提案すると、執事は恭しく頭を下げ、「では私はここで待機しておりますので、ご用があればお呼びくださいませ」と控え目に距離を取った。セレスティアはエドワードの隣を歩く形となり、彼がゆっくりと歩みを進めるのに合わせて足を動かす。


 少しばかり進んだ先には噴水があり、その周囲を取り囲むようにバラが丁寧に手入れされている。バラは既に咲き誇り、白やピンク、赤といった多彩な色合いが見る者を魅了していた。しかし、セレスティアの視界にはバラの鮮やかさ以上に、エドワードの横顔が強烈に映り込む。


 横顔を間近で見ると、その整った容姿がより際立つ。まるで彫刻のような鼻筋の通り方、穏やかといえるはずの薄い唇ですら、どこか刃のような冷たさを漂わせている。彼が立ち止まり、セレスティアに向き直るまでの短い時間が、まるで永遠のように思えた。


 「まずは……結婚式の日程だが、そこまで時間をかける余裕はない。お前の家と私の家では、それなりに取り決めが多いが、私の方で急いで準備を進めさせている。詳しいことは執事から説明を受けるだろう。お前は何か、私に希望があるのか?」


 問いかけられたセレスティアは、思わず口をつぐんでしまう。希望――それは“本当に結婚したくない”というのが本音である。だが、今ここでその言葉を口にすれば、この男はどう反応するのだろうか。自分自身がこの家からも捨てられ、さらに彼の怒りを買うかもしれない。想像するだけで恐怖が募る。


 「いいえ……特にございません。エドワード様のお考えに従います」


 それが精一杯だった。どんな感情を抱いていようと、結局は父の意志に従わねばならないのと同じだ。結婚相手がどれほど恐ろしい人物であろうとも、セレスティアには拒む術がない。


 「そうか。ならばそのように進めよう」


 エドワードはあっさりと頷く。彼の瞳の奥にはどんな思惑があるのか読み取れない。ただ冷たく澄んだ氷の湖のようで、足を踏み入れれば一瞬で凍りついてしまいそうな気がする。


 「そろそろ戻ろう。あまり長く二人きりでいると、あの父親殿が心配するかもしれない」


 彼がわずかに口元を歪め、皮肉めいた笑みを浮かべた気がした。それが果たして嘲笑なのか、あるいはほんの少しの愉悦の表れなのか、セレスティアには見極めることができない。


 庭園の出入口へと歩みを進めるうち、セレスティアは思い出したように小さく息を吸い込む。見初められたわけでもなく、求められたわけでもない。家同士の利益関係によって結ばれる婚姻――それがこれからの運命だ。


 エドワードの横顔を盗み見ると、その整った輪郭に一瞬、目を奪われる。こんなにも冷酷そうなのに、外見は驚くほど端整で、まるで彫像のように美しい――そう思った瞬間、自分の頬がかすかに熱を帯びるのを感じる。それは恐怖だけでない、別の感情の入り混じった戸惑いだった。


 (なんで、こんな男の容姿にドキッとしてしまうの……?)


 自分でも理解に苦しむ。冷たい人間だとわかっているのに、それでもどこか魅かれてしまうような奇妙な感覚が、セレスティアの胸をかき乱す。


 「……では、また近いうちに」


 最後にエドワードがそう呟くと、執事や従者たちを引き連れ、セレスティアの家の来客用馬車に乗って去っていった。あまりにも短い対面だった。しかし、そのわずかな時間さえも、セレスティアにとっては息苦しく、そして不思議に胸が高鳴る体験だった。


 やがて、邸内に戻ってきた父が満足げに言葉をかける。


 「どうだ、セレスティア。エドワード様はお優しそうではなかったか? お前が余計なことを口にしていないか心配していたが……まあ、この様子なら上手くいきそうだな」


 「……はい」


 父の言葉に、どんな感想を抱いたところで意味はない。結婚を拒むことはできない。いや、拒みたいと思いながらも、自らの運命を切り開く意思がどこかに欠けているのも事実だった。


 セレスティアは自室に戻り、窓辺の椅子に腰掛ける。そして、ほんの短い時間対峙したエドワードを思い返す。視線は冷たく、何もかもを拒絶するかのように見えたが、その瞳の奥にはほの暗い炎が潜んでいるような気がしてならなかった。その炎が、彼の整った容姿をより一層際立たせている――まるで黒い宝石が輝くように、彼の雰囲気を一層神秘的にしているとさえ感じる。


 「私、本当にあの人と……結婚するのね」


 思わずつぶやいた声は震えていた。しかし、その震えは純然たる恐怖だけではなく、どこか未知の世界へ飛び込む前の高揚感にも似ていた。セレスティアは自身の中に芽生えつつある奇妙な感覚に困惑しながらも、胸の奥が騒がしくなるのを抑えられない。


 果たして、これから訪れる結婚式の日。エドワードの隣に立つ自分の姿はどんな表情をしているのだろう――。恐ろしさと一抹の期待が混ざり合い、セレスティアの心を乱してやまないまま、彼女は深い溜息をついた。そして、その乱れた気持ちが、思いもよらない運命の扉を少しずつ開こうとしていることに、まだ気づくはずもなかった。



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