翌朝――セレスティアは重く閉じられた瞼をゆっくりと開き、豪奢な天蓋のカーテンが揺れるのをぼんやりと見つめた。どこか異国の香りがする寝室は、彼女にとってまるで別世界だった。暗い室内には淡い朝の光が差し込み、夜の名残を引きずったままの静けさが漂っている。
昨夜の記憶が脳裏に蘇るたび、セレスティアの胸はかすかに痛んだ。初夜の痛みと熱、そしてエドワードの執拗なまでの情熱。あれほど冷酷そうに見える彼が、まるで獲物を離すまいとする猛獣のごとく、セレスティアを求めてきた。その強引さと、時折覗かせる優しさの混在に翻弄され、自分がどうしたいのかすらわからなくなってしまった。頭ではまだ混乱しているのに、身体は彼の手の感触を忘れられず、思い出すたび熱を帯びていく。
「……もう朝なのね」
そっと布団を押しのけると、夜会の名残をほのかに感じさせる肌が空気に触れて少しひんやりした。打ち消すようにセレスティアは小さく息を吐く。ここはもう、父や兄がいる屋敷ではない。自分の“新しい家”、エドワードの邸だ。言い換えれば、今は彼の支配のもとにある世界ともいえる。
ドアをノックする音に続いて、侍女が入室してきた。昨夜の式や披露宴でほとんど話す機会のなかった、エドワードの邸の使用人らしい。落ち着いた雰囲気の中年女性で、その立ち振る舞いには長年仕えてきた経験が滲み出ている。
「奥様、ごきげんよう。朝食のご用意が整いました。お加減はいかがでしょうか?」
奥様――自分がそう呼ばれるのは生まれて初めてで、セレスティアは思わず頰を赤らめながらかすかに微笑む。昨夜まで「お嬢様」としか呼ばれたことがなかったのに、ここでは「公爵家の夫人」として扱われるのだ。変化の大きさを思い知らされるたび、胸がざわつく。
「……ありがとう。大丈夫よ」
セレスティアがそう答えると、侍女は優雅に一礼し、「支度をお手伝いさせていただきますね」と申し出る。まだ慣れない屋敷と、不安定な心。戸惑いを隠しきれないセレスティアを気遣うような、その柔らかな言葉にわずかな安心を覚えつつ、彼女は侍女の手を借りて朝の身支度を整えた。
やがて身支度を終えたセレスティアは、広々とした廊下をゆっくりと歩きながら、案内された部屋へ向かう。その途中、目に入るのは高価そうな絵画や彫刻の数々。壁紙やカーペットに至るまで、どこを見ても高貴な装飾が施されており、まるで王宮の一角にでもいるかのようだ。そんな圧倒的な世界観に飲まれながら、セレスティアは次第に息苦しさすら感じ始める。
「ここが……食堂?」
侍女に案内されて到着した部屋は、セレスティアの想像以上に広大だった。長いテーブルの中央には花が活けられ、繊細なレースのクロスと贅沢な食器が並んでいる。すでにエドワードが席についており、銀のティーポットから自分で紅茶を注いでいた。彼の姿が目に入るやいなや、セレスティアは何を言えばいいのかわからず、立ちすくんでしまう。
「……おはよう、セレスティア」
言葉は短いが、冷たさばかりでもない。エドワードは彼女を見つめ、手で示すように「こちらへ座れ」と促す。足をもつれさせそうになりながらも、セレスティアは彼の正面に腰掛けた。見ると、長いテーブルの両端に座るのではなく、エドワードはあえて彼女の近くに椅子を移動させている。ほんの少し角度を変えれば、肩が触れてしまいそうなほどの距離感だ。
「……よく眠れたか?」
低く落ち着いた声に、セレスティアはどぎまぎしながらも「はい」と頷く。正直、深い眠りについたというよりは、心も体も疲弊しきって倒れるように眠ったという方が正しいかもしれない。それでもエドワードの視線はまっすぐで、彼女の些細な表情すら見逃さないように感じられる。そのことが、セレスティアの胸を余計にざわめかせた。
朝食は、温かいスープや焼きたてのパン、サラダ、フルーツなどがテーブルに次々と運ばれてくる。おそらく邸の料理人たちが腕によりをかけて作ったのだろう。上品でありながら豊かな香りを放つ料理の数々に、セレスティアは胃のあたりがきゅうと締まるような緊張を覚えつつも、一口ずつ口に運んだ。
「食欲がないのか?」
「いえ……緊張しているだけです。すみません」
そう言うと、エドワードは食事の手を止め、そっとセレスティアの皿に目をやった。そして、何かを考えるように瞳を細めると、彼は彼女の皿から小さく切り分けたパンを手に取り、スープを少しだけつけてから自分の口に運んだ。まるで毒見をするかのような仕草に、セレスティアは一瞬驚く。
「この邸の料理は悪くない。慣れればいい。……必要なことがあれば、何でも言うといい」
