荒れ果てた林道を息も絶え絶えに駆け抜けながら、セレスティアは必死に後方を振り返った。馬車からの逃走は成功したものの、追ってくる敵の足音はまだ途切れず響いている。まるで飢えた狼の群れが獲物を追い詰めるかのごとく、周囲に散らばった男たちが声を掛け合い、彼女の進路を遮ろうと連携していた。足場が悪い藪の中、腕は縛られたまま。何度も転びかけるたび、痛みと絶望感が胸を抉る。
(こんなところで終わりたくない……! 私には、まだやるべきことがある……!)
何よりもエドワードの顔が脳裏に浮かぶ。彼がどれほど慟哭し、狂おしいほどの怒りを抱くか考えるだけで、さらに足を止めるわけにはいかなかった。仮に再び敵の手に落ちたとしても、もう一度逃げ出すチャンスを狙うしかない。セレスティアは自分の歯を食いしばり、地面を蹴って前に進み続けた。
やがて、背後から迫る男のうちの一人が、彼女との距離を急速に縮めてくる。最初は混乱していた彼らも、ようやく態勢を立て直して追跡を本格化させたようだ。ぬかるんだ泥に足をとられたセレスティアがわずかに減速した瞬間、男が勢いよく飛びかかる。
「逃がすかよ……!」
鋭い声とともに、セレスティアの背中に衝撃が走った。地面へ突き飛ばされ、反射的に両腕を庇おうとしたが、縛られたままではクッションにならない。荒れた土と石がむき出しの地面に頰を打ちつけ、視界が一瞬真っ白になる。肺から空気が抜け、悲鳴を上げる余裕さえなかった。
「ちくしょう、なんて手間を取らせるんだ……!」
男の荒い息遣いが耳元で響く。背中に体重をかけられ、身動きが取れない。セレスティアはぶるぶると震えながらも抵抗しようとするが、強い力で身体を押さえつけられ、どうにもならない。目の端には小さな川か湿地のようなものが映るが、そこへ転がり落ちても逃げ切れるかはわからない。
そのとき――。
「セレスティア……!」
呼び声が風を切って届いた。思わず涙が浮かびそうになる。声の主は、間違いなくエドワードだ。彼女が駆け寄りたいと思った瞬間、男は振り向きざまに忌々しそうな呻き声を上げる。そして次の瞬間、「ガッ!」という激しい音が響いた。男が一瞬にして体勢を崩し、セレスティアから離れる。
「この野郎、どこから……ッ!」
呻きながら地面に倒れこんだ男の背後には、剣を握りしめたエドワードの姿があった。その眼差しは見る者を凍りつかせるほどに鋭く、まるで狂気をはらんだ炎が宿っているかのようだ。いつもは整然とした装いのはずが、今は激しい戦いの途中らしく、襟元は乱れ、黒髪もところどころに土と血が混じっている。
「セレスティアを放せ。――いや……今さら放しても無駄かもしれないな」
声は低く沈み込み、あふれんばかりの殺気を孕んでいた。エドワードは足もとで唸る男を一蹴し、再び剣先を向ける。周囲にはまだ二、三人の男がいて、彼らもエドワードの出現に驚きながら、即座に武器を構えた。セレスティアは地面の上で荒い呼吸を繰り返しながら、エドワードが必死にここを探し回ってくれたのだと気づいて胸が苦しくなる。
(ありがとう……でも、危ない……! 相手はこんなにいるのに……)
セレスティアが声を出そうとしたそのとき、男たちの一人がエドワードへ襲いかかった。さほど広くもない林道で、二人の剣と剣が鋭い音を立ててぶつかり合う。敵が複数いるのに、エドワードは一歩も引かず、その剣筋は素人の目で見ても尋常ではなかった。彼が鍛え上げた剣の腕と圧倒的な気迫が、複数の敵を相手に互角以上の戦いを見せている。
「お前らなど、俺の怒りに触れるには値しないが……セレスティアを傷つけた報い、必ず受けさせてやる!」
