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第3話 : 籠の中の花嫁3

 結婚式の日は、思いのほか早くやってきた。邸内は花やリボンで彩られ、いつになく華やかな雰囲気に包まれている。セレスティアは自室で侍女たちの手を借りながら、真っ白なウェディングドレスを身にまとっていた。その生地は絹のようになめらかで、胸元と裾には丁寧なレースの刺繍が施されている。優美な花のモチーフがあしらわれたヴェールをかぶると、鏡に映る自分の姿がまるで知らない誰かのように思えた。


 ドレスは豪華で、美しい。けれども、セレスティアの胸の内には、どこか現実味の薄い不安と恐れが大きく渦巻いていた。これから歩む人生は、いったいどんな景色を見せるのだろう。父や兄たちは当然のように「家の名誉を取り戻すため」と彼女を送り出し、祝福というよりは“期待”を押しつけている。


 「お嬢様、とてもお似合いですよ」


 侍女が感嘆の声を上げ、微笑む。セレスティアはその優しい声に小さく息をつき、無理やり笑顔を作ってみせた。まるで今日という日が幸せに満ちているかのように取り繕わなければならないのが、少し苦しかった。――それでも、どれだけ心が乱れていても、ここで逃げられないことはわかっている。


 やがて、セレスティアはチャペルへと通される。厳かなパイプオルガンの音色が響き、列席者たちの視線が一斉に彼女へ注がれた。純白のヴェールを通して見る景色は、どこか遠く霞んでいるように感じる。脇には父が付き添い、儀式にのっとってバージンロードを進んでいく。


 祭壇の前には、エドワードが待っていた。彼は深い青色の正装を纏い、いつもよりもさらに整った雰囲気を漂わせている。冷淡な表情は相変わらずだが、彼の姿を見た瞬間、セレスティアの胸はなぜかぎゅっと締めつけられた。


 (この人が、私の夫になる……)


 そう思うと、ひどく非現実的な感覚に陥ると同時に、胸の奥から熱いものがこみあげてくる。恐怖とも期待ともつかない混濁した感情。何が正解なのか、どう感じるのが正しいのか、わからないまま、セレスティアはゆっくりと歩を進めた。


 神父の前で誓いの言葉を交わす段になると、セレスティアの耳はあまり内容を捉えられなかった。頭の中で回るのは「本当に結婚するのだ」という事実だけ。そんな彼女の手を、エドワードが静かに取る。冷たい指先かと思いきや、意外にも体温が伝わってくる。その温度に、小さく驚いた。


 「誓いのキスを」――神父の声に促されると、エドワードはヴェールを上げ、ゆっくりとセレスティアへ顔を寄せた。瞳を閉じる暇もなく、唇同士が触れ合う。呼吸が止まったような、一瞬の静寂。そして、すぐに引き離された唇は、淡白なタッチだったのに胸が痛いほど高鳴る。


 祝福の拍手が響き渡る中、セレスティアはまるで夢を見ているかのような感覚だった。けれど、手を引いてくれるエドワードの存在感は、紛れもなく現実そのもの。彼の指の強い握りが、これから先、自分はこの男のものなのだと告げていた。


 式を終えた後は、披露宴という名の形式的な催しが執り行われた。各家の貴族たちが口々に祝辞を述べるが、そのどれもが家同士の利害関係をうかがわせるものばかりに思える。エドワードもまた、愛情の言葉を口にするわけではなく、終始表情を変えずに受け答えをするだけだ。それでも、その冷徹さに臆する者は少なく、彼の高貴な雰囲気と圧倒的な地位に皆が畏怖と尊敬の念を抱いているようだった。


 その日の夜、セレスティアは新居となるエドワードの邸で、深々とした静寂を感じていた。華やかな式が終わって一息つく間もなく、彼女は巨大な寝室に通される。高い天井と豪奢な装飾、そして大きなベッド。その薄暗い灯りの中で、セレスティアは自分の鼓動が異様なほど高鳴っているのを感じていた。


 初夜――その言葉を思い浮かべた途端、手足が小さく震える。結婚が決まったあの日から、いずれ訪れるとわかっていた瞬間。それでも、未知の行為への不安と、エドワードがどんな風に触れてくるのかという恐れで胸が締めつけられる。


 ノックの音がして、エドワードが入ってくると、部屋の空気が一気に張り詰めた。彼は晩餐会用の衣装を脱ぎ、シャツとスラックスという簡素な装いに変わっている。けれども、その姿はかえって彼の体つきを際立たせ、どこか危険な魅力を放っていた。


 「怖いか?」


 エドワードが短く問いかける。セレスティアは返事に詰まり、困惑のまま視線を落とした。彼の声は低く、冷たさとわずかな挑発をはらんでいるようにも感じる。


 「……はい。正直、よくわからないんです。結婚というものも、夜の営みというものも……すべてが初めてで……」


 言葉を絞りだすと、彼は嘲笑めいた短い笑みを零した。


 「ならば教えてやろう。……もっとも、逃げるつもりはないだろうな?」


 その問いかけには、甘さと同じくらい危うい響きがあった。“逃げる”という言葉の一方で、セレスティアの逃げ場など最初から存在しないことを暗に示しているようにも感じる。彼女は小さく首を横に振ることしかできなかった。


 「いいか、セレスティア――。俺から逃げることは許さない」


 まるで宣言するかのように告げられたその言葉に、セレスティアはぞくりとした恐怖と、なぜか得体の知れない安堵めいた感覚を同時に覚える。これで自分は、完全に彼の所有物として扱われるのだ――そう理解するのに時間はかからなかった。


 エドワードは彼女の髪をそっとすくいあげ、指先で頬をなぞる。普段は冷ややかで感情を見せないくせに、その指先には驚くほどの熱が宿っている。心臓が限界まで高鳴る中、セレスティアは瞳を閉じた。


 次の瞬間、唇が塞がれ、呼吸する隙すらないほど強引な口づけが降ってきた。最初は戸惑いと恐れが勝り、身体がこわばったが、エドワードの舌先が彼女の唇をこじ開けてくると、不思議なほど身体の力が抜けていく。抵抗する術もわからないまま、彼の呼吸を感じながらキスを受け入れる。


 「ん……っ」


 小さな声が漏れると、エドワードはより深く、執拗に求めてきた。剥き出しの欲望と情熱が、その動作からあふれだす。先ほどまで感じていた氷のような冷徹さはそこにはなく、むしろ炎のような熱さにセレスティアは翻弄される。


 「……優しくはしてやる。だが、覚悟はしておけ。お前はもう俺のものだ」


 彼の言葉に込められた執着は、恐ろしいほど強烈だ。しかし、その声の端々には僅かな優しさすら感じられる。確かに強引で支配的で、異様なほどの所有欲をちらつかせる彼だが、同時にどこか必死な様子すら感じさせるのだ。


 セレスティアはその激情に巻き込まれながらも、自分が体験したことのない甘美な熱さに、思わず意識が遠のきそうになる。これは夢か現実か――わからないまま、けれどもう逃げられないことを悟り、彼女はそっとまぶたを閉じた。


 こうして始まった初夜は、セレスティアにとって、未知なる苦しみと恍惚を同時に教えるものだった。それが幸せなのか、不幸なのか、まだ答えは出せない。だが、エドワードという存在が彼女の人生を根底から覆すであろうことだけは、はっきりと感じられた。


 「俺から逃げることは許さない――」


 その言葉の余韻が、闇夜の静寂とともにセレスティアの耳に焼きつき、これから先の運命を告げる鐘の音のように、心を揺さぶり続けるのだった。



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