淡々とした口調なのに、その言葉には奇妙な優しさが含まれていた。初夜で見せつけられたような激しい感情とは違う、どこか父性めいた保護意識すら感じさせる。セレスティアは胸を突き上げる動揺を必死に抑え、ぎこちなく礼を言った。
「ありがとうございます。……すみません、色々と慣れなくて」
「そのうち慣れる。お前は今日から、ここで暮らしていくのだからな」
言葉の端々に感じる「俺のものだ」という前提。まるでセレスティアが独立した意思を持った存在というより、所有物であるかのような響きがある。だが、エドワードなりの気遣いが見え隠れし、セレスティアはどうしても彼を拒絶しきれない。昨夜の荒々しい情熱も、今朝の微妙な優しさも、すべてが揺さぶりとなって心を乱し続ける。
朝食を終えると、侍女が下がり、二人だけが食堂に残された。使用人たちは皆、セレスティアの新たな立場を尊重しているのだろうか。一度も彼女を蔑ろにする様子はなく、逆に緊張感すら漂っている。エドワードはテーブルの隣に立ち、微動だにせずセレスティアを見つめていた。
「……今日から屋敷を案内させよう。勝手がわからなくては不便だろう?」
「はい、よろしくお願いします」
ふと椅子を立ち上がろうとしたそのとき、エドワードがセレスティアの手首を掴んだ。突然の行動に彼女は身を強張らせる。彼は彼女を引き寄せると、至近距離で鋭い瞳を合わせてくる。その表情にはどこか焦燥すら伺えた。
「昨夜、俺がお前に何を言ったか覚えているか?」
「……はい。“逃げることは許さない”って、そうおっしゃいました」
自分の声が微かに震えるのを感じる。エドワードはそれに満足したような、あるいはますます欲望をかき立てられたような色を瞳に宿し、一瞬だけ視線を伏せた。そして、囁くような低い声で続ける。
「そうだ。絶対に逃がさない。お前は、俺の花嫁……いや、俺の所有物だ。わかったな?」
まるで支配の宣言。セレスティアは呼吸を詰まらせながら、ただ黙って頷くことしかできなかった。その瞬間、エドワードは彼女の額にそっと唇を押し当てる。昨夜の激しいキスとは違う、しかし同じくらい執着のこもった行為。逃げ場のない檻の中に絡め取られたような感覚に、セレスティアの胸は得体の知れない熱で溶かされていく。
「……早く案内に行け。侍女が待っているぞ」
そう言い残して、エドワードはセレスティアの手を離した。冷たい空気が流れ込み、解放されたにもかかわらず、彼女はどこか名残惜しく感じてしまう。その矛盾する思いが、自分でも理解できずにやるせなさを感じた。
侍女と合流したセレスティアは、さっそく屋敷の中を案内してもらうことになる。何部屋もある応接間や、図書室、広大な庭などを見て回るうちに、どこもかしこも洗練された美しさを保っているのに気づく。使用人たちは皆、彼女と目が合えば恭しく頭を下げ、新たな主を歓迎するかのように微笑む。けれども、やはりどこか緊張が解けないのか、その笑みには遠慮が混じっているように見える。
少し歩き疲れた頃、侍女が申し訳なさそうに切り出す。
「奥様、もしよろしければ、今後の日々の過ごし方や、邸での行事についても後ほど執事から説明があるかと思います。なにぶん大きな邸ゆえ、すぐにすべてを把握していただくのは難しいかもしれませんが……どうか、焦らずゆっくり慣れていってください」
セレスティアは侍女の気遣いが嬉しく、精一杯の笑みを浮かべた。現実は厳しくとも、こうして優しく接してくれる人がいるだけで、少しだけ救われる。
(それにしても……エドワードは、どんな思いで私を守ろうとしているのだろう?)
己を所有物として扱う彼の言葉を思い出すと、胸は奇妙に高鳴った。愛というものを知らない男だと噂されているのに、それでもセレスティアには彼の中に燃えさかる何かが見える気がしてならない。その“何か”が、彼の執着や孤独の根源なのかもしれない――そう思うと、なぜか放っておけない気持ちが募ってくるのだ。
まるで檻の中に閉じ込められながらも、外へ飛び立とうとはしない鳥のように。セレスティアは、この屋敷とエドワードの存在に囚われていく自分を感じ始めていた。彼から逃れることなど、初夜の時点ですでに不可能だったのだろう。それならば、もう少しだけ――彼が本当に何を求めているのか、知りたいと思ってしまう。
守られることへの安心と、彼が時折見せる危うい光。すべてが絡み合う中、セレスティアの新生活は、ほんの一歩を踏み出したに過ぎない。けれど、その一歩が確実に彼女を深い迷宮へ誘っていることを、まだ自分の中で整理しきれてはいなかった。