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第14話 :二人の距離4

 静かな夜の帳が降り始める頃、セレスティアはエドワードと連れ立って夕食を終え、自室へ戻ろうとしていた。屋敷の廊下には大きな燭台が並び、ゆらゆらと揺れる炎が壁に淡い影を作っている。耳を澄ますと、いつもと同じ平穏な夜の空気――のはずだったが、その日は何かが違った。


 胸騒ぎを感じていたセレスティアは、エドワードと別れたあとも落ち着かないまま、屋敷内の回廊を歩いていた。彼が「夜は早く休め」と言ってくれたものの、なぜかベッドに入る気になれなかったのだ。

 (なんだか嫌な予感がする……)


 その直感が現実になったのは、ほんの数分後のことだった。

 長い回廊を曲がった先――薄暗い角に差しかかると、どこからか物音がして、思わず足を止める。風の音とも違う、金属がわずかに擦れるような嫌な響き。屋敷には護衛や使用人も常に巡回しているはずなのに、いつになく静寂が支配していた。


 (誰かいる……?)


 セレスティアが目を凝らした瞬間、それは突然姿を現した。黒い布で顔を隠した男が、まるで影から染み出すようにして飛び出してくる。セレスティアは悲鳴を上げかけたが、その前に相手が俊敏な動きで彼女の口を塞ごうと手を伸ばしてきた。

 「っ――!」


 反射的に身をそらすものの、廊下は細く曲がりくねっており、逃げ場所は限られている。男の腕がセレスティアの肩を掴み、鋭い光を放つ短剣がちらりと視界をかすめた。突き立てられる前に抵抗しようとするが、彼女の非力な腕では叶わない。

 (誰……? どうしてこんなところに刺客が……!)


 息が止まるほどの恐怖を味わう中、男の唇から低い声が漏れる。

 「……ざまあねえな。公爵家の花嫁か。ちょうどいい、あの男に一泡吹かせるには、あんたが都合がいい」

 言いながら短剣をかざし、セレスティアの喉元に突きつけてくる。その冷たい金属の感触に戦慄が走る。もし今ここで叫んだとしても、彼が先に刃を振り下ろすかもしれない。そもそも、この夜の廊下に護衛は――。


 (エドワード、早く気づいて……!)


 必死の思いで抗おうとするが、男の腕力は圧倒的だった。セレスティアの動きを封じるように強く体を押さえつけ、彼女の背後に回り込む。逃げ出すことはできない。刃が肌に触れるか触れないかの位置で、男は嘲るように耳元で囁いた。

 「黙ってろ。おとなしくしないと、すぐにでも――」


 その言葉が終わるか終わらないうちに、突如として廊下に激しい足音が響いた。何かに気づいたのか、男が反射的に顔を上げる。その瞬間、「セレスティア!」という怒気を孕んだ声が木霊する。

 走り込んできたのはエドワードだった。闇の中でも際立つ鋭い眼差しと、その瞳に宿る尋常ならざる殺気に、セレスティアの全身の力が一瞬抜けそうになる。それほど彼は恐ろしく、そして頼もしかった。


 「離れろ。その女に触れた罪は重いぞ」

 低く響く声。その声量は決して大きくないのに、廊下の空気を凍らせるほどの威圧感を放っている。

 男は動揺を隠せないまま、セレスティアの身体を盾にするように回転し、短剣を彼女の喉元に強く押し当てた。小さな悲鳴が漏れる。しかし、エドワードの表情は微塵も揺るがない。むしろ、冷静さの奥に燃え上がる殺意がはっきりと見えた。


 「人質にしても無駄だ。お前がどう足掻こうと、俺の手の内にある――」

 ――一拍。次の瞬間、エドワードは迷いなく間合いを詰め、男の腕を思いきり打ち払う。同時に、セレスティアを巻き込まないように鋭い体捌きで男を崩すと、隠し持っていた小さな短剣を逆手に握り、男の肘から先を狙って一気に切り込んだ。

 「ぐっ……!」

 男の短剣が床に落ちる。セレスティアは足に力が入らず、その場に倒れこむようにうずくまった。しかし、エドワードの救出はここで終わらない。さらに男を突き飛ばし、転倒した男の胸元に剣を突きつける。破れた黒いマスクから、不安に揺れる瞳が露わになった。


 「貴様……誰の命令だ」

 エドワードの声は冷徹を極め、その瞳には殺意がはっきり浮かんでいる。刺客の男は苦しそうに身をよじりながら、それでも何かを隠し通そうとしているのか答えを拒むように唇を噛みしめた。

 「……答えないか。なら、拷問でもして言わせるまでだ」

 彼が短剣をわずかに動かすと、男は悲鳴を上げて身をのけ反らせる。血が床に滴り、鉄の生々しい臭いが漂った。


 「やめて……エドワード様、殺しては……」

 セレスティアがようやく声を振り絞る。確かにこの男は彼女を襲い、明らかに悪意をもって命を狙った存在だ。けれど、エドワードがこの場で命を奪ってしまえば――。そう思うと、抑えきれない恐怖が込み上げる。何より、この残酷な場面を見たくない。

 エドワードはハッとしたように彼女を振り返った。そして、その瞳に苛烈な怒りと彼女への強烈な保護欲が混ざり合っているのが見て取れる。

 「――お前が危ないところだった。こいつは、その報いを受けるべきだ」

 「でも……このままじゃ、あなたの手が汚れてしまうわ」


 必死に訴えるセレスティアを見つめ、エドワードは苦渋の表情を浮かべる。彼にしてみれば、セレスティアが傷つけられた――しかも、もう少しで取り返しがつかない事態になっていた――それほどの怒りを収めるのは容易ではないはずだ。

