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第11話 :二人の距離1

 翌朝、東の空が仄かに白み始める頃、セレスティアは重たい瞼を開いた。隣ではエドワードが深い眠りに落ちており、彼の肩越しに見える寝室の調度品が静かな影を作り出している。まだ夜の名残を感じさせる薄暗さの中、セレスティアはそっと身じろぎして、彼の寝顔を窺った。

 寝息を立てるエドワードの表情は、いつもの冷徹さや強引さが嘘のように穏やかだ。まるで幼い子どもが安心して眠るかのように、かすかに眉を緩めている。その姿を見た瞬間、セレスティアの胸は得も言われぬ切なさで満ちた。彼の意志が眠りに沈んでいる今だからこそ、彼がこんなにも柔らかい顔をできるのだろう。

 (この人は、本当はただ誰かに愛されたい、寄り添われたいと願っているのではないだろうか――)


 セレスティアは、その思いをいっそう強くする。昨日までの束縛や執着を振り返っても、そこには「自分を繋ぎとめておきたい」という必死さがにじんでいた。愛し方を知らないがゆえに、必要以上の所有欲へ走ってしまう――幼い頃に愛されることを知らずに育てば、誰しも歪んだ執着を抱えてしまうのかもしれない。

 指先が無意識に彼の頬へ伸び、ほんの少し触れた。すると、エドワードの瞼がかすかに震え、低い唸り声のような呼吸とともにゆっくりと目を開く。

 「……セレスティア?」

 寝起きの掠れた声が耳に心地よく響く。彼はまだ深い眠りの名残を感じさせるまどろみの表情で、彼女を見つめた。すぐにその瞳に冷徹な光が戻る――かと思いきや、今朝はどこかぼんやりと優しい。まるで昨夜交わした想いが、朝日とともに少しだけ彼の心を解放しているようだ。


 「おはようございます、エドワード様。……よく眠れましたか?」


 セレスティアの問いかけに、エドワードは短く息をつく。まだ意識が覚めきらないのか、いつものように言葉で武装することもせず、無遠慮にセレスティアの髪へ手を伸ばした。彼女の淡い金色の髪を指に絡め、ゆっくりとほどく。その仕草は執着心の表れであるはずなのに、今はどこか切実なぬくもりを求めるようにも見える。

 「……悪くなかった。お前が隣にいると、眠りの質が違う気がする。……奇妙だが」

 最後につぶやかれた言葉を聞き、セレスティアの胸に温かいものが広がった。不器用な彼なりの“安心している”というメッセージなのだろう。これまでになかった柔らかな空気。束縛でしか心をつなぎ止められなかった男が、ほんの少しずつ「寄り添う」という関係を見つけようとしている。


 やがて身支度を整えたあと、エドワードは執務室へ向かい、セレスティアは侍女に誘われて朝食の場へ移る。食堂にはいつものように豪華な朝食が並べられていたが、セレスティアは胸がいっぱいであまり箸が進まない。頭の中を巡るのは、エドワードが見せつつある変化と、彼が求める愛の形のことばかりだ。

 ふと、侍女たちが給仕をする合間に、不意に彼女たちの会話が耳に入る。

 「当主様、少し表情が柔らかくなられたように思いませんか? 奥様と結婚されてから……こういう言い方は失礼かもしれませんが、少し雰囲気が変わられましたわ」

 「ええ、本当に。以前は、どちらかというと黙り込んで人を寄せつけない感じでしたし、執事のレオン様しかまともにお話できないような状態だったのに……」


 それは今朝のセレスティアの実感とも重なる。少なくとも彼は、周囲に見せる表情がわずかに柔らいできたのだ。依然として厳しく冷たそうに見えることに変わりはないが、その奥底に何かあたたかなものが芽生えている――そう思えるだけでも、セレスティアの心は救われた。

 「……ありがとうございます」

 ふと侍女たちにそう声をかけると、彼女たちは驚きつつも恭しく会釈をして微笑む。セレスティアは胸の奥に、エドワードとの未来へほんの少しの希望を抱きながら、食事を済ませて部屋を出た。


 その日、セレスティアは長い廊下や書斎をゆっくりと巡りながら、これまで以上にエドワードの痕跡に意識を向けた。手に取った本の栞の裏に、彼が昔書きつけたらしきメモが残っているのを見つければ、なぜか切なさとともに微笑ましさがこみ上げる。部屋の隅にある古い小物からは、彼の幼少期の面影がうっすらと感じられ、愛を知らなかった少年の姿を想像するたびに、胸が締めつけられた。

 (この人は、真っ白な寂しさの中で育ってきたのだろう。だからこそ、少しでも温かさを感じると、それにしがみつかずにはいられない。きっと、それが束縛としてしか表に出せないんだわ)


 夜になり、セレスティアはエドワードが執務を終えるのを待ってから、一緒に晩餐の席についた。テーブルには銀の燭台が並び、揺れる灯りが食器をきらめかせる。彼は相変わらず多くを語らないが、以前よりは柔らかい雰囲気で食事を続けている。

