夜の深い静寂が屋敷を包み込み、きらめく燭台の灯りだけが床や壁に揺れる影を映し出していた。その小さな光源に照らされながら、セレスティアは寝室で静かに息をつく。ここ数日の出来事――刺客からの襲撃、エドワードが命がけで自分を守ってくれたこと、そしてアレクシスの出現によって生まれた独占欲。それらが胸の中でぐるぐると渦を巻き、いつも以上に鼓動を速めている。
そんな彼女の耳に、扉をノックする音が小さく届いた。振り向くと、エドワードがゆっくりと寝室へ入ってくる。いつもは自信満々に開け放つ扉を、今宵はどこか遠慮がちに扱っているのがわかる。その瞳には依然として不安と焦燥が宿っているようにも見えた。
「……入ってもいいか」
低く落ち着いた声。セレスティアはこくりと頷き、彼を招き入れる。彼は扉を閉めると、恭しく一礼するように頭を下げ、ベッドの脇へと近づいてきた。
「傷の具合はどうだ?」
静かに尋ねるエドワードの声には、思いのほか切実な響きがある。刺客に襲われた夜以来、彼の中で大きな変化があったのは間違いない。彼自身も、“自分のもの”として扱ってきたセレスティアを、今は文字通り“守るべき存在”と認識している――それが彼の端々の態度から伝わってくるのだ。
「あまり痛みはないの。多少ヒリヒリする程度……でも、本当に大丈夫よ。あなたが守ってくれたおかげで、こうして怪我も軽いもので済んだわ」
そう答えながらセレスティアは、軽く包帯を巻いた首元に手をやる。エドワードが心配そうに視線を落とすのを感じ、彼女は安心させるように微笑んだ。傷跡は浅いが、あの恐怖はまだ胸の奥に微かに残っている。それでも今は、彼の横顔を見るだけで心が温かくなる。
「お前が無事で、本当に良かった」
吐息まじりに告げるエドワード。その横顔には、いつもと違う弱々しい憂いがある。まるで今もなお、彼女が目の前から消えてしまうのではないかと怯えているかのようだ。
その沈黙を破るように、エドワードは突然、ぽつりと低い声を落とした。
「……なあ、セレスティア。お前には話しておきたいことがある。俺の……孤独について、だ」
彼がこれまで語らずにきた“過去”を、ゆっくりと紐解こうとしている――そう直感し、セレスティアは彼の手をそっと握る。急かすようなことはしない。ただ、彼が自ら口を開くまで、見守ろうと決めていた。
やがて、エドワードの瞳が僅かに曇り、懐かしむように遠い景色を見つめる。
「俺は……幼い頃から、ほとんど父にも母にも構ってもらえなかった。父は政務ばかりで家にいないし、母は病弱で、あまり笑う姿を見たことがなかった。気づけば、屋敷の中でただ一人、広すぎる廊下を歩き回っては、誰からも呼ばれない日々だった。そんな中で……愛されないなら、せめて自分から奪われないように全部を掌握しておきたいと思うようになったんだ」
そこにあるのは、知り尽くしたはずの“冷徹なエドワード”とはまるで違う、“愛を知らずに傷つき続けてきた少年”の姿。セレスティアは息をのむ。エドワードは握りしめた彼女の手をさらに強く握り返しながら、言葉を続ける。
「手に入れたものは失いたくない……それが歪んだ執着に変わったのだと思う。愛される方法がわからないまま、大人になってしまった。だからこそ、お前を“所有物”として扱えば、少なくとも俺から離れないだろう、と……そう考えたんだ」
「でも、あなたは……私が大切だと、心から思ってくれているでしょう? 最近は、私を道具ではなく、一人の人間として……」
セレスティアの問いかけに、エドワードはぎこちなく微笑む。
「そうだ。最初は、お前が美しい“人形”のようにも思えた。父が決めた政略結婚。だが、お前を手放さないうちにわかった。これは単なる道具ではなく、俺が初めて『失いたくない』と怯えるほどの、かけがえのない存在だと……」
その告白を聞いた瞬間、セレスティアの胸が激しく震えた。彼の孤独を埋めたいと思っていたのは事実だが、こうして彼自身の言葉で「お前は特別だ」と告げられると、甘い衝動がまるで津波のように押し寄せてくる。彼女は思わず身を乗り出し、彼の首筋に腕を回してそっと抱きしめた。
「……私も、あなたなしではいられない。束縛だとか、所有欲だとか、そんなの全部ひっくるめて……あなたを愛してしまったの」
そう告げるセレスティアの声は震えている。恐怖や不安ではなく、幸福感で胸が満たされているからこその震えだ。彼女の中で、エドワードへの“怖さ”よりも“深い愛しさ”がはるかに大きくなっている。
エドワードは、それまで押し殺していた感情が溢れ出すようにセレスティアの肩を抱き寄せ、唇を重ねた。狂おしいほどの渇望を帯びつつも、先日までの荒々しさとは違う優しい口づけが、彼女の心をそっと包み込む。
「……離れるな。今夜はずっと、お前の温もりを感じていたい」
