屋敷へ来て二日目の午後、セレスティアは図書室の一角に腰掛け、複雑な思いを抱え込んだまま、窓の外を眺めていた。重厚な本棚が何列も並び、膨大な蔵書を誇るその場所には、まるで邸全体の荘厳さが凝縮されているかのような威圧感があった。けれど、セレスティアにとっては、そこがほんの少しだけ落ち着ける空間でもあった。かすかな木の香りや、陽光を柔らかくろ過するステンドグラスの色彩が、彼女の心をほんのわずかに穏やかにしてくれるからだ。
もっとも、“落ち着ける”とはいえ、彼女の心は依然として乱れていた。結婚式からまだ日が浅いというのに、初夜の衝撃的な体験とエドワードの執拗なまでの所有欲が、セレスティアの中で渦を巻いている。彼はとてつもなく強引で、冷酷ですらある。それなのに、時折見せる優しさやどこか必死な視線が、彼女の判断を狂わせるのだ。
この日、セレスティアは少しでも気を紛らわそうと、図書室を見て回っていた。だが、その途中で侍女の一人――先ほどまで屋敷を案内してくれていた女性とは別の若い侍女が、棚の整理をしているのを見かけた。彼女はセレスティアが近づくと、慌てて本を落としかけ、「も、申し訳ありません!」と深々と頭を下げる。セレスティアは「いいのよ」と笑顔で応じながら、彼女が抱える本を手伝おうとした。
「その……奥様、お手を煩わせるわけには……! 私が片付けますから、どうかお気になさらず」
侍女の声は緊張に震えている。セレスティアはそうした遠慮がむしろ悲しく、そっと微笑みかけて自分も一緒に本を棚へ戻していった。もともとセレスティアは、貴族の娘とはいえ下々の者を見下すような性格ではない。両親から冷たく扱われて育ったせいか、人の優しさに飢えており、かえってこうして小さな会話を交わすだけでも落ち着けるのだ。
「ありがとう。手伝ってくれて助かったわ。……ところで、あなたはこの屋敷で長く働いているの?」
「あ、いえ。私はまだ半年ほどしか……。けれど、ここのことは大体わかるようになってきました」
ほんの些細なやりとり。それでも、こうして侍女と話すのは、セレスティアにとって初めてに近い機会だった。彼女は続けて何気なく問いを重ねてみる。
「エドワード様は……普段はどのようなご様子なのかしら。まだ結婚して日が浅くて、私……知らないことが多くて」
この問いに、侍女は一瞬だけ言い淀んだ。まるで答えに困るように瞳を伏せ、落ち着かない様子で本の背を撫で回す。セレスティアは嫌な胸騒ぎを覚え、だがあえて黙って侍女の返事を待った。
「え、エドワード様は……とても優秀で、冷静なお方です。屋敷のことや財政面なども、ご自分で細かく確認なさいますし、使用人の働きぶりを見守ってくださるんです。けれど……」
「けれど……?」
そこで侍女は声をひそめ、あたりを気にするようにしてから口を開いた。
「わ、私も噂でしか聞いたことがないのですが……昔、何度か婚約が破談になったとか、エドワード様に振り回されて身を引いた女性がいたとか……そういうことを耳にしました。まだ私が働き始める前の話らしいのですが……」
セレスティアの胸が一瞬にして重くなる。こうして正面から尋ねたのは今回が初めてだが、彼女も実家にいる頃にエドワードの“冷酷な噂”をいくつか聞いたことはあった。愛人を次々と取っ替え引っ替えしていたとか、ある女性に対しては容赦なく破棄を言い渡したとか、冷たい仕打ちをしたとか――真偽は定かでないにしても、断片的に耳にしていたのだ。
「そ、それに……お屋敷の中でも、エドワード様に逆らう者は少ないです。何かを言おうものなら……首をはねられるのではと恐れる人もいるみたいで……」
声を落とし、侍女は言いにくそうに告げる。その表情から、もしここでエドワードに聞かれでもしたら、処罰されるかもしれないという恐怖が伝わってくる。セレスティアはそんな侍女を気遣うように微笑み、口を挟む。
「ありがとう。話してくれて……。あなたを責めたり、告げ口したりはしないわ。安心して」
「も、申し訳ありません……。奥様に余計な不安を煽るようなことを言ってしまって」
侍女が再び頭を下げて去っていくと、図書室には再び静寂が戻った。セレスティアはしばらく本棚に凭れたまま、動けずにいる。胸の奥がざわめき、視界が少しだけ滲むように感じられた。
(やっぱり……噂は本当なの? それとも過去のこと? 私はどうなるの……?)
