セレスティアが裏庭で敵対貴族の刺客たちに襲われたその日、屋敷の空気は一瞬にして凍りついた。侍女や使用人の何名かが悲鳴を聞きつけて駆けつけるも、襲撃者たちは周到な準備をしていたらしく、奥まった裏庭の一帯を封鎖するかのように配置についている。しかも、多くの護衛兵は邸の正面や廊下の見回りに回されており、裏手への巡回は手薄になっていた。彼らの狙いが「セレスティアの確保」であることは明白だった。
混乱の中、セレスティアは必死に逃げ回ったが、人数の差と地理的な不利は大きい。木々の陰に隠れたり、茂みを突っ切ったりしても、相手は次々に回り込んでくる。やがて背後から迫る足音があまりにも近くなり、彼女は悲鳴を押し殺して回廊の陰に身を潜めた。
(このまま捕まるしかないの……? エドワード様、どうか――)
セレスティアの胸にはエドワードへの想いが溢れていた。今まで何度も、彼が自分を守り抜いてくれた。だが、さすがに今回ばかりは状況が違いすぎる。敵対貴族が公爵家を揺さぶるために本腰を入れて仕掛けてきた作戦なのだ。単なる刺客の侵入ではなく、統率の取れた大勢の男たちが敷地内に潜んでいる。しかも、そのほとんどが戦闘に慣れた雇われの兵士か傭兵に近い身分らしい。
やがて、茂みの先から「こちらだ!」という声が轟いた。誰かがセレスティアの衣服や髪の切れ端でも見つけたのかもしれない。あれだけ必死に逃げてきたが、ついに彼女の居場所が特定されてしまったらしい。押し寄せる恐怖と絶望感に、セレスティアは思わず大きく息を呑む。
「ここにいるぞ! 回り込め!」
どす黒い興奮を含んだ怒声が響き、足音が複数の方向から近づいてくる。もはや逃げ場はない。セレスティアは腕を組むようにして身を縮こまらせた。茂みの陰にうずくまっていても、数秒もすれば男たちに見つかってしまうだろう。
(負けるわけにはいかないのに……)
一縷の望みを断たれた思いで顔を上げた瞬間、茂みをかき分ける男と目が合った。灰色のマント、鋭い眼光、そして嬉々とした嗤いを浮かべている。相手はそのまま躊躇なくセレスティアの腕を乱暴に掴み、引きずり出した。
「おい、いたぞ! こいつが公爵夫人だ!」
その男の大声に応えるように、仲間たちが周囲を取り囲む。セレスティアは鋭い痛みに表情を歪めながら、渾身の力を込めて相手の手を振りほどこうとする。しかし、疲労と恐怖で思うように力が入らない。男は余裕の笑みを浮かべると、仲間とともにセレスティアの体を押さえつけ、抵抗を封じ込めた。
「離して……! 私は――」
叫びかけた唇を、布切れが荒々しく塞ぐ。苦しさにむせそうになり、まともに呼吸ができない。さらに別の男が腕と足を乱暴に拘束し、セレスティアはまるで獲物のように身動きが取れなくなってしまう。
(エドワード様、助けて……!)