断定的な言葉に含まれるのは、激しい支配ではなく、どこか掠れた切実な願い。セレスティアは甘く微笑み、彼に身を預ける。唇を通じて伝わる呼吸は熱く、心臓の鼓動が互いを打ち鳴らすかのように高まっていく。
火照った肌を感じ合いながら、やがて二人はベッドへ横になる。小さなランプの灯りが、お互いの表情を映し出す。瞳が触れ合うたび、セレスティアはかつて感じていた“拘束”が、いつの間にか“寄り添い”に変わっていることに気づいた。
エドワードの手がドレスの裾をゆっくりとたくし上げ、露わになった脚をそっと撫でる。セレスティアの身体は自然と熱を帯び、吐息が微かに乱れ始める。彼の仕草にはまだ少しの迷いや遠慮が感じられるが、それもまた“彼が大切に思っている証拠”だと思うと、胸が切なくなるほど愛おしい。
「……怖くはないか?」
彼が息を詰まらせるように問いかける。セレスティアは首を振り、そっと微笑みを返す。
「平気。あなたが私を……本当に大切にしたいと思ってくれていることがわかるから」
言葉を交わすうちに、エドワードの瞳からは最後のためらいが消えていく。愛を知らず、孤独に閉じこもっていた少年が、今ここで初めて「相手と心を通わせる悦び」に身をゆだねようとしている。その思いの深さが、セレスティアの胸にも熱く伝わり、彼を受け入れたい衝動がさらに大きく膨らむ。
そして、そのまま唇と唇が重なり合う。以前のような荒々しさや焦燥ではなく、確かめ合うように、そして慈しむように。舌先がゆっくりと絡み合い、互いの呼吸を一つに溶かしていく。
(こんなふうに心が繋がるキスは……初めてかもしれない)
セレスティアは甘い震えを抑えきれず、指先でエドワードの髪をそっと撫でる。そのまま彼の背へ回した腕に力を込めると、身体の隙間がなくなるほどに密着した。衣擦れの音が微かに響き、シーツがくしゃりと皺を刻む。
唇を離して、エドワードが苦しげに息を吐く。その瞳にはもはや激情だけがあるのではない。誰かを本気で愛し、守りたいと思う“慈しみ”が宿っている。セレスティアはそこに安堵と幸福を感じ、さらに深く身体を委ねた。
熱い肌の触れ合いに身を焦がしながら、二人は何度も求め合う。確かめるように肩や背を撫で、耳元で名前を呼び合う。互いの声が甘く乱れ、濃厚に混ざり合う空間は、これまで経験してきたどんな行為よりも“愛”を実感させるものだった。
やがて、エドワードがセレスティアの瞳をのぞきこみ、声を震わせる。
「……お前を愛している、セレスティア。俺は、お前なしでは生きていけない」
その一言が胸に突き刺さり、セレスティアの瞳から熱い涙が零れ落ちる。彼の束縛や執着を含めて、彼女も彼を強く愛しているからこそ、この言葉の重みは計り知れない。
「私も……あなたを愛してる。もう、どこへも行かないわ。ずっと、そばにいて……」
その答えに、エドワードは何かを振り切るようにセレスティアを抱きしめ、最後の境界を乗り越えるかのように互いを繋ぎとめる。身体の奥に伝わる熱が、二人を更なる高みに連れ去り、指先から唇から、あらゆる感覚が溶けあう。悲しみや孤独すらも一つの糸で絡み合い、深い悦びへと昇華していく――。
長い夜の終わりに、セレスティアは荒い呼吸を整えながらエドワードの胸に頬を預ける。彼の腕は決して離さないと言わんばかりに彼女の身体を抱き寄せているが、その力はどこか優しく、暖かい。執着や独占ではなく、“一つの生命を守る”という意志が込められている。
「……ありがとう、エドワード。あなたが、私を受け止めてくれるから……私もあなたを支えたい」
はあ、と安堵の息を吐きながら、彼はセレスティアの髪に唇を落とす。まるで小さな子どものように、愛おしげに撫でている。
「俺こそ、ありがとう。愛し方なんて知らなかった俺に、お前が教えてくれた。もう、お前を離す気はない。俺の世界の中心には、お前しかいないから……」
夜はまだ深く、そして二人はさらに互いの温もりを求め合う。孤独を抱えた男と、愛に飢えていた女。その交わりが穏やかな息遣いとともに心を満たすたび、“孤独”という名の闇は薄れ、“愛”という名の炎が灯り続ける。
やがて、遠く窓の外から鳥のさえずりが聞こえてくる頃には、二人の心は一つになっていた。深く、もう切り離せないほどに。歪んだ執着は溶かされ、かけがえのない相手を想う熱い気持ちだけが残る。
――こうして、エドワードは自分の孤独を正直に告白し、セレスティアもまた心から彼を受け入れた。束縛も嫉妬も、そのすべてを超えて結ばれた夜。孤独を埋めたい男と、彼を愛する女が、ようやく“心からの愛”を確信したのだ。
窓の外に朝が訪れる頃、二人は互いに微笑み合い、同じベッドで幸せな眠りへと誘われる。愛を知らない少年だった彼が、こうして一人の女性を通じて“誰かを失う恐怖ではなく、ともに生きる喜び”を見つけた。その新たな一歩に、夜明け前の空は優しく白み始めていた。