 しかし、男をその場で仕留めるという選択をとれば、エドワード自身もまた人の血を浴び、さらには法的な問題も生じかねない。何よりセレスティアがそれを望んでいない。

 「……くそっ。護衛兵! 使用人どもは何をしてやがる!」

 激しい声が廊下にこだまする。すぐに人の足音が近づき、数人の護衛兵や侍女が駆け寄ってくる。彼らはその惨状に驚愕しつつ、刺客の男を取り押さえた。エドワードは最後まで剣を引かず、男の微かな反抗を警戒するように睨みつけている。


 「奥様、怪我はありませんか!?」

 慌てた様子の侍女がセレスティアを支え起こし、彼女の身体を調べる。見ると、刺客の短剣が首元をかすめていたのだろう、うっすらと赤く擦り傷がついていた。幸い深手ではないが、ほんの少しでも傷口から血が滲んでいるのを見て、エドワードの瞳が再び険しく揺れる。

 「お前……怪我を……」

 焦燥に駆られた表情で彼女に近づくと、その傷を確認し、険しい吐息を漏らした。今にも刺客の男を再度斬り伏せかねない勢いだ。セレスティアは弱々しく首を横に振り、彼をなだめるように腕を伸ばす。

 「大丈夫……平気……。あなたが、助けてくれたから……」


 その言葉に、エドワードははっと息を詰まらせる。そして、全身の力が抜けたように膝をついて、セレスティアを強く抱きしめた。冷ややかな公爵家の当主らしからぬ、むき出しの感情だった。

 「……すまない。本当にすまない。お前が危険に晒されるなど、絶対にあってはならないことだ」

 かすれ声で何度も謝罪を繰り返しながら、彼はセレスティアを抱きしめ続ける。周囲の護衛兵や侍女が、刺客の男を引きずりながら慌ただしく場を去っていくのを横目に、彼女はただ、エドワードの胸に顔を埋めるしかなかった。恐怖と安堵が一気に押し寄せ、全身が震えている。


 やがて夜が更け、応急処置を受けたセレスティアは自室へ戻った。エドワードも当然のごとく部屋に付き添い、彼女が落ち着くまで隣で手を握り続けてくれる。傷自体は浅いが、刺客に襲われたショックはすぐには癒えない。何より、もしエドワードが気づくのが少しでも遅かったら――想像するだけで震えが止まらない。

 「お前を守れなかったなんて、言い訳のしようがない」

 エドワードは自嘲気味に眉をひそめる。彼の中で、自分の“絶対的な守り”が破られたことは相当な衝撃だったに違いない。だが、セレスティアは弱々しく首を振り、かすかに笑みを浮かべた。

 「守ってくれたわ。だから、私は大きな怪我もなくこうして生きてる。……あなたが来てくれて、本当に良かった」


 彼女の言葉に、エドワードはしばし黙り込む。やがて、すとん、と何かが胸から落ちたように、セレスティアの手をそっと抱え込むように包み込んだ。

 「お前を失うなんて……考えただけで正気でいられない。今夜、改めて思い知らされた。……二度と、こんなことは繰り返させない」

 その瞳には涙こそないが、心の底からの決意のような光が宿っている。セレスティアは彼の手をぎゅっと握り返しながら、同時に自分の胸にも熱いものがこみ上げるのを感じた。

 ――もし彼がいなかったら、今頃どうなっていたか。想像するだけで恐怖とともに切ないほどの感謝が溢れる。彼が命をかけてまで守ろうとしてくれた事実に、セレスティアは「愛」以外の言葉が思いつかなかった。


 「ありがとう、エドワード……。もう一度、あなたの腕の中で……安心したい」

 震える声でそう呟くと、エドワードは苦しそうに顔を伏せ、そっとセレスティアの身体を引き寄せる。彼女はその腕の中で、恐怖から解放された安堵を感じながら、涙をこぼすまいとまぶたを閉じる。

 歪んだ執着も、独占欲も、今はただ「彼女を守りたい」という一心に集約されている。エドワードの鼓動が激しく伝わり、耳元で荒い吐息が聞こえる。けれど、その体温は紛れもなく生きている証であり、セレスティアを守ってくれる確かな存在だと感じた。


 (この人は私を命がけで守ってくれる。私は……こんなにも愛されている)


 恐怖と安堵、そして深い感謝が絡まり合う中で、セレスティアの心は熱い衝動を覚える。エドワードに溺れてしまってもいい、このまま彼のものになってもいい――とさえ思ってしまうほどに。夜の闇が濃く深まっていく中、彼女たちの絆は一段と強く結び付けられることになった。

 殺意が漂う夜だったからこそ、命がけで守ってくれたエドワードの真実が見えてきた。彼女を所有物としか扱わなかった男が、今はもう、「自分の大切な存在」として命を賭してでも守り抜こうとしている。セレスティアはその愛の深さを、怖いほどはっきりと感じ取っていた。


 この一件により、屋敷の護衛体制は一層強化されることになるが、それ以上にセレスティアとエドワードの心は、誰にも切り離せないほど強く結び付いた。闇夜に紛れた刺客の襲撃は、確かに恐ろしいものだったが、それは同時に“彼の真の愛”を浮き彫りにしてくれた瞬間でもあった。


 そして、刺客を送り込んだ者が一体誰なのか――その謎を解くため、エドワードはさらに力を入れて調査を進めようと決意する。彼の独占欲が、今や本気で「自分の女を守り抜く」という愛へと変わり始めていることを、セレスティアは身をもって実感しながら、震えた身体を彼の胸に預けるのだった。



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