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第10話 :囚われの鳥籠 5

 夜の帳がゆっくりと降りてきた頃、セレスティアはまたしても外へ出られない一日を終え、重い足取りで寝室へと戻ってきた。屋敷の廊下には控えの護衛や侍女が待機しており、彼女が一人で出歩くことを決して許さない態勢が敷かれている。この数日の間に、エドワードの“守る”という名の拘束はますます強まっていた。


 「……やっぱり、今日も外出は叶わないのね」


 廊下の窓から月を見上げ、セレスティアは小さくつぶやく。すぐ近くに立つ侍女が申し訳なさそうに目を伏せるが、それ以上は何も言わない。皆、エドワードの意向に逆らうことはできないのだ。その現実を噛みしめるたび、セレスティアの胸には息苦しさが募るばかりだった。


 寝室の扉を開けると、いつもよりも早い時間にエドワードが部屋の中にいた。豪奢なシャンデリアの灯が、彼の引き締まった身体を淡く照らしている。すでに上着を脱いでシャツの袖をまくり上げたその姿は、威圧的でありながらどこか危うい色気を放っていた。ひと目で、彼の気分が落ち着いていないことがわかる。まるで胸の奥に燻る炎を無理やり抑えつけているかのように見えた。


 「……帰ってきたのか。遅かったな」


 エドワードが低い声で言い放ち、セレスティアをまっすぐに見据える。だが、彼女はうろたえずに彼の視線を受け止めた。もはや逃げ場などない。それならば――と、決意を固めるように胸を張る。


 「ごめんなさい。少し考えごとをしていて……」


 短い言い訳だけを告げると、セレスティアはそのままベッドの脇に立ち、彼を正面から見上げる。エドワードの瞳はどこか苛立ちや焦燥を宿しながら、彼女をぎりぎりまで見つめていた。まるで、すべてを呑みこんでしまうほどに深い夜の色を帯びている。


 (もう、これ以上は我慢できない。ちゃんとぶつからなければ――)


 ここ最近、彼女の行動は全面的に制限され、外へ出るどころか、屋敷内でも常に監視がつきまとう。彼がセレスティアの身を案じているのはわかる。だが、その裏には「手放したくない」「どこへも行かせたくない」という強烈な執着が透けて見える。

 そして今夜、セレスティアはそれをはっきり問いただすつもりだった。エドワードの言う“守りたい”という言葉が、果たして真の愛情なのか、あるいはただの所有欲なのか――。


 「エドワード様……。お話があります」


 深く息をついてから、セレスティアは彼の名を呼んだ。すぐ近くにいるのに、その距離がやけに遠い。エドワードはテーブルの上のグラスを手に取り、一気に中身をあおる。アルコールの刺激を求めるように、無言のまま飲み干すと、少し荒々しい仕草でグラスを置いた。


 「……なんだ」


 「私、もう限界なんです。あなたが私を心配してくれることは嬉しいけれど、このままでは、まるで籠の中の鳥。どこへも行けず、誰とも自由に話せず……。あなたがそんなに私を束縛する理由は、本当は何なの?」


 言葉をぶつけた瞬間、エドワードの目がわずかに見開かれる。彼女の真剣さと、隠しきれない苦しみに満ちた声が、夜の静寂を破って響いた。しばし沈黙が降りるが、やがてエドワードは小さく息を吐き、その瞳には冷ややかな光が灯る。


 「理由なんて単純だ。お前は俺の妻だ。奪われるのはごめんだし、お前がどこかで面倒なことに巻き込まれるのも不愉快だ。俺の領地なら、俺の屋敷なら、安全に暮らせる。何が不満なんだ?」


 突き放すような口調に、セレスティアの胸はちくりと痛む。彼が本当にただの所有物として扱っているのなら、それを証明するかのような言葉だ。けれど、セレスティアはじっと彼の瞳を見つめ返す。そこには、言葉以上に切実な叫びが隠されているように思えた。


 「不満があるわけじゃないわ。むしろ、ここで過ごす日々は何不自由なくて……でも、自由もない。私はあなたのものなんでしょう? でもそれは“ただの持ち物”として? それとも“愛する人”として?」


 エドワードがテーブルを拳で打ち鳴らし、睨むように目を細める。その音にセレスティアは一瞬身をすくめるが、ここで引き下がるわけにはいかない。長年愛を知らずに生きてきたという彼が、果たして今、何を思って彼女を繋ぎとめようとしているのか――真実を知りたかった。


 「お前は俺の妻だ。それだけで十分な理由だろう。俺は失いたくないものを、手放す気はない。何が悪い?」


 「……私だって、あなたを失いたくはありません。けれど、失うのが怖いからって私の行動を全部奪うのは違う。何より……あなたが私をどう想っているかが、わからなくなるんです」