怒りの叫びとともに、一人の男の剣を弾き飛ばし、すかさず蹴りを叩き込む。男がよろけると、エドワードは間髪を入れず腕をひねり上げて投げ飛ばし、さらに剣の柄で首筋を強打して失神させた。あまりにも素早く、容赦のない動きに、セレスティアは息を呑む。まるで冷静さを保ったまま“殺意”だけを研ぎ澄ませたような戦い方。彼は普段の洗練された雰囲気とはまったく異なる、暴力的で狂気的な一面を顕にしていた。
次の瞬間、残りの男が隙を突くように背後から襲ってきたが、エドワードは獣じみた勘でそれに気づき、逆袈裟に剣を払う。薄い悲鳴が上がり、男は肩口を斬り裂かれて吹き飛ぶように倒れ込む。ぐったりした様子を見るに、決定的なダメージを負ったのは明らかだ。
(エドワード様……そこまで……)
セレスティアは恐怖と安堵が入り混じった思いを抱えながら、彼の背を見つめる。敵を倒した彼はまだ息を荒らげたまま、狂気に染まった瞳で辺りを見回し、もう一人いないかを探しているようだ。地面には血の飛沫が散り、倒れた男たちが苦しげに呻いている。その光景はあまりにも凄惨で、セレスティアは思わず全身が震えた。
やがて、エドワードはセレスティアのほうへ振り返った。瞳の奥に宿っていた殺意が微かに揺らぎ、彼は一気に走り寄って彼女を抱き上げる。両腕がまだ縛られたままの彼女を見て、歯ぎしりするような怒りが、かえって痛いほど伝わってきた。
「セレスティア……大丈夫か? 怪我は……!」
「だ、大丈夫……ない……けど、腕が、まだ……」
荒い吐息を繰り返しながら、彼女は縛られた腕を見せる。エドワードはすぐにその紐を断ち切ってくれたが、頸や腕に擦り傷やあざが残っており、見るだけで彼の怒りがさらに燃え上がるのがわかる。
「こんな酷いことを……許せるはずがない」
呟いた彼の声は震えていた。セレスティアは腕が自由になった開放感と、彼への感謝の思いで涙が滲む。けれど、エドワードの瞳は、まるで炎のように沈んでおらず、さらに燃え盛ろうとしている。ここで終わりではない――彼はこの襲撃の背後にいる貴族に復讐を誓っているのだ。
「俺は必ず、奴らを根こそぎ潰す。セレスティア、見ていてくれ。こんな輩がまたお前を狙うなど、金輪際ありえないようにしてやる」
彼の言葉には愛も感じるが、それ以上に苛烈な憎しみが滲み出ていた。セレスティアは焦るように彼の手を握る。暴走すれば、彼は人を殺すどころか、さらなる血を流すことをもいとわないだろうと思ったからだ。
「待って、エドワード様……こんなに血を流して……もうこれ以上、危ないことは……」
言葉を継ぎながら、セレスティアの声は震えた。しかし、彼は無理に微笑うような形で首を振り、そのまま彼女を抱き寄せる。頬に宿るのは優しさと狂気が混ざり合った、形容しがたい感情だった。
「お前を傷つける者を、俺は許さない。それがどんな貴族だろうが、一族だろうが……俺がすべて焼き払ってやる。お前は……俺のすべてだ。失うくらいなら、世界を敵に回しても構わない」
激しく脈打つ彼の胸の鼓動が、セレスティアの身体に伝わる。まるで獣が牙を剥き出しにしたような凶暴な愛――彼が常に隠し持っていた危うい側面が、今ここでついに大きく牙を剥こうとしている。セレスティアは恐怖と安心が入り混じったまま、かすれ声でかろうじて言葉を紡いだ。
「……私のために、そんなに自分を追い詰めないで。あなただって、怪我をしてるじゃない……」