昨日、一昨日と触れ合ったエドワードは、噂通りに冷酷だったとも言えるし、彼女を熱く求める情熱的な側面も確かに存在していた。どちらが本当の彼なのか、あるいは両方とも真実なのか――まったくわからない。ただひとつ確かなのは、「彼が並々ならぬ執着を抱えている」ということ。初夜のあの激しさ、朝食時に告げられた“逃がさない”という言葉は、優しげな表情の下に潜む彼の狂気を物語っているようにも思えた。
さらに、過去にどんな女性と関係をもったのか、どうしてそんなに多くの破談や愛人問題が取り沙汰されているのか。セレスティアの胸には新たな疑問と不安が渦巻く。それでも、逃げ出すことなど許されない立場にある以上、彼女はこの屋敷で、そして彼の隣で生きていかなければならない。選択肢など最初から存在しないのだ。
「奥様……?」
不意にドアから声がかかり、セレスティアははっと我に返る。覗きこんだのは先ほどまで案内をしてくれていた侍女で、その表情にはどこか心配そうな色が浮かんでいた。
「具合でも悪いのですか? もし長居なさらないなら、お部屋に戻られたほうが――」
「あ、いえ。大丈夫よ。少し考えごとをしていただけだから……ありがとう」
侍女にそう答えながら、セレスティアは微苦笑した。侍女は明らかにホッとした顔を見せ、「かしこまりました」と言ってから再び下がっていった。屋敷の使用人たちは、皆一様に彼女を“公爵夫人”として扱い、気を遣ってくれている。だが、その背景には「エドワードを恐れている」という共通認識があり、それを否応なく感じ取ってしまうのが苦しかった。
窓辺へ戻ったセレスティアは、外に広がる美しい庭園に視線をやる。手入れの行き届いた花や緑が、まるで絵のように整然と広がっている。けれど、そこに立ち入ることすら、もしかしたら彼の許可なくしては難しいのではないか――そう思うと、自分が自由のない籠の鳥であることを改めて自覚させられるようだった。
「エドワード様は……これから私をどう扱うつもりなのかしら」
ポツリと呟いた言葉は、図書室の静寂に吸い込まれていく。もし、これまで通りエドワードが自分を強引に求め、熱をぶつけてくるのだとしたら――逃れられないのはもちろん、いずれ彼に飽きられたらどうなるのかという恐怖も拭えない。あるいは、ただの所有物として閉じ込められるまま、廃棄される運命なのだろうか。
そんな不安を押し殺すように、セレスティアは自分の両腕をぎゅっと抱きしめた。彼と過ごす日々はまだ始まったばかり。これから何が起こるかはわからない。だが、使用人から聞いた噂が真実ならば、エドワードは決して穏やかな愛だけを与えてくれる男ではない――むしろ、哀しみや恐怖、絶望さえも伴う可能性があるのだ。
(それでも、私は……)
頭を振って雑念を振り払おうとするが、エドワードの指先や低い声、熱のこもった眼差しが、どうしても忘れられない。そこに垣間見えた孤独や、どこか壊れそうな影に惹かれている自分がいるのも、はっきりと自覚していた。
「……私は、どうすればいいの……?」
答えのない問いを抱いたまま、セレスティアはそっと瞳を閉じる。屋敷の外から吹き込んでくる風が、微かにステンドグラスを揺らし、色とりどりの光が床を儚げに染め上げている。まるで、この先待ち受ける運命を暗示するかのように――美しくも危うい世界が、その扉を大きく開け放ってセレスティアを飲み込もうとしていた。