セレスティアがエドワードの孤独と渇望を理解しはじめてから、二人の間には目に見えない絆の糸が張り巡らされていくようになった。束縛と執着が姿を消したわけではない。けれど、彼が夜な夜な自分を求める熱の裏には、愛を知らずに育った悲しみが潜んでいる――そう気づいて以降、セレスティアの心には彼を拒絶しきれない想いが膨らみつつあった。
ある日の午後、セレスティアは侍女から「ご主人様が呼んでおります」と声をかけられ、屋敷の裏庭へと足を運んだ。晴れ渡る空の下、貴族の庭とは思えないほどに自然な美しさを活かした庭園が広がっている。豪華な花壇や噴水がない代わりに、ほどよく整えられた木々が風にそよぎ、草花の柔らかな香りが漂っていた。
「あら……こんな場所があったのね」
以前から屋敷の広い敷地には気づいていたが、エドワードの目が行き届く正面の庭ばかりを利用させられており、この裏庭には一度も来たことがなかった。セレスティアが興味深げに辺りを見回すと、庭の奥でエドワードが背を向けるように立っているのが見える。彼は普段のきっちりとした正装ではなく、少し動きやすそうなジャケット姿。まるで軍人が休息のときに羽を伸ばしているような、どこかリラックスした雰囲気だ。
「エドワード様……」
遠慮がちに声をかけると、彼は振り返った。いつもの張り詰めた冷徹な表情かと思いきや、その瞳は少しだけ優しく緩んでいる。まるで目の前の景色を、そのまま受け入れているような柔らかさがあった。
「来たか。……お前が外を歩きたいと言っていたから、たまにはここの空気でも吸わせてやろうと思ってな」
そう言いながら、エドワードはほんの少し苦々しげに唇を動かす。これまで自分で厳しく制限してきた彼自身のルールを、わずかに崩したのだろう。その表情には照れと、うまく言葉にならない感情が入り混じっているように見えた。
(彼なりに、私を外へ連れ出す勇気を出してくれたんだ……)
セレスティアの胸に、温かいものがこみ上げる。先日までは「必要がなければ外出など不要」と言い放っていた彼が、ここへ連れてきてくれたのだ。まだ屋敷の中ではあるけれど、彼女にとっては十分すぎる進歩だった。
「ありがとう、エドワード様。こんなにも広々とした裏庭があるなんて……あなたが教えてくれなければ、きっと知らないままだったわ」
ほんのり弾む声を抑えながら礼を言うと、エドワードは視線をそらすように短く咳払いをした。彼にとっては、こうした“ささやかな優しさ”を示すこと自体が照れくさいのだろう。その仕草に、セレスティアはさらに心をくすぐられる。
裏庭を歩きながら、二人の会話はいつもよりゆっくりと穏やかだった。風の音や小鳥のさえずりがBGMとなり、時折彼が口にする短いフレーズにも、かすかな温もりが宿っている。束縛と警戒心で固められた彼の鎧が、少しずつ解けている――セレスティアはそんな手応えを感じた。
「しかし……この裏庭は昔の当主が好んでいた形のままで、正直なところ派手さに欠ける。お前には物足りないかもしれない」
エドワードが低く呟くように言うが、セレスティアは首を横に振った。
「とんでもないわ。私はこういう落ち着いた雰囲気、すごく好きよ。華美な花壇も素敵だけど、こうして自然のままの風景があるとホッとするもの」
その言葉にエドワードは少し戸惑ったような表情を見せる。自分の想像とは逆の反応をされると、どう対応すればいいのか分からないのかもしれない。
「……そうか。お前が気に入ってくれるなら、それでいい」
短い返答。それでも、その一言に含まれる気遣いは、彼が自分以外の存在を大切に思い始めている証左にほかならない。そう思うと、セレスティアの胸はじんわりと温かくなった。
裏庭を一通り散策し、少し疲れを感じた頃、セレスティアは木陰のベンチに腰掛けた。エドワードも隣に座り、しばし無言のまま風の音を感じる。その沈黙は、以前のように気まずいものではなく、穏やかな呼吸を共有する優しい空気だった。
「……最近、俺は少しおかしいのかもしれない」
ふいにエドワードが低い声で呟く。セレスティアは彼の横顔を見る。整った輪郭は相変わらず鋭いが、瞳はどこか柔らかな色を帯びていた。
「おかしいというのは……?」
「お前が側にいると、安らぐというか……。それなのに、同時に胸がざわついて、落ち着かなくなる。離れたくないし、けれど妙に不安になることもある。正直、どう扱えばいい感情なのか、まったくわからない」
彼にしては率直すぎるほど率直な吐露。セレスティアの心臓がドキリと音を立てる。思わず手が震えそうになるが、顔を上げて微笑みを返した。
「それは……たぶん、わたしも同じよ。あなたといると落ち着くのに、心がいろんな感情でいっぱいになるから……自分の中で混乱してしまう。だけど、不思議と嫌じゃないの」