 セレスティアの声が微かに震える。怒りよりも悲しみが先に立ち、涙が浮かびそうになるのを必死で堪える。彼の言葉には、“お前は必要だ”というメッセージが確かにある。それが純粋な愛情なのか、ただの縛りつけなのか――それを判別できずに苦しむのは、あまりにも辛い。


 「……愛している、とでも言えば満足するのか?」


 低くかすれた声が返ってきた。エドワードの瞳には、自嘲とも憤りともつかない色が宿る。彼自身もまた混乱しているのだろう。幼い頃から愛を知らずに育った彼が、“愛している”という言葉をどう扱えばいいのか、そもそもわかっていないのかもしれない。


 「愛していると口先で言われても……本当かどうか、わからない。私は、あなたの行動や言葉の端々に、あなたの気持ちを確かめたいの」


 もどかしさに胸が痛む。セレスティアとしては、彼が愛を求めるあまりに暴走していることを理解しているつもりだ。けれど、“理解”だけでは足りない。自分が本当にどう扱われているのか、彼にとってただの所有物なのか、それとも本気で愛されているのか――。その答えなくして、これ以上、苦しみを抱えたまま生きるのは難しい。


 すると突然、エドワードが荒々しい足取りでセレスティアとの距離を詰め、ぐいと手首を掴んだ。勢いに押され、彼女はベッドへと倒れこむ。痛みが走るよりも先に、彼の体温が肌に触れて、心臓が大きく跳ね上がる。


 「俺の気持ちを確かめたいだと? なら、好きなだけ確かめろ。……それでも、お前は俺から逃げようとするのか?」


 エドワードの声は怒りと渇望に歪んでいる。彼が強引にセレスティアを押さえつけ、そのまま唇を奪う。荒々しくも熱を宿した口づけは、拒絶を許さない。セレスティアは一瞬身体を強張らせたが、彼の切羽詰まった感情を感じとると、抵抗する気力が薄れていくのを自覚する。


 (また、彼の不器用な執着……でも、その奥には……)


 唇を離した隙間から、彼女は震える声で問いかける。


 「あなたは……どうしてそんなに、私を……」


 けれど、その声は最後まで紡がれることなく、再び彼の唇に塞がれた。熱い吐息を交わし合う間、エドワードはまるで切羽詰まった野獣のように、セレスティアの髪や頬、首筋を追い求める。愛し方を知らずに、それでも激しく相手を必要としている――そんな哀しささえも伝わってくる。


 「……俺は、お前を離さない。たとえ、お前が俺を憎んでも……」


 いびつな愛の宣言。そこに“好きだ”とか“愛している”とか、はっきりした言葉はない。けれど、その苦しげな瞳が訴えているのは、“お前がいない世界などあり得ない”という哀切な想いなのだろう。


 セレスティアは胸を締めつける痛みに耐えながら、そっと彼の背に手を回す。その身体は熱く、震えていた。まるで幼い子どもがすがるように、自分の存在を必死に確かめるように、彼はセレスティアを求めている。支配欲や独占欲だけでは説明しきれない、“生きるための必死の衝動”すら感じられた。


 「……私は、あなたのものにはならない。けれど……あなたを嫌いになれないの。こんなに私を苦しめているのに、どうしても……」


 セレスティアの言葉に、エドワードは瞳を揺らしながら小さく息をついた。そして、まるで懺悔するかのように囁く。


 「わかってる……俺は、愛し方を知らない。今まで、手に入れてもすぐに離されるか、壊れてしまうか……そんなことばかりで……。だから、お前だけは――絶対に俺のもとからいなくならないように、縛りつけるしかないと思っていた」


 静寂が落ち、互いの荒い呼吸だけが寝室に満ちる。エドワードの拳はベッドのシーツを掴み、苦しみのあまりか、かすかに震えている。セレスティアは自分の胸の高鳴りを抑えられないまま、彼の頬をそっと撫でた。


 「あなたが、本当に求めているものは……私を『所有』することじゃなくて、『愛してもらえる』安心じゃないの……?」


 その問いに、エドワードははっと息を呑むように瞳を見開いた。長年、誰にも踏み込まれなかった核心に触れられたように、苦しげな表情を浮かべる。彼が追い求めてきたのは、失うことへの恐怖が生み出す“束縛”。だが、その裏には“自分が愛される価値があるのだろうか”という疑念と焦燥が横たわっていた。


 「…………」


 答えられないまま、エドワードはセレスティアの手のひらに顔をうずめる。彼女は何も言わず、彼が落ち着くまでじっと受け止めることにした。支配や所有とは違う、深い愛情を互いに手探りしているような、そんな奇妙な空気が流れていく。


