翌朝、薄く雲のかかった空を眺めながら朝食を終えたセレスティアは、少し気まずい心地のままエドワードの姿を探した。昨夜、彼はいつになく荒々しい感情を露わにしながらも、その裏にある脆さを垣間見せてくれた。けれども、夜が明ける頃にはまたいつもの“冷酷な公爵家の当主”という仮面をかぶってしまうのではないか――そんな不安が拭えない。
侍女に尋ねると、エドワードは朝早くから執務室にこもっているという。セレスティアは「あまり邪魔をしたくない」と告げ、自分は屋敷の中を一人で散策することにした。何か、少しでも彼を理解する手がかりがあればいい。そう考えずにはいられないほど、彼の抱える孤独が気になっていた。
大理石の廊下を歩き回った末、セレスティアはやや古めかしい作りの応接間に迷い込んだ。そこは過去の当主たちが愛用していたらしく、古い絵画や調度品がずらりと並んでいる。どこか薄暗く、いまはほとんど使われていないのか、使用人たちの気配も感じられない。少し胸がざわつきながら辺りを見回していると、ふと背後から控えめに声がかかった。
「奥様。こんなところにいらしたのですね。お探ししておりました」
振り返ると、そこには初老の執事が立っている。名前はレオン。エドワードの父親が現役で公爵だった頃からこの邸に仕えており、長年にわたって一家を見守ってきたらしい。灰色が混じった髪をびしっと撫でつけ、常に凛とした立ち居振る舞いを崩さないが、その瞳には穏やかな優しさが宿っている。
「レオンさん……ごめんなさい、勝手にここへ入ってしまって。今は使われていない部屋、ですよね?」
セレスティアが申し訳なさそうにそう言うと、レオンは静かに笑みを湛え、深々と頭を下げた。
「いえ、奥様ならば問題はございません。ただ、もし埃でお気を悪くされたらと心配しておりました。なにぶん、ここは当主様が滅多に入られない場所ですので」
その言葉に、セレスティアはわずかに胸を締めつけられる思いがした。エドワードはこの部屋を訪れない――彼は過去を振り返ることをあまり好まないのかもしれない。そういえば、あの私室の出来事も含め、エドワードは彼自身の過去を閉ざそうとする節があるように思える。
「レオンさんは……エドワード様の小さな頃から、ご存じなのですか?」
思い切って尋ねてみると、レオンは一瞬だけまぶたを伏せた後、静かに息をついた。
「ええ、もちろんです。私が初めてお屋敷に勤めた頃、若様――当時のエドワード様はまだ幼子でした。奥様はご存じないかもしれませんが、エドワード様は幼い頃から少々孤独を抱えておられた。いえ……“少々”ではありませんね。相当に……」
そこまで言うと、レオンは言葉を飲み込み、廊下のほうへ視線をやる。使用人が通りかかる気配がなかったことを確認すると、落ち着いた声で続けた。
「今の当主――先代公爵は、エドワード様がご幼少の頃から政務や社交で多忙を極めており、ほとんど家庭を顧みる時間がございませんでした。もちろん、エドワード様に対しても決して無関心だったわけではないのですが……幼い子どもからすれば、父上に愛されていないと思っても無理はないほど、触れ合いは少なかった」
セレスティアの脳裏に、あの手紙の文面が浮かぶ。「どうして僕のことを見てくれないの?」――幼いエドワードの叫び。あれは、実際に体験してきた孤独の深さそのものを表しているのだろう。
「では、お母様は……?」
思わず問いを重ねる。レオンは微かに目を伏せ、ためらうように口を開いた。
「エドワード様の母上も、決して愛情がなかったわけではありません。ですが……お体があまり丈夫ではなく、病床に伏せることが増えてしまいましてね。エドワード様がまだ少年の頃にお亡くなりになられたのです。それまでの数年間も、満足に一緒に過ごすことは叶わなかったようで……それが原因で、さらに親子の溝が深まったとも言われています」
幼くして母を亡くし、父からは仕事優先の姿勢を見せられ。愛に飢えたまま育った彼の姿が、セレスティアの胸に苦い痛みとなって突き刺さる。愛されることを知らないまま、大人へと成長することの辛さを想像すると、胸が締めつけられるようだった。
「……そうだったのですね。エドワード様が、あんなに……時々、すごく乱暴で、でもどこか悲しそうなのは、きっと……」
言葉が上手く続かない。レオンは悲しげに目を細め、「お気づきでしょうが」と苦笑いを浮かべる。
「私たち使用人から見ても、エドワード様は非常に複雑な心を抱えておられます。優秀であるがゆえに周囲から期待され、けれど幼い頃から『愛される』という実感を得られずにきた。その空白を埋めるために、どうすればいいのかわからないまま、今に至るのでしょう。……ときに冷酷と呼ばれる行動をされるのも、失うことを恐れての裏返しではないかと私は思っています」