その言葉に、エドワードはしばらく視線を宙に泳がせ、それから静かに笑みのようなものを浮かべた。彼がこんな表情を見せるのは本当に稀で、セレスティアの心が強く揺さぶられる。
(彼は、自分が感じているものが「愛情」だと、まだ自覚していないのかもしれない。けれど、確かに今、私に対して穏やかな気持ちを抱いてくれている……)
その日の夕刻、二人は仲良く屋敷へ戻った。夜になってからは相変わらず警戒するようにセレスティアを“離さない”態度があったが、それでも彼の触れ方や言葉には、以前ほどの痛々しい執着が薄れている。まるで、「大切なものを壊さないように」と気を使ってくれているかのようだ。
夜が更け、寝室でランプの灯に照らされる中、セレスティアはエドワードのシャツのボタンをそっと外してやった。彼は流れるように腰に腕を回し、唇を合わせる。かすかな熱が伝わり、彼の鼓動が早まるのが手に取るようにわかる。
「……お前を抱きしめていると、安心する。だけど、怖さもあるんだ。もし俺がこの手を離したら、お前はどこかへ行ってしまうんじゃないかって……」
低い声で耳元に囁かれ、セレスティアは胸を締めつけられるような切なさを覚える。抱き寄せる腕は力強いが、その心はまるで迷子の子どものように弱々しい。
「わたしは、あなたの側を離れないわ。あなたが本当に心を通わせてくれる限り……ね」
優しく笑みを浮かべながら答えると、エドワードは僅かに目を伏せて、苦しそうに唇を噛んだ。自分のなかに渦巻く焦燥や不安が、彼女の言葉でどれほど落ち着くのか、まだ彼自身つかみ切れていないようだ。だが、それでもセレスティアの首筋に口づけを落とす仕草は、かつての乱暴さよりもどこか丁寧で、愛しむようでもあった。
その夜は、いつも以上にゆっくりと身体を重ね合った。言葉にならない想いを肌で感じ合い、ただ一緒にいることで満たされる。不器用な愛のカタチ。それでも、セレスティアは彼が「自分だけは失いたくない」と願ってくれているのをはっきりと感じ取っていた。
――どれほど強烈な束縛でも、真綿で締めつけるような支配でもなく、今の彼が放っているのは「唯一無二の存在を大切に思う切実さ」。それがセレスティアの心を深く震わせる。彼にとって自分が特別なのだと、自覚できる瞬間が確実に増えているのだ。
翌朝、まだ早い時間に目を覚ましたセレスティアは、隣で穏やかな寝息を立てるエドワードをじっと見つめた。もはや、この場所が自分の居場所でもあると感じられるようになっている。少し前までは、父親の意向で嫁がされたという屈辱や孤独があったが、今では彼こそが「帰る場所」なのかもしれないと思うほど、心が安らいでいた。
(私は、きっと彼にとって唯一の存在なんだ。誰にも愛されず、愛する術さえ知らなかった彼にとって、私の存在だけが……)
そう思った瞬間、セレスティアの中で熱い何かがこみ上げてくる。幸福感とも、切なさとも区別のつかない感情。けれど、それこそが「彼にとっての唯一になりたい」という強い願いなのだろう。
――まだ道半ばではある。エドワードの執着は完全には消えていないし、彼が抱える孤独の闇が晴れたわけでもない。だが、その闇に差し込む一筋の光として、セレスティアは間違いなく選ばれた。
自分がこの屋敷に来た意味が、今ようやく少しずつわかりかけている。愛に飢えた男の心を癒すために、自らも同じように愛を知らない少女だった自分が選ばれたのだ――そう言われても不思議ではない運命を、セレスティアは噛みしめていた。
やがて、エドワードがうっすらと目を開き、セレスティアの姿を見つけてわずかに微笑む。照れ臭そうに視線をそらしながら「……おはよう」と囁く彼に、セレスティアは同じように小さく笑みを返す。
「おはようございます、エドワード様。今日も、ずっと……一緒にいましょう?」
ありふれた言葉に聞こえるかもしれないが、エドワードにとっては特別だ。彼が誰かと“共に”朝を迎えること自体、きっと初めての経験に近いのだろう。孤独であった過去と、これからの未来。二つの狭間で揺れる彼の心を、セレスティアはそっと包み込みたいと願った。
――こうして二人は少しずつ距離を縮めていく。エドワードは相変わらず不器用で、不安定な感情に揺さぶられることもある。セレスティアも、まだすべてを許容できるわけではない。
だが、それでも確かに進んでいる。一歩ずつ愛へと近づく道を。エドワードにとってセレスティアが唯一の存在であることを、彼女自身がはっきりと感じはじめた今、もう引き返すことなどできない。互いにとって相手が「必要不可欠」なのだと、心が確信してしまったから――。
朝日の射し込む窓辺で、セレスティアはエドワードと一緒に今日も一日を始める。そこには、数週間前まで想像すらできなかったほど穏やかな空気が流れていた。歪んだ執着から生まれた愛のカタチが、少しずつ真の幸福へと変わりつつある――その予感が、セレスティアの胸を熱く満たしていく。