翌朝、わずかな眠りの名残を感じながらセレスティアはゆっくりと身支度を整えた。エドワードと結婚してから数日が過ぎたものの、まだ彼女の心には奇妙な息苦しさがまとわりついて離れない。彼がもたらす執着や熱は、決して心地良いだけのものではなかった。まるで檻の中に閉じ込められたような閉塞感を覚えながらも、どこか彼を放っておけない自分がいるのも事実だ。
朝食を済ませた後、エドワードは使用人に指示を出しながら足早に執務室へ向かった。彼は多忙らしく、今朝もセレスティアに最低限の言葉をかけただけで執務に没頭するらしい。昨夜は短いながらも濃密な時間を過ごしただけに、その落差に戸惑いはするが、セレスティアとしても正直助かる部分があった。人の心を読もうとするかのようなあの鋭い瞳に一日じゅう追いかけられていては、息が詰まってしまうだろう。
「奥様、もしお時間がございましたら、屋敷の中をご覧になられますか? まだご案内できていない場所もございますので」
控えめに声をかけてきたのは、先日から世話をしてくれている侍女だ。屋敷のあらゆる部屋を細やかに説明してくれているが、それでも隅々まで見て回るには相当な日数がかかるほど、邸は広大だった。セレスティアは「ぜひお願いしたいわ」と微笑み返し、彼女の後ろについて歩き始める。少しでも今の息苦しさから気を紛らわせたいという思いもあった。
侍女とともに幾つもの廊下や部屋を巡るうち、セレスティアはふと気になる扉を見つけた。装飾が施された扉にしては地味な色合いだが、なぜか他の部屋とは少し違う空気が漂っている。どうやら侍女もそこは案内するつもりがないのか、意識的に通り過ぎようとするようだった。
「ねえ、ここは……?」
セレスティアが足を止めて尋ねると、侍女は少しうろたえた表情を浮かべてから、視線を落とす。
「そちらは、エドワード様の私室でございます。普段は執務室のほうを使われることが多いのですが、こちらは――いわば“隠し部屋”のようなもので、あまり人を寄せつけない場所なのです。失礼ながら、奥様といえど……立ち入るのははばかられるかと」
私室――その言葉に、セレスティアは胸の奥がざわめくのを感じた。結婚して夫婦となったはずなのに、彼が自分だけの空間を秘めているという事実が、少し寂しくもあり、そして逆に知りたい欲求をそそる。エドワードという人物をもっと理解したい。そんな思いが、彼女を扉へと駆り立てた。
「……ちょっとだけ、中を見てもいいかしら。もちろん長居はしないわ」
「で、ですが……」
侍女は言葉を濁すが、セレスティアが「大丈夫よ。何かあっても私の責任にするわ」と笑顔で告げると、結局それ以上は強く拒むことはできなかったようだ。かといって彼女自身が扉を開ける勇気はないらしく、侍女は「私は少し離れたところでお待ちしております」と言い残し、急ぎ足で去っていってしまう。
静寂が戻った廊下で、セレスティアは一人きりになった。少しだけ戸惑いを覚えながらも、意を決して扉に手をかける。幸いなことに鍵はかかっておらず、わずかな軋みとともに開いたそこは、埃の匂いこそ感じられないものの、確かに人の気配の希薄な部屋だった。
室内は薄暗く、窓は小さく閉ざされている。煌びやかではないものの、必要最低限の調度品だけが置かれ、殺風景な印象を受ける。壁沿いには書棚やキャビネットが並び、デスクの上には分厚い本が無造作に積み上げられている。その光景を見回すうち、セレスティアは胸の奥で言いようのない悲しさを覚えた。ここには普段のエドワードの“華麗な冷徹さ”とは別の、隠された孤独が垣間見えるように思えたからだ。
足音を消すように歩み寄り、デスクの上をそっと覗き込んでみる。無機質な洋書や書類の束の下には、紐で結わえられた手紙のようなものが見えた。もしかすると仕事の書簡かもしれない――そう思いつつも、セレスティアはつい好奇心を抑えられず、手を伸ばす。
やけに古びた紙質。表面には子どものような走り書きが残されている。そこには「父へ」「母へ」と書かれた言葉と、ぎこちない筆跡が綴られていた。どうやらエドワードが幼い頃に書いた手紙や絵日記のようだ。そして、その隣には「母の日記」と表書きされた薄いノートもある。
(エドワード様の……幼少期の記録?)
