セレスティアは自室の窓辺に佇んでいた。灰色がかった空が夕刻の陽射しを拒むように広がっている。午前中の出来事――エドワードの私室へ足を踏み入れ、彼の幼少期を物語る手紙を見てしまった一件が、まるで胸の奥へ棘のように突き刺さり続けていた。彼にとっては“他人に見られたくない記憶”だったのだろう。だからこそ、見つかった瞬間の彼の冷たい怒りと、どこか悲痛な表情が忘れられない。
(きっと、ひどく傷つけてしまった……)
そう思うと胸が苦しくなる。幼い頃の彼が求めていたものは愛情だったのかもしれない。そして今もなお、それを渇望しているように見えるのに、なぜ彼はこんなにも所有欲ばかりを振りかざすのか――セレスティアは頭の中で幾度となく問いを繰り返す。
一方で、言いようのない後ろめたさと不安が、じわじわと心を侵蝕してくる。あのとき、せめてきちんと謝罪し、彼の心に寄り添う言葉をかけられなかっただろうか。けれど、エドワードは彼女を引きずるように私室から連れ出し、命じるように「二度と勝手に入るな」と言うだけで、そのまま立ち去ってしまった。
執務室に戻ったきり、彼はセレスティアの前に姿を見せていない。夕食の時間が近づいても、彼が戻る気配はないと侍女たちは口にする。もしかすると、彼の怒りはまだ解けず、セレスティアの顔など見たくないと思っているのかもしれない。そう考えただけで、胸がひどく痛んだ。
「……私のせい、よね。あの手紙を勝手に見たんだから……」
窓に映る自分の姿に向かって呟く。涙がこぼれそうになるのをこらえながら、セレスティアはそっと瞳を伏せた。ドレスの裾をきゅっと握りしめ、もう一度謝罪する機会が欲しいと祈るように願う。彼の怒りの奥にあるのは、本当に恨みや敵意だけなのだろうか。わからない。けれど――彼の孤独や傷つきやすさが、わずかに覗いていたのも確かだ。
そうして物思いに沈んでいると、不意に激しい足音が廊下の奥から聞こえてきた。誰かが明らかに荒々しい足取りでこちらへ向かってくるのがわかる。次の瞬間、セレスティアの部屋のドアが乱暴に押し開けられた。
驚いて振り返ると、そこにはエドワードが立っている。やはり彼は怒りを抱えているのか、鋭い眼光でセレスティアを睨みつけ、その唇は固く結ばれていた。執務を終えたのか、黒いジャケットは片手に握りしめられ、襟元のボタンも外されていて、普段の端整な姿より少し乱れた印象を受ける。
「……どうして、私室に入った?」
低く落ち着いた声の中に怒気が孕んでいて、セレスティアの心臓が跳ねあがる。予想はしていたが、それでもこんな形で問い詰められると身がすくんでしまう。彼はドアを荒っぽく閉め、歩み寄ってきた。まるで逃げ場を与えないかのように、セレスティアの目の前まで迫る。
(怒っている……当たり前よね……)
セレスティアは唇を噛みしめ、震える声で答えた。
「……ごめんなさい。本当に、軽率だとわかっていました。でも、私は……あなたのことを、知りたかったの」
彼の視線は冷たく射すくめるようだが、その奥にはどこか苦しげな色も宿っている。彼女の言葉が効果をもたらすどころか、さらに彼の怒りを煽ってしまったのか、エドワードは忌々しげに息をつくと、セレスティアの手首を掴んでぐいと引き寄せた。
「……知りたい? 俺の何を、勝手に覗き見るっていうんだ? あれは――俺の過去に踏み込むようなものじゃない。どうして放っておいてくれなかった?」
間近で見る彼の瞳は、冷たい湖面のように凪いだ色をしていると思いきや、その奥底にはどうしようもない狂おしさが渦巻いている。セレスティアは腕に走る痛みに表情を歪めながらも、視線を外さずに答えた。
「放っておけなかった……。あの手紙には……幼いあなたの声があって。あなたがどんな風に育ったのか、少しでも知りたかったの。それがいけないことだとわかっていても、どうしても……」
そこまで言うと、エドワードは彼女の手首をさらに強く握りしめた。指先が食い込み、痣になりそうなほどの痛みが走る。しかしその痛みに堪えて見上げると、彼の瞳からはわずかばかり涙に似た光が滲んだように見えた。怒りと動揺が入り混じり、今にも感情が暴発しそうなほど張り詰めているのが伝わってくる。
(本当は……怒りだけじゃないのよね。何か――何かが苦しいのよ、あなたは……)
沈黙が重くのしかかる。エドワードは言葉を失ったようにセレスティアの瞳を覗き込み、わずかに唇を噛んだあと、彼女の身体を乱暴に引き寄せると、その胸に抱きすくめた。セレスティアは思わず息を飲む。先ほどまでの鋭い怒りが嘘のように、その抱擁は強く熱を帯び、まるで何かにすがるような切実さが含まれていた。
「……な、何を……」
混乱するセレスティアの耳元に、低く苦しげな声が届く。
「放っておけ……黙って……。黙っていろ。もう何も言うな」
命令とも懇願ともつかない彼の言葉。戸惑いながらも、セレスティアは彼の腕の中で声を失った。身体がこわばる一方で、彼の胸に頬を押しつけられると、ドクドクと激しく鳴る心音が伝わってきた。怖いほどに高鳴る鼓動――怒りか、それとも別の感情なのか、判断がつかない。
だが、その抱擁の奥にあるのは紛れもなく“人肌のあたたかさ”だった。普段の彼は氷のように冷たく、周囲を拒むように見えるのに、こんなにも熱く脈打つ体温を持っていることが切ないほど感じられる。セレスティアは、必死に言葉を探しながらも結局なにも言えないまま、彼の腕に身を預けるしかなかった。
