それは、爽やかな朝を迎えた翌日のことだった。セレスティアは侍女から「来客がいらっしゃいました」と告げられ、応接室へと足を運ぶ。エドワードは先ほどまで執務室で書類に目を通していたはずだが、どうやら訪問者の知らせを受けて、既に応接室へ向かったらしい。
普段、屋敷に訪ねてくる客は大体が役人か、商会の責任者、あるいは友好関係を築くための貴族くらいだ。だが、この日現れたのは、そういった“公的”な雰囲気とはまるで違う、妖艶な大人の女性だった。
セレスティアが応接室に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪をきっちりと結い上げ、宝石があしらわれた髪飾りを輝かせた美しい女性の姿。深い色合いのドレスを身にまとい、その首元には豪奢なネックレスが揺れている。胸元の開いたデザインは、夜会服を思わせるような大胆さを醸し出し、彼女自身の妖艶さを見せつけるかのようだった。
視線を巡らせれば、エドワードが応接室のソファに腰掛け、彼女の話を静かに聞いている。けれど、その横顔には明らかな不快感が漂っているのがわかる。彼はセレスティアに気づくと、軽く目線を送って合図をした。
「……エドワード様、ごきげんよう」
そう声をかけたセレスティアの足が自然と止まる。なぜか胸がざわつくのだ。これまで、エドワードを尋ねる女性が皆無だったわけではない。しかし、目の前の女性にはどこか尋常ならざる雰囲気がある。まるで、この屋敷に“求めるもの”があるとわかっていて来訪したかのような、絶対的な自信を感じさせた。
「セレスティア、お前も座れ。……そちらはアレクシス嬢、以前……少し付き合いのあった方だ」
エドワードの声には、普段の冷静さとは異なる微妙な張りつめが混じっていた。“以前の付き合い”という表現から、セレスティアは瞬時に“昔の愛人”という言葉を連想してしまう。聞けば、確かに彼には過去に幾度も婚約相手や愛人がいたという噂があった。今までは遠い話のように聞こえたそれが、現実として目の前に現れた――その事実に、思わず胸が締めつけられる。
「初めまして。私、セレスティアと申します。……エドワード様の妻です」
ソファの隣に腰を下ろしながらそう告げると、アレクシスは糸のように細めた眼でセレスティアを上から下まで眺め、唇にかすかな笑みを浮かべた。その笑みには、“公爵夫人”という立場に臆する様子が微塵も見られない。むしろ、一瞥しただけでセレスティアの存在を測りかねているかのような、不敵な優越感すら漂っていた。
「まあ、貴女が今の奥様なのね。噂はかねがね聞いていたわ。けれど、こうしてお会いできるなんて嬉しいわ」
妖艶な声色でそう囁きながら、アレクシスは身を乗り出すようにしてエドワードへ視線を向ける。その仕草が、まるで彼女とエドワードの間に“昔からの強い繋がり”があるかのように思わせるもので、セレスティアの胸が僅かに痛む。
「用件は何だ、アレクシス。以前のように俺の邸に自由に出入りできる立場だと思っているのなら、それはもう終わった話だ。さっさと要件を言え」
エドワードは露骨に苛立ちを見せる。いつもなら冷静な物言いをする彼なのに、今はあからさまに不愉快そうだ。その態度が返って、彼女との過去の繋がりがどれほど濃密だったのかを示唆しているようにも感じられ、セレスティアの心は乱れる。
アレクシスはそんな彼の不機嫌など意に介さないかのように、優雅に笑みを深めた。
「そう邪険にしないで。わたくし、ただ古い友人として挨拶に来ただけよ。あなたとはずいぶん長いつき合いだったものね。でも、そうね……『俺の邸』と言ったけれど、今は『あなた方夫婦の邸』というわけね。おめでとう、エドワード。新しい花嫁は、なかなか可憐で素敵じゃない」
最後の言葉は視線をセレスティアに向けつつ告げられる。褒め言葉のはずなのに、底意地の悪い挑発を含んでいるのがわかる。セレスティアは、こういう場面に慣れているわけではなかったが、それでもエドワードの妻としてここで怯むわけにはいかないと、胸を張って微笑んだ。