心の中で必死に叫んでも、声はもう出せない。複数の男の手が彼女を抑え、どこかへと運ぼうとしているらしい。遠くの方からは、かすかに「セレスティア様?」と探す声が聞こえる気がしたが、それもすぐに途切れてしまう。男たちが奇妙な笛のようなものを鳴らし、仲間同士の合図を取り合っているのだ。
こうして、セレスティアは完全に囚われの身となった。あっという間に邸の裏側へ連れ出され、そこに待ち構えていた黒塗りの馬車へ押し込められる。表側の使用人たちや護衛兵も、まさか裏庭から馬車が出るなどとは予想していなかったのだろう。敵はこの一瞬の隙を狙っていたのだ。
「なるべくおとなしくしてろよ。あんたにはまだ利用価値があるんだからな」
馬車の車内でそう告げた男は、セレスティアを侮蔑するように見下している。口を塞がれたままの彼女は、必死の思いで呼吸を整えようとするが、恐怖が全身を麻痺させ、胸が苦しい。エドワードが知ったら、どんなに怒り狂うだろうか――そんな想像が、逆に彼女の心を刺す。
***
一方、邸の正面では、エドワードが緊迫した様子で指示を飛ばしていた。先ほどから、裏庭の方で「悲鳴が聞こえた」との報告が上がっていたのだ。侍女の一人が倒れているのが発見され、さらに「セレスティアが行方不明だ」という知らせが護衛兵から届いた瞬間、エドワードの理性は一気に沸点へ達する。
「何をしている!? すぐに裏庭を封鎖しろ! 使用人を総動員して、敷地の隅々まで捜索しろ!」
彼の激昂した声に邸内は震え上がる。すぐに護衛兵や使用人たちが裏庭へと駆け出し、茂みや回廊を探索するが、既に敵たちは姿を消している。気絶している侍女を介抱しながら、護衛兵の一人がエドワードに報告した。
「おそらく、公爵夫人は何者かに連れ去られた可能性が……」 「連れ去られた、だと?」
エドワードは目を見開き、声を荒らげる。すぐに手持ちの護衛兵を召集し、馬や馬車の準備を命じた。何かしらの手がかりを探し、犯人たちを追跡するしかない。もしセレスティアが今も敷地内にいるなら、どこかに隠れているはず。だが、屋敷の広さや裏庭の状況を考えれば、既に外へ脱出している可能性が高い。
(なぜ、もっと早く気づけなかった……!)
自分を責める思いが彼の胸を苛む。先の刺客事件以来、護衛を強化していたはずなのに、今回は完全に裏をかかれた。彼の“唯一の弱点”であるセレスティアを狙うのは、ある意味では自然の流れだ。それにもかかわらず、万全な警備を敷けなかったことが悔やまれる。
「セレスティア……」
彼女の名を呟く唇が震える。苛立ち、怒り、そして何より絶望感。もしセレスティアが自分の元から奪われたら――そんな未来は決してあり得ないと、エドワードは猛然と心に決める。彼女を必ず取り戻す。どんな手段を使ってでも、邪魔をする者は片っ端から屠ってでも。
***
一方、馬車の中では、セレスティアが酷い揺れに耐えていた。口を塞ぐ布こそ外されたものの、両腕は厳重に縛られ、思うように身動きが取れない。彼女を見張る男が一人、馬車内に同乗しており、鋭い目つきでこちらの一挙一動を監視している。
「お前の旦那が、俺たちの要求を呑まなかったらどうなるか、わかってるか?」
男は低く脅すように呟く。セレスティアは視線を伏せたまま、唇を強く結んだ。ここで反抗したところで、力では勝ち目がないことはわかりきっている。だが、それでもこのまま大人しく人質になるわけにはいかない。
(どこかで隙を作って逃げ出すしかない。私なら、きっとできる……)
数日前の襲撃から学んだ教訓――“ただ怯えているだけでは、あの人にさらに負担をかけることになる”。エドワードが自分を取り戻すために、どれほど乱暴に敵を潰すか想像すると、むしろそれが怖い。彼の愛ゆえの暴走は、自分自身も傷つけるかもしれない。だからこそ、セレスティアはなるべく自力で逃げ延びたいのだ。
馬車が大きく揺れ、車輪が石畳を跳ねる振動が全身に伝わる。敵がどこへ連れ去ろうとしているかはわからないが、邸からかなり離れた場所へ移動しているのは間違いない。少なくとも十分時間が経っている。エドワードが必死に探してくれているだろうことを願いながら、セレスティアは必死に意識を保ち続けた。