「……どうして、わざわざ俺の過去なんて知ろうとするんだ」
しばらくしてから、エドワードは小さく呟くように問いかけた。その声には、怒りが混じった荒々しさの裏で、縋るような弱々しさが潜んでいる。あの手紙を見られたことで、幼い頃の自分を覗き見られてしまった。彼が長い間、誰にも触れさせずにきた痛みを穿り返された――そんな戸惑いや不安が、言葉の端々ににじみ出ているようだった。
セレスティアは彼の胸に頬を押しつけられたまま、少しだけ勇気を振り絞るようにして口を開く。
「あなたのことを……知りたいから。夫婦だから……じゃないわ。そういう形式的なものじゃなくて……私が、あなたをもっと……」
“理解したい”と続けようとして、声が詰まる。エドワードは黙ったまま、セレスティアをさらに強く抱きしめる。その腕の力は痛いほどで、彼の感情の昂りを物語っていた。だが、そこにあるのは恐怖だけではないとセレスティアは感じ始める。どこか、絶望と安堵の入り混じった心情が、抱擁のぬくもりとして伝わってくるのだ。
「あの部屋のものは……全部、昔の俺だ。もう捨てたいくらいなのに、捨てられなくて……」
ぽつりと落ちた言葉に、セレスティアは小さく息を呑む。その感情は、どうにもならない悲しみや悔しさ、寂しさの堆積なのだろう。誰にも理解されず、誰も頼れず。それでもどうにか自分を支えてきた証が、あの部屋には詰まっているのだ。
彼女は無意識に彼のジャケットを掴む。そのまま、できるだけ穏やかに、けれどはっきりとした声で告げた。
「……捨てなくていいと思う。あなたが過去に傷ついたり、愛を求めたりした証だもの。それを全部なかったことにしたら……あなた自身が否定されてしまうでしょう?」
エドワードは微動だにせず、彼女を抱きしめる腕にさらに力をこめる。先刻まで感じていた怒りは、少しずつ別の色に変わっているようだった。やがて彼は顔を伏せ、セレスティアの肩口に額を押しつけるようにして、声にならない苦しみを押し殺しているかのように見える。
(こんなにも不器用にしか愛を求められない人なんだ――)
その事実をひしひしと実感すると、セレスティアの胸も痛む。彼の執着は、言い換えれば“誰かを失うこと”への極度の恐れとも言えるのかもしれない。愛される自信を持てなかった子どもの頃の延長線上で、生きてきた彼――。そんなふうに思うと、セレスティアは彼の冷たさや粗暴さを責めきれなくなってしまう。
長い沈黙を破るように、エドワードはようやく腕をゆるめた。彼の瞳は、感情を抑えきれなかった名残なのか、わずかに潤んでいる。セレスティアはそれを見た瞬間、心が切り裂かれそうな悲しみと愛しさを同時に感じた。
「……俺は、馬鹿だな。どうしようもない。お前が手紙を見たとわかったとき、怒りが先に立って、壊してしまいそうで……怖かったんだ」
その言葉は、自分の暴走する感情に対する恐れを示しているようでもあった。セレスティアはほっと安堵を覚えながら、そっと微笑みかける。彼女の胸の奥には、やはり恐怖もあるのに、それ以上に「近づきたい」という気持ちが強く芽生えていた。
「大丈夫……あなたは壊れたりしないし、私を壊したりもしない。もし私が危ういと思ったら、逃げることもあるかもしれないけれど……今は、逃げないわ」
不意に浮かんだ言葉を紡ぐと、エドワードは少しだけ息を呑むような素振りを見せた。まるで、その返答を想像していなかったかのように。
やがて彼は険しい表情を和らげ、ゆっくりとセレスティアの髪を撫でる。その仕草は、ほんのわずかに震えているが、優しさと欲望の中間で逡巡しているようにも見える。
結局、その晩、二人は言葉少なに互いの存在を確かめ合うように過ごした。エドワードの怒りは完全には解けていないのかもしれない。だが、「どこかに行ってしまうな」という彼の執着と、「この人を見捨てたくない」というセレスティアの思いが、暗い夜の静寂を満たしていた。
自室に戻り、重い扉を閉めたセレスティアは、はっと息をつく。つい先ほどの彼の抱擁の余韻が、まだ身体に纏わりついて離れない。荒々しくても、そこにはどうしようもなく“人恋しさ”が滲んでいた。
(彼は、本当は何を望んでいるんだろう……。私を、ただ所有したいだけ? それとも――)
ベッドに腰掛け、窓の外を見つめる。黒い夜の帳が降りてきているのに、胸の奥は不思議と熱を持って脈打っていた。これまで感じたことのない執着の炎。それは、彼にだけでなく、自分にも宿っているように思えてならない。
確かに怖い。けれど、同時に彼にもっと近づきたい欲求が膨れ上がる。孤独を抱えたまま鋭い爪を振りかざす彼を、どうにかして抱きしめたいと思ってしまうのだ。もしかすると、これは危険な感情なのかもしれない。それでも――後戻りはできないと、セレスティアの本能が告げている。
こうして彼の怒りと執着に怯えながらも、その胸に強く抱き寄せられたセレスティアは、いよいよエドワードという檻の深奥へ誘われていく。そこに待つのは、今まで知り得なかった愛の形なのか。それとも、さらなる狂おしい束縛なのか――。
夜は静かに更けていくが、セレスティアの胸の鼓動は静まる気配がなかった。ほんの少しだけ触れることができた彼の弱さが、彼女を強く惹きつけてしまっている。まるで危険な毒を含んだ花に触れるような、後戻りのできない道を、今まさに歩み始めたのだと感じながら。