「ご丁寧にありがとうございます。……でも、もうエドワード様とは関係がないのでしょう? あまり長居していただいても、ご期待に添えるものは何もありませんわ」
限界ギリギリの毅然さを保って言葉を返すと、アレクシスの瞳にかすかな憤色が浮かぶ。
「まあ、はっきり言うのね。けれど、貴女は何も知らないでしょう? たとえば、エドワードがどういう愛し方をするのかとか、どんな夜を過ごしてきたのか……。あら、これは無作法な話題かしら?」
挑発するような笑みを湛え、アレクシスはあえてセレスティアに聞こえるように甘い声を落とす。セレスティアは思わず言葉を失った。彼女の狙いは明らかだ――“過去にエドワードと深い関係にあった”ことを、わざと匂わせているのだ。
実際、エドワードと肌を重ねた女性は彼女だけではなかったかもしれない。だが、目の前にいるのが“その一人”だと突きつけられると、心にドス黒い感情が広がるのを止められない。これまで、自分は“エドワードの所有物”として扱われながらも、少しずつ互いの心を通わせ始めていた。だが、彼に先立つ女性がいたことは、頭では理解していても、胸がざわつくのは止められない。
(嫌だ……。こんな形で、彼の過去を知らされるのも不快だし、この人が『昔はもっと私を大切にしてくれた』なんて嘯くような素振りを見せるのも、胸が苦しくなる……)
何より、アレクシスがエドワードを完全に諦めているようには見えないのが気に食わない。上品な言葉や態度で偽装しながらも、彼女の視線は明らかにエドワードを狙っている。セレスティアは、生まれて初めて強烈な“独占欲”ともいうべき感情を覚えた。これまで、誰かを独り占めしたいなんて思ったこともなかったのに――エドワードだけは違う。
「……アレクシス、今後は勝手にここへ来るな。俺はもう、お前に会う理由はないし、会う気もない」
エドワードが低く鋭い声で切り捨てると、彼女はわずかに眉をひそめた。しかし、すぐに顔を上げ、艶やかな笑みを浮かべて立ち上がる。
「そう。なら、お邪魔はやめておきましょう。……でも、もしあなたが今の関係に飽きたら、いつでも声をかけてちょうだい。わたくしは昔から、あなたの欲望に応えてきたでしょ?」
最後の台詞をわざとらしく甘く囁き、アレクシスはドレスの裾を翻して応接室を出ていく。その挑発的な言葉に、セレスティアは思わず拳を強く握りしめた。こんな言い方、あまりにも嫌味すぎる。
応接室に静寂が戻ると、エドワードは深く息を吐き、煩わしげに頭をかき上げる。セレスティアのほうへ顔を向けるが、彼女はまだ胸の奥がざわざわと騒ぎ、どうやって平静を保てばいいのかわからない。
「……悪かったな。あんな奴を、お前の前に連れてきて」
エドワードの言い方は不機嫌と後悔が入り混じっている。しかし、セレスティアはまっすぐに彼を見上げ、胸の奥に芽生えた正直な感情を吐き出したくなる。
「ねえ、エドワード様……彼女は本当に、あなたの……過去の愛人だったのよね?」
問いに対し、彼は忌々しげに顔をゆがめて頷く。
「ああ。昔――俺がまだ本当の愛を知らなかった頃、いや、今も知らないかもしれんが……ただの欲で繋がっていただけだ。もう何年も前の話だ。とっくに終わっている」
その言葉にセレスティアは安心を覚える反面、アレクシスの投げかけた挑発を思い返してしまう。もし、エドワードが“退屈”や“飽き”を感じれば、自分も彼に捨てられるのではないかという不安。さらには“自分より彼を長く知っている女性”の存在に対する、得体の知れない嫉妬が渦を巻く。
「……たとえ終わった関係だとしても、あんなふうに彼女があなたを見つめる姿を見たら、私……胸が苦しくなるわ。私以外の女性が、あなたに触れていた事実が……嫌で、苦しいの」
そう吐き出した瞬間、セレスティアは自分の言葉に驚く。こんなにもストレートに嫉妬を口にしたことなど、生まれて初めてだ。しかし、エドワードを失いたくない、誰かと共有なんてしたくない――そんな強烈な気持ちが抑えきれなかったのだ。