(失うことを恐れる――)
セレスティアは思わず胸に手を当てた。エドワードの強烈な執着は、つまりは「二度と自分から何か大切なものが離れていくことを許さない」という意識の表れなのかもしれない。歪んだ形とはいえ、それが彼の「愛し方」なのだろうか。
「……少しだけ、わかった気がします。エドワード様が、私に“逃げることは許さない”と言ったとき、その言葉の裏には、愛されないことへの恐怖が隠れているのかもしれないって」
セレスティアが沈んだ声で呟くと、レオンはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「ええ、きっとそうだと思います。もちろん、これは私の主観ですし、事実かどうかはわからない。しかし、幼い頃からずっと見守ってきた私としては、エドワード様の本質は“冷酷”などではなく、“不器用に愛を欲している人”だと言いたいのです」
その言葉が、セレスティアには痛いほど胸に響いた。確かに彼の行動は支配的で、彼女に自由を与えず、所有物のように扱う部分がある。それはどこか暴力的ですらある。けれど、真の残酷さというよりは、“自分に残された手段”を必死に振りかざしているようにも思えてしまう。
「レオンさん……ありがとうございます。私、あの人の過去を知ったからといって、何ができるのかまだわかりません。でも、どうにかしてあの人を理解したいんです」
セレスティアの決意めいた言葉に、レオンは静かに微笑み、「奥様なら、きっと」と優しい声で返す。そこには長年の仕え人としての客観性と、主を案じる温かさが滲んでいた。
すると、廊下の向こうから軽やかな足音が聞こえる。姿を現したのは若い侍女だった。彼女はセレスティアの姿を見つけると、少し驚いたように目を丸くし、それから慌ててお辞儀をする。
「奥様、ご在室でなによりです。実は……エドワード様がお呼びです。どうやら執務室で何かお話があるとか」
その報せに、セレスティアの胸は小さく高鳴った。彼女はレオンに一礼し、早速侍女に導かれてエドワードの執務室へ向かう。今まで知ったばかりの“彼の孤独な過去”が頭の中で渦を巻くが、むしろ今ははっきりと確かめたい気持ちが強い。自分が、どういう形であれ、彼を支えてあげることができるのかもしれないと信じたいのだ。
執務室の扉に到着すると、侍女は「どうぞ」とだけ囁き、ノックをして扉を開く。セレスティアが中へ足を踏み入れた瞬間、エドワードが書類から顔を上げて彼女を見る。その瞳は相変わらず冷静で、だが昨夜や今朝までの険悪な雰囲気は少し和らいでいるようにも感じられる。
「……来たか。少し話したい。座れ」
短い命令形。でも、セレスティアは「はい」と柔らかい声で答え、彼の正面に腰を下ろした。机の上には山積みにされた契約書や諸々の書類。それを脇へ寄せると、エドワードは微かに疲れを滲ませた表情で彼女を見つめる。
「お前は……俺を恐れているか?」
不意にそう問いかけられ、セレスティアは少しだけ息を呑んだ。もちろん、彼の強引さや冷酷にも見える振る舞いに怯えたことは事実だ。けれど、先ほどレオンから聞かされた過去が胸にある今、その問いには簡単に“Yes”とは言えない。
「……恐れていないと言ったら嘘になると思う。でも、あなたをもっと知りたいと思う気持ちのほうが強いわ。だから……あなたが私に何を求めているのか、ぜひ聞かせてほしい」
エドワードは短く息をついてから、彼女の目をまっすぐに見据えた。その視線は強い意志を感じさせる。まるで“俺についてこられるのか”と問いかけるように。セレスティアはその圧に負けないように背筋を伸ばし、彼の言葉を待つ。
かつては、愛を知らない子どもだった彼。もしかすると、いまも――愛の真実を手探りしている最中なのかもしれない。その事実を知ったセレスティアの心には、同情だけではない、もっと深く暖かな感情が芽生え始めていた。
(もし私が、あの人がずっと欲しかった“愛”を、ほんの少しでも与えられるとしたら――)
そんな希望が、彼女を駆り立てる。エドワードの孤独を理解するほど、彼に向けて手を伸ばさずにはいられないのだ。歪んだ執着でも、憎しみに近い怒りでも、すべては彼が過去に失われてしまったものを埋めようとする叫びなのだと思えば、恐怖を感じながらも同時に胸が熱くなる。
「俺が、お前を離さない理由――知りたいと言ったな」
エドワードの口から紡がれた言葉に、セレスティアの心臓が大きく跳ねる。果たして、どんな真実がそこに潜んでいるのか。暗く張り詰めた執務室に、彼の低く落ち着いた声がこだまする。彼が愛されることに飢えてきた真相を、セレスティアはもう少しで掴めそうな気がしてならなかった。