彼の袖や肌には、敵の血だけでなく自分の傷口から流れたらしい血も混じっている。腕や肩には切り傷が走り、痛々しさを伴う。にもかかわらず、エドワードの決意は揺らがない。彼は「こんなもの、大したことない」とでも言わんばかりの表情で、セレスティアをしっかりと支える。
「大丈夫だ。……それより、お前が生きていてくれた。逃げてくれた。俺が追いかけた甲斐があった。だから、今度は俺が動く番だ……」
彼の口調には、鋼のような決意が宿っていた。セレスティアはぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じる。もし、敵対する貴族が仕組んだこの陰謀を暴き、彼が“復讐”に乗り出したら――その光景は、先ほど倒れ伏した男たちの血の海どころではないかもしれない。彼は本気で、手加減をしないだろう。
「エドワード様……あなたは、私を助けてくれた。それだけで十分。私はあなたが無事なら、それで……」
「甘いな。お前を狙う者を放置したら、また必ず同じことが起こる。お前がどんなに逃げても、あの連中がいる限り……安寧は訪れない」
セレスティアは痛む体をこらえつつ、それでも懸命に彼の乱れた髪を撫でた。落ち着いてほしい、これ以上人を傷つけないでほしい――そんな思いを込めて。しかし、エドワードの息はまだ荒いままだ。彼の中に浮かぶ修羅の怒りは簡単には消えない。これが“狂気的な愛”だと、彼女は今まざまざと痛感する。
そこへ、彼の部下らしき護衛兵たちが慌てて駆けつけた。どうやらエドワードが探している間に、別のルートから敵を追跡していたらしい。倒れた男たちを取り押さえ、残党を捕縛する準備を始める彼らを横目に、エドワードはセレスティアをそっと抱き上げた。
「ここにいては危ない。お前を一度、屋敷へ連れて戻る。……安心しろ、必ず俺が守り抜いてやる」
「う、うん……」
セレスティアは小さく返事をするのがやっとだった。彼がこうも一方的に怒りを抱え込んだままでは、いつかその感情が彼自身をも壊してしまうのではないか――そんな危惧を抱きながら、彼女は身体を預ける。腕の中から見上げる彼の瞳には、まだ破滅的な光が宿っていた。
(きっと、私が止めなければならない。こんなにも苦しそうなエドワード様を、見過ごすわけにはいかない……)
セレスティアは自分の中でそう誓う。彼の愛は激しく、優しく、けれど狂気をはらむ。その歪な形を少しでも正しい方向へ導くために、彼女にできることは何だろう。まだ答えはわからない。だが、このまま彼の暴走を放置してしまえば、さらなる流血を引き起こすかもしれないという恐怖が、セレスティアの胸を締めつける。
「セレスティア……安心して。もう誰にも、お前を触れさせたりしない。俺の手で完膚なきまでに蹴散らしてやる……」
エドワードは静かに、しかし明確な殺意を込めて呟いた。その言葉に、セレスティアは震えながらもうなずくしかない。彼女は自らを助けてくれた圧倒的な力に感謝すると同時に、その“狂気じみた愛”に深い不安を覚え始めていた。
こうしてセレスティアは、再びエドワードの腕の中へと戻った。敵対貴族が送り込んだ陰謀は失敗に終わったかに見えるが、実際にはこれで決着がついたわけではない。むしろ、エドワードがより一層“徹底的な復讐”へ乗り出すきっかけとなり、恐るべき報復劇の幕が開けようとしていた――。
混乱と血の匂いが漂う林道の中で、二人はようやく再会しながらも、これから訪れる暗い陰謀の奥深さを痛感する。エドワードが誓った“復讐”は、ただセレスティアを守るためだけの行為なのか。それとも、愛が高じて狂気へと変貌してゆくのか――彼女の胸には、拭いきれない不安が募っていた。