エドワードは目を見開き、しばし言葉を失う。彼女がこんなふうに独占欲を示すなど想像していなかったのだろう。やがて、彼は小さく息を整えながら苦笑めいた表情を浮かべる。
「……そうか。お前がそんな顔をするとはな。……嫉妬、か?」
その問いにセレスティアはわずかにうつむき、唇をきゅっと結んで頷いた。みっともない感情かもしれない。けれど、彼が自分だけを見ていてくれるようになったのに、過去の女性が横槍を入れてくるのは我慢できない――そんな自分に気づかされた。
「ええ……初めて、こんなふうに他の女性に苛立ちを覚えたわ。あなたのことを独り占めしたいだなんて、ひどく自分勝手だってわかってる。けれど……抑えられないの。私も、あなたのことを手放したくないの」
言葉を重ねるほどに、セレスティアの顔は熱くなる。エドワードはいつの間にか立ち上がり、彼女の手を掴むと、ぐいと引き寄せる。思わずソファから立ち上がったセレスティアは、そのまま彼の胸に抱きとめられる形になり、鼻先が彼の首筋に触れるほど近づいた。
「……お前も、俺と同じように焦っているんだな。独り占めしたいだなんて、いいじゃないか。もっと早くにそう言ってくれれば……いや、今こそ言ってくれて嬉しい」
吐息混じりの声に、セレスティアの心は甘く震える。エドワードの腕からは強い力が伝わってくるが、かつての乱暴な執着とは違う。互いに“失いたくない”という想いを共有しているからこその、熱い抱擁。
「私は……あなたの過去なんて全部消せるわけじゃないって、頭ではわかっている。でも、もう誰にもあなたを奪われたくない。……こんな私を、笑う?」
顔を上げて見つめると、エドワードは真剣な眼差しで首を振った。むしろ、その瞳には僅かな笑いの気配すらなく、彼女の言葉をまっすぐ受け止めようとしている。
「笑うわけがない。お前の気持ちが、俺と一緒だとわかって、むしろ嬉しい。……もっと嫉妬すればいい。もっと俺を欲しがってくれたほうが、俺も安心できる」
その言葉は、歪んだ独占欲を肯定しているようでもある。だが、セレスティアは彼の真意を理解する――二人とも、失うことへの恐怖と渇望の中で生きている。だからこそ、お互いが“相手を独占したい”と感じるのは、“相手を必要としている”ことの裏返しでもあるのだ。
抱き合ったまま、しばし二人は何も言わない。けれど、その沈黙は応接室に残るイヤな空気を浄化するかのように、穏やかで熱を帯びた空気感へと塗り替えていく。
(この人を絶対に渡したくない――今なら、はっきりそう思える。私はもう、彼なしではいられないのだと、心が叫んでいる)
初めて知った自分の独占欲。セレスティアにとっては新鮮な驚きと少しの羞恥、そして何より「エドワードを愛している」という確信へと繋がっていた。アレクシスが煽ってきた嫉妬が、今や己の感情をさらけ出すきっかけとなったのだ。
エドワードの胸元に顔を埋めながら、セレスティアはそっと瞼を閉じる。彼が力強く肩を抱き寄せるたび、胸の高鳴りは増していく。外野が何を言おうと、どんな過去があろうと、今はただ“二人だけの想い”を守ることが大切だと思えた。
――そして、彼女に芽生えたこの独占欲は、まだ序章にすぎない。エドワードをめぐる過去の影はこれだけでは終わらないのかもしれないが、セレスティアははっきりと自覚した。自分もまた、彼を束縛してしまうほど愛しているのだと。誰かに奪われることなど絶対に許せないほど、強く強く……。
応接室の扉の向こうに消えたアレクシスの足音は、まだ遠ざかりきっていない。だが、二人の世界はすでに外の存在を拒むように強く結びついていた。セレスティアははじめて心の底から、エドワードを独り占めしたいという“欲望”を感じ、その熱が互いをさらなる深みへと誘う――。
その日は、アレクシスがもたらした嫌な余韻を残しつつも、セレスティアが自身の強い感情に気づく大きな転換点となった。エドワードの過去を知り、嫉妬を覚え、同時に“自分こそが彼の唯一でありたい”と願うこと。それは、これまでの人生で味わったことのないほどの衝動だったが、二人の愛を一層強固にする一歩でもあった。