 「今日は、……なにかいいことでもあったのか? やけに機嫌が良さそうだな」

 先に口を開いたのはエドワードだった。セレスティアは少し戸惑いつつも微笑みを返す。

 「そう見えるかしら。……私、少しずつあなたのことがわかってきたような気がするの。だから、心が少し安らいでいるのかもしれない」

 言葉を継ぐ間に、エドワードは持っていたワイングラスを置き、真剣な表情で彼女を見つめる。

 「俺のことを、わかったと……?」

 「すべてじゃない。けれど、あなたがどんな寂しさを抱えているのか、その一端を理解できる気がしているの。……気のせいかもしれないけれどね」


 正直、エドワードの心のすべてを理解するには、まだまだ多くの障壁がある。それでも、わずかにでも“愛されない子ども”だった彼の記憶に触れ、彼が不器用な執着を抱えている理由を想像するだけで、セレスティアは孤独と愛への渇望を共有できるように思えた。

 エドワードは微かな苦笑を浮かべ、目を伏せる。嫌悪ではなく、ほんの少し照れたような仕草に見えた。

 「お前はお人好しだな。普通なら、俺の束縛に怯えて逃げ出してもおかしくないのに……」

 「怯えてるし、逃げたいって思ったこともあるわ。でも、あなたが誰よりも孤独を恐れていることを知ってしまったから、どうしても見捨てられなくなるの。私も……昔から愛情に飢えていた部分があるのかもしれない。あなたとは違う形だけど」


 何かが胸の奥で音を立てる。彼女自身、家族から本当の意味で大切に扱われた覚えはない。道具として嫁がされた過去があるからこそ、愛の渇望がどれほど切ないものなのか、痛いほどわかっていた。エドワードもまた、“持て余すほどの財力と地位”に比して“愛される経験”はほとんどなかったのだ。

 だからこそ、二人の寂しさが響き合い、惹かれ合ってしまう――セレスティアはその現実を噛みしめる。これがもし、本当の恋心へと繋がるのだとしたら、それは怖いほどに運命的な出会いかもしれない。


 その夜、寝室へ戻ったあと、セレスティアは静かな灯りの下でエドワードと向き合った。彼が言葉少なに語る一つひとつを逃さないように耳を傾ける。すべてが“自分を守るため”に纏った鋭利な鎧のようにも感じられる。強く見える彼は、その分だけ傷つくことに過剰な恐怖を抱いていた。

 不意に、エドワードがセレスティアの頬に触れ、まっすぐ見下ろす。その瞳は暗い海の底のような深さを秘めている。

 「……お前と過ごすと、なぜか胸が痛む。甘い安らぎと、苦しさが同時に押し寄せてくる。これは一体、何なんだ……」

 その告白とも呟きともつかない言葉を受け、セレスティアは唇をぎこちなく動かす。

 「きっと……愛しいと思う気持ちと、失うかもしれない恐怖が混ざっているんだと思う。あなたはまだ、その両方に戸惑っているんじゃないかしら」

 それを聞いたエドワードはしばし黙りこみ、やがて小さく息を吐いた。拒絶や嘲笑ではなく、受け止めるような仕草。どう言葉にしていいかわからないまま、彼はセレスティアの頭をそっと抱え込み、耳元で熱い呼吸を落とす。

 「……お前は、俺から逃げるな」

 「ええ。逃げないわ」


 束縛と恐怖が生まれるほどの渇望――それはおそらく、エドワードが「本当に愛される」経験をしていないからこそ芽生えたもの。それを知った今、セレスティアはただ見捨てることなどできなかった。ましてや、自分も家族からの無情な扱いに慣れきっている身だ。きっと、彼の孤独と渇望を誰よりも理解できるのは、同じ痛みを抱えた者同士だからこそ……。


 優しく抱きしめ合ったまま、二人は長い沈黙を共有する。肌と肌のあたたかさが、言葉の代わりに互いの心を少しずつ溶かしていく。このとき、セレスティアははっきりと感じた――彼の冷徹さの裏には、愛を知らずに傷つき続けてきた少年の面影があるのだと。

 (この人の心の闇に触れ、少しでも孤独を取り除いてあげられるなら……私はそのためにここにいるのかもしれない)


 翌朝、いつも通りエドワードは執務に忙殺されているらしく、朝食のテーブルをともにすることはなかった。だが、セレスティアは不思議と寂しさよりも、彼をもっと知りたい、支えてあげたいという思いに駆られていた。あれほど彼の束縛に息苦しさを感じていたのに、その愛の裏にある孤独を見てしまうと、なぜか彼が愛おしく思えてしまうのだ。

 (私が、彼の唯一の居場所になれるとしたら……どんなに素敵なことだろう)


 そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。まだ形にはなっていないけれど、セレスティアはエドワードの孤独と渇望を受け止める“器”になりたいと願い始めている。支配的な態度も、過度な束縛も、元を辿れば“深い寂しさと愛を求める心”の反動なのだから――。


 こうして、二人の関係はゆっくりと変化の兆しを見せ始める。決して一夜で通じ合うような生半可なものではないが、セレスティアはエドワードの心に少しずつ触れ、彼の孤独を理解していく手応えをつかみかけていた。

 朝の光が差し込む廊下を歩く彼女の足取りは、かつてとは違ってやや軽やかだ。束縛と不安が消えたわけではない。だが、それを上回る勢いで“愛されたい”と願うエドワードの素顔に触れたいという思いが、セレスティアの胸を満たし始めていたのである。



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