思わず息をのむ。家族への思いが込められた私的な文章なのだろうか。――ここで引き返すべきかもしれない。だが、セレスティアの指は、まるで何かに誘われるようにその紙束をほどき、数枚の手紙をめくっていた。
読み進めると、そこにはつたない言葉で「いつか父さまと狩りに行くのが楽しみ」「母さまに褒められるように勉強をがんばる」など、幼いエドワードの無邪気な願いが綴られている。しかし、それらがすべて途中で途切れ、文章の最後には「どうして僕のことを見てくれないの?」と、涙で滲むような悲痛な言葉が綴られていた。
(どうして……こんなにも、悲しい――)
エドワードが抱える孤独は、もしかすると家族との関係に起因するのかもしれない。彼の過去がどうであったのか、詳細はわからない。けれど、この手紙が示すのは“幼いエドワードが必死に愛を求めていた”という事実だ。今でこそ冷酷に見える彼が、かつてはこんなにも純粋に誰かの愛情を渇望していたのだと知り、セレスティアの胸は締めつけられる。
さらに、脇に置かれていた母の日記にちらりと目を走らせると――そこには「エドワードがまた熱を出した。夫(エドワードの父)は仕事ばかりで、子どもを気にかける様子がない」「この子は寂しそう。どうしたら明るく笑うようになるのかしら」といった記述が並んでいた。愛はあったのかもしれないが、満たされたとは言い難い内容だ。その痕跡が、この私室に息づく鬱屈とした空気の正体なのだろうか。
「――セレスティア?」
不意に背後から声がして、彼女は思わず手紙を落としかけた。振り返ると、そこには険しい表情を浮かべたエドワードが立っている。いつからそこにいたのか、その瞳には冷たく鋭い光が宿っていた。どうやら彼は執務を切り上げて、ここへ戻ってきたらしい。逃げ場のない緊張が一気に押し寄せ、セレスティアは咄嗟に言葉を失う。
「なぜ勝手に、俺の私室に入った?」
冷ややかな声が部屋に響く。手紙を握りしめたセレスティアは、蒼白な顔で言い訳を探すが、まともな言葉が浮かばない。まさか、こんなにも早く見つかるとは思わなかった。エドワードの幼少期の手紙を握りこんでいる自分の姿が、彼の目にどう映っているのかを考えると、全身の血の気が引いていく。
(これは……見つかってはいけないものを見てしまったのかもしれない)
頭の中で警鐘が鳴り響く。彼の頬をかすめる微かな陰りは、怒りとも悲しみともつかない複雑な色を帯びていた。セレスティアが唇を震わせながら、一歩、後ずさる。まるで猛獣の檻の中で遭遇したような恐怖。しかし同時に、彼の過去を知ってしまった今、“彼を見捨てたくない”というおかしな衝動も生まれ始める。
「……エドワード様。ごめんなさい。わたくし、勝手にここへ入ったのは軽率だとわかっていました。けれど、あなたのことを知りたかったんです」
震える声で、なんとかそれだけを口にする。短い言葉に込めた思いがどこまで伝わるのかはわからない。だが、このまま何も言えないまま怯えて逃げるなど、彼の孤独をさらに深めるだけではないか――そんな確信めいた思いがセレスティアを突き動かしていた。
すると、エドワードは彼女の手から手紙を奪い取るようにして、乱暴に紙束をまとめる。視線は相変わらず冷たく、怒りの炎が滲んでいるようにも見えた。
「勝手に触るなと言いたいところだが……お前はもう俺の嫁だ。とはいえ、ここはまだ“俺だけの場所”だ。そう安易に足を踏み入れるな」
吐き捨てるような口調。その一方で、手紙を大事そうにかき抱く様子からは、彼の内側に踏み込まれたことへの動揺が透けて見える。まるで幼い自分の弱みを見られてしまったかのように、エドワードは苦しそうに眉をひそめていた。
「すみません……でも、私は――」
セレスティアが続きを言おうとした瞬間、エドワードは激しく扉を閉めると、彼女の腕を引いて部屋を出るように促した。彼の力は容赦がなく、セレスティアは驚きと恐怖に飲み込まれそうになる。しかし、その手の震えからは、彼自身が何よりも傷つきやすい存在であることを、まるで証明しているかのようだった。
結局、セレスティアは一方的に“私室立ち入り禁止”を言い渡され、謝罪の言葉を述べる隙も与えられないまま、その場を去るしかなかった。薄暗い廊下で、彼女は静かに息を整える。エドワードの過去に触れてはいけない――そんな警告が彼の目に宿っていたようで、セレスティアは強く胸を締めつけられた。
(わたしはあの人のなにを見てしまったのだろう。どうしてこんなにも……悲しそうな顔をしていたの?)
愛されることを必死に願った幼い彼の面影と、今の執着しがみつくような彼が結びついて、セレスティアの中では消えない疑問が大きく膨れ上がる。だが、答えを知りたいと願う彼女に対して、エドワードは強固な“壁”を築いている。
それでも、手紙に記されたあの叫びが脳裏から離れない。――どうして僕のことを見てくれないの? かつて幼い彼が抱えた孤独と痛み。それが今の彼を作り上げているのだとしたら、自分は彼の“何”になれるのだろうか。所有物以上の存在として、少しでも彼を救うことができるのだろうか――。
エドワードの私室で目にした手紙は、セレスティアに大きな動揺を与えると同時に、彼を理解したいという強い思いを呼び覚ましていた。まさに「覗いてはいけない場所」を覗いてしまった罪悪感と、「知ってあげたい」という葛藤。自室に戻ったあとも、その思いはずっと胸を支配し続ける。彼女はまだ、これが大きな嵐の前触れに過ぎないことを知らない。けれど、この出来事がきっかけで、エドワードの“心の檻”にいっそう深く足を踏み入れてしまったのは間違いなかった。