すると、馬車が急に停車した。どうやら小さな町外れに差しかかり、別の仲間と合流するつもりらしい。外から聞こえる声によれば、見張り役を交代するという話がされているようだ。今がチャンスかもしれない――そう思い、セレスティアは胸を高鳴らせる。
「ここでしばらく様子を見る。……女は馬車の中で大人しくさせておけ」
そんな指示が飛ぶやいなや、馬車の扉が開き、別の男が顔を覗かせる。一瞬、セレスティアの目が男たちの配置を捉える。外には三人ほど、馬車の左右に散らばる形で立っている。馬車内には自分を縛ったままの見張り役が一人。合流した新たな男が、さらに中に入ってこようとしている。
(今、どうにかすれば――)
セレスティアは痛む腕を堪えながら、視線を忙しなく巡らせる。自分の足元には、何か武器になるようなものはないか。馬車の座席下に袋らしきものがあるが、仕立て道具か何かだろうか――とにかく、細工をする時間はほとんどない。
「さて、お前はおとなしくしてるんだな? 下手に騒ぎ立てると、痛い目を見るぞ」
見張り役がニヤリと笑い、セレスティアの髪を掴んで顔を上げさせる。その瞬間、彼女は思い切り首を振り、相手の鼻先に頭突きを喰らわせた。悲鳴混じりの罵声が上がり、男が怯んだ隙に彼女は足を蹴り上げ、座席下の袋を思いきり蹴飛ばす。
「なっ、てめえ――!」
袋が転がり、馬車の扉口に立っていた男の足元を塞ぐ。思わぬ障害に気を取られたその男を横目に、セレスティアは乱暴に両腕を振り回しながら、必死で馬車の外へ飛び込んだ。両腕を縛られているため受け身をとれず、地面に転がった拍子に体中を打ち付けるが、ここで止まっては終わりだ。
「捕まえろ! 逃がすな!」
外の男たちが慌てて駆け寄ってくる気配を感じながら、セレスティアは転がった勢いでむりやり立ち上がり、縛られた腕ごと男の足を蹴りつけた。今度は一瞬の隙さえ作れればいい。さらに何とか身体をよじって腕の紐を解こうと指を動かすが、そう簡単には外れない。
(走るしかない――!)
痛む身体を奮い立たせ、セレスティアは近くにあった藪のほうへ駆け出す。馬車周辺に配置されている敵は予想より多いが、幸運にも彼らは馬車の方へ殺到している最中で、少しだけ手薄になっていた。大声で「捕らえろ!」という指示が飛び交うが、目の前の混乱も相まって動きがバラバラだ。
「このまま逃げ切るしか……っ!」
両腕が縛られているせいで、思うようにバランスが取れない。それでもセレスティアは転びそうになる身体を立て直しながら、道なき道を走る。地面は舗装されておらず、ぬかるんだ場所もある。何度も足を取られそうになるが、そのたびに歯を食いしばった。
男たちの怒鳴り声が後ろから追いかけてくる。しかし、彼女が馬車を飛び出し、周囲が混乱しているわずかな隙が生まれていた。どこかに隠れ、今度こそ紐を解いて身軽になるしかない。逃げ延びられるかどうかは時間との勝負だ。
(エドワード様……私、負けない。あなたのもとに戻るんだから!)
その強い思いが、セレスティアを走らせる原動力になっていた。捕まればきっと凄惨な結末が待っているだろう。いや、それ以上に、彼女はエドワードに余計な苦しみを背負わせたくないのだ。愛する人を守るため、自ら逃げのびる――それこそが、彼への最大の愛情だと信じていた。
こうして、セレスティアは囚われの身となりながらも、わずかな隙を突いて逃げ出すことに成功する。だが、彼女を追う男たちはまだ多勢。命がけの逃走劇は続く。そしてエドワードは、必死に彼女の消息を追い求めながら、愛する妻の足取りを捜索している最中だった――。
嵐のような陰謀が吹き荒れる中、セレスティアの決死の行動はどこへ続くのか。敵貴族の魔手を逃れ、エドワードと再び巡り会うことができるのか。その答えは、彼女が己の勇気と機転をどこまで信じ切れるかにかかっていた。逃げ惑う足音が、彼女をさらなる運命へと導いていく。