エドワードの敵対貴族がセレスティアを人質に取ろうと画策。セレスティアが危険に巻き込まれる
朝日が遠くの山々を染める頃、セレスティアは柔らかなシーツの肌触りを確かめながらゆっくりと目を開けた。昨夜、エドワードと語り合ったことが胸に鮮明に残っている。愛を知らなかった彼が、必死に孤独を埋めようとしている姿――その純粋さと危うさが、今のセレスティアにとっては愛しさと少しの不安を同時に呼び起こすものだった。
しかし、夫婦の甘い時間は長くは続かない。エドワードは夜明け前から執務室へこもり、書簡や報告書に埋もれているという。彼の家に敵対する貴族たちが活発に動き出している噂を、セレスティアも漏れ聞いていた。とくに公爵家を快く思わぬ者たちが、水面下で陰謀を企てているらしいのだ。
「奥様、そろそろ朝食のご用意ができました。いかがなさいますか?」
侍女が控えめに声をかける。セレスティアはひとつ頷いて身支度を急いだ。いつもの穏やかな朝とはいえ、どこか気が抜けない空気を感じる。屋敷の使用人たちも、どことなく落ち着きを欠いているように見えた。
朝食を終えたあと、セレスティアは昨日までの疲れを癒すために裏庭へ散歩に出ることにした。エドワードの許可を得て以来、彼女は敷地内の散策を少しずつ楽しんでいる。護衛がつくとはいえ、ほんの短い時間でも外の空気を吸えることは大きな気分転換になるのだ。
裏庭は、かつてエドワードが彼女を連れてきてくれた思い出の場所。大きく手を入れたわけではないが、自然の美しさをそのまま活かしているため、まるで森の中に迷い込んだかのような雰囲気が漂う。セレスティアは侍女と並んで小径を歩きながら、心地よいそよ風に髪を揺らしていた。
「奥様、今日は風が涼しくて気持ちがいいですね。少しベンチに腰掛けて休まれませんか?」
侍女の優しい誘いに、セレスティアは微笑んで応じる。いつものように和やかにお茶を楽しむ――そんな何気ない日常にこそ、彼女は幸せを感じるのだった。
しかし、そんな平穏な時間を切り裂くかのように、木々の陰から複数の人影が滑り出る。黒いマントを羽織り、目元を覆面で隠した男たちだった。人数は四、五人。わずかな風の音に紛れ、息をひそめていたのだろう。
「なっ……!」
侍女が驚きの声を漏らすと同時に、一人の男がセレスティアの腕を素早く捕らえる。彼女は悲鳴を上げかけるが、相手の手が口元を塞ぎ、声にならない息だけが漏れる。侍女が助けようと動くものの、すぐさま別の男に殴り倒され、地面に倒れ込んだ。
「……あんたが公爵家の奥方か。さて、どう扱ってやるかね」
男たちの視線は剣呑で、明らかにただ事ではない。セレスティアは恐怖に目を見開くが、それでもなんとか抵抗を試みようと身体を捩った。だが、相手は複数で、しかも慣れた手つきで彼女の動きを封じてくる。
「きゃあっ……! 離して、離してよ!」
セレスティアは必死に叫びたいが、今度は別の男が大きな布を持ち出し、口を塞ごうとしてくる。どうにか逃れようとするが、彼らの腕力は桁違いだ。まるで小鳥を生け捕りにするかのように、男たちはセレスティアを取り囲んで支配していく。
(嘘……また、あの時のように……?)
数日前、刺客に襲われた恐怖が脳裏を掠める。当時はエドワードがすぐに駆けつけ、救ってくれた。だが、今回はそれよりも人数が多い。しかも、敵の狙いは明確に「自分をさらうこと」。あのときとは比較にならないほど絶望的だ。
「くそっ、手間をかけさせやがって」
男の一人が忌々しげに呟き、セレスティアの背後から腕を回して拘束しようとする。腕力での抵抗は難しい――ならばせめて隙を作るしかない。セレスティアはふいに力を抜き、意識を失ったふりをしてみせた。目論見通り、男の腕の締め付けが一瞬だけ緩む。
「あれ……倒れたか?」
男が油断した瞬間、セレスティアは全力で足を踏み込んで男のスネを蹴りつける。悲鳴を上げてよろめいた男の腕から、彼女は何とか身体を振りほどいた。たった数秒の隙ではあるが、それでも逃げ出すには十分だ。よろける男を置き去りにして、セレスティアは裏庭の奥へ走り出す。
「逃がすな! 追え!」
他の男たちが慌てて追走し、裏庭に低く怒号が響く。セレスティアは茂みや木々の影を縫うように走るが、背後から迫る気配はすぐそこまで来ている。躱せる経路も限られており、邸の建物へ戻るにしても時間がかかりすぎる。万一捕まれば、今度こそ逃れる術はないだろう。
(こんな……こんなところで、終わるわけにはいかない。エドワード様のもとに戻らなくちゃ……!)
必死の思いで走るセレスティア。だが、彼らは初めからこの裏庭に誘い込む計画だったのだろう。庭園を回り込むようにして他の刺客が姿を現し、逃げ道を塞ぐように徐々に包囲網を狭めてくる。心臓は激しく鼓動し、脚は悲鳴を上げる。恐怖で視界が霞みそうになるが、今は立ち止まってはならない。
「この辺りにいるぞ! 探せ!」
男たちの叫び声が近くの茂みで響く。隠れる場所は限られている。セレスティアは茂みをかき分けながら、なんとか回廊へと通じる小径を目指すが、もう体力が限界に近づいていた。しかも、先ほど背後から髪を掴まれた際、頸や肩をひどく痛めている。思うように腕や脚が動かない。
――だが、諦めるわけにはいかない。セレスティアは必死に頭をめぐらせる。あのとき刺客を退けられたのは、エドワードの力があったから。今度は自分でどうにかしなければ……。必死に策を考えるが、追ってくる男たちの靴音がさらに近づいてくるのを感じると、血の気が引いていく。
「ふん、もう逃げられまい。こっちだ!」
細い小径の先に、黒いマントの男が立ち塞がった。真横には茂みがあるが、そこへ飛び込んでもすぐ捕まるだろう。周囲を見回しても、誰も助けに来てくれない――護衛兵は裏庭のこの奥まで巡回していないのか、それとも既に何者かによって遠ざけられたのか。
(どうすれば……!)
思考が混乱しそうになるが、セレスティアは唇を噛みしめ、意地でも立ち止まらない。何とかしてエドワードに知らせなければならない。あるいは、少しでも時間を稼ぎ、誰かの目に留まる場所へ移動できれば――。
だが、敵対貴族が仕組んだ計略は周到だった。男たちの一人が、暗い嗤い声を立てる。
「へえ、随分と頑張るな。だが、あんたはエドワード公爵の弱点だ。ここで捕まえさえすれば、あの傲慢な貴族も手も足も出ないってわけさ」
その言葉に、セレスティアはエドワードへの想いが胸を締めつけるように湧き起こる。自分が捕まれば、あの人にどれほどの苦しみを与えてしまうか――想像するだけで涙が出そうになるが、ぐっと堪える。絶対に、こんな卑劣な手段に屈してはいけない。
「エドワード様を……侮辱しないで!」
小さく呟くように声を上げると、男は鼻で笑い、まるで獲物を追い詰めた猛獣のようにゆっくりと距離を詰めてくる。
あと一歩、あと数歩で逃げられないところまで迫られている。その瞬間、セレスティアの頭に閃くものがあった。――うまくいくかわからないが、やるしかない。心を決めた彼女は、男に背を向け、全力で茂みへ飛び込む。予期しない動きに男は一瞬反応が遅れる。
「待て、こいつ……!」
男の叫びと同時に、セレスティアは茂みをかき分け、枝で顔を傷つけられそうになりながらも奥へ転がり込む。そして、わざと大きな悲鳴を上げた――。
「きゃあああっ……!」
声が届くかどうかはわからない。けれど、屋敷のどこかにいるだろう使用人や護衛に気づいてもらうために、今はそれしか手がない。背後では男の足音が迫り、「もう逃げ場はないぞ!」という怒声が響いている。だが、セレスティアの心には、小さな希望が灯りつつあった。
(エドワード様……気づいて。早く、来て……!)
鼓動が耳鳴りのように響き、息が上がる。男たちとの距離は僅かしかない。それでもセレスティアは枝にひっかかれながら茂みの奥を突き進む。捕まる寸前、わずかな足音が別の方向から近づく気配を感じた――それが味方か敵かはわからない。だが、祈るようにその足音に望みを託し、もう一度声を振り絞る。
「誰か、助けて……!」
こうして、エドワードの敵対貴族が企てた“人質計画”は幕を開けた。セレスティアが危険に巻き込まれるのは時間の問題だ。裏庭の深みで行われている暗躍は、まだ誰の目にもはっきりとは映っていない。しかし、この企みが成功すれば――エドワードにとって、セレスティアの喪失以上に大きな痛手はない。
一方で、セレスティアはやみくもに逃げながらも、“愛する人の前でただの無力な存在ではいたくない”という意思を燃やしている。果たして、彼女はこの危機をどう切り抜けるのか。そして、この陰謀の裏にはいったい誰がいるのか――。
嵐の前の不穏な風が、屋敷をゆっくりと包み込みはじめていた。