 やがて、エドワードはわずかに顔を上げ、セレスティアをそっと抱き寄せる。先ほどまでの荒々しさは鳴りを潜め、どこか悲しげな眼差しが彼女を映していた。


 「……お前は、本当に不思議な女だ。俺の支配に怯えながらも、どこかで拒絶しきれずにいる。なぜ、そこまで……」


 セレスティアは微笑むように瞳を細め、静かに答える。


 「だって、あなたが私を苦しめるだけの冷酷な人じゃないって、もうわかってしまったから。私も……怖い気持ちはあるけれど、あなたを見捨てられない。あなたが欲しがっているものが、私にできることかどうかはわからないけれど――少なくとも、私はあなたのそばにいたいと思ってる」


 その言葉に、エドワードの瞳が揺れ、やがて少しだけ緩む。完璧な答えではない。彼が求める絶対的な安心など、すぐに得られるものでもない。けれど、セレスティアの“逃げない”という意志が、彼の心をほんの少し溶かしたように感じられた。


 「……お前は、この俺から離れないか」


 「離れたくないわ。けれど、私だって自分の意思や自由を大事にしたい。あなたにすべてを奪われるような生き方は、できない」


 セレスティアのきっぱりとした答えに、エドワードは眉をひそめるが、その表情には先ほどまでの苛烈な怒りはない。むしろ、戸惑いや逡巡が見え隠れしている。おそらく生まれて初めて、“所有物”ではなく“対等な存在”としての相手と向き合う状況に直面しているのだろう。


 言葉を失ったエドワードは、やがて小さく息を吐き、セレスティアの額に唇を落とす。甘くもあり、どこか哀しみを帯びたキス。そのまま彼女の髪を撫で下ろし、微かな震えを抱え込むように抱き寄せた。


 「……わかった。今すぐ全てを受け入れられるわけじゃない。だが……お前が本当に、俺のもとから逃げないと誓うなら……」


 「……私が逃げないように、愛を育ててくれるなら、きっと……」


 互いの息が重なり合うほどの近さで、途切れ途切れに言葉を交わす。闇夜の静寂の中、二人の鼓動だけが耳を打つ。すぐには解決しない――それはセレスティアにも分かっている。それでも、今日という夜に確かめ合った真実は、支配ではなく“愛”を目指す第一歩であるように思えた。


 やがて、部屋に深い沈黙が落ち、エドワードはそっとセレスティアの肩から腕をほどく。その瞳にはまだ迷いの色が残るが、同時にどこか安堵めいた光が宿っていた。


 「……疲れただろう。今日はもう休め。夜は長い」


 そう告げる声には、いつものような冷たさはない。セレスティアは微笑みを返し、彼の背中にまわした手をゆっくり離す。確かに今夜は長い。だけど、それ以上に、これから二人が踏み出す道はもっと長いのだろう――そんな予感を抱きながら、セレスティアはそっとベッドの上で身を丸めた。


 (大丈夫。私たちはきっと、まだ変われる。あの人は愛の形を知らないだけ。私が、本当の意味で寄り添えたら……)


 瞳を閉じると、エドワードが隣にいる確かな体温を感じる。所有欲だけに支えられた関係から、愛を見つけられる関係へ。簡単な道のりではないかもしれない。それでも、セレスティアは逃げずに“彼のそばにいる”と決めた。それが彼女自身の自由意志であり、彼にとってはこれまで出会ったことのない“愛の形”を教えるための第一歩なのだ。


 夜はしんしんと更けていく。重ね合わせた二人の呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて穏やかな静寂が部屋を包む。外からは月明かりがうっすらと差し込み、まるで未来を照らそうとするかのように、ベッドの片隅を照らしていた。


 セレスティアは微かな安堵を感じながら、そっとまぶたを閉じる。次の朝が来たとき、果たしてエドワードはどう変わるのか。それとも何も変わらないのか――。それはまだわからない。けれど、一歩を踏み出したという実感が、彼女の胸をほんの少しだけ軽くしてくれた。


 (あなたの執着を、ちゃんと愛に変えてみせるから――)


 そう誓うように、セレスティアは密かに握りしめた拳を緩める。伸ばした指先が、すぐ近くにあるエドワードの手の甲にそっと触れた。その肌は熱を帯び、かすかに震えている。彼の孤独はまだ終わらないかもしれない。それでも、今夜の対話と抱擁が、光へと続く扉を少しだけ開いたのだ――そう信じたいと思いながら、セレスティアは静かに彼の名を呼んだ。


 「……エドワード」


 ただそれだけの囁きで、彼の手の甲がわずかに動き、指が絡み合う。鳥籠の扉は完全には開かれていない。けれど、もう手探りで愛を探り合うだけの夜ではない。互いの手をしっかりと握りしめることで、いつの日か――執着だけではない“真実の愛”へと到達できるかもしれない。その希望を抱いて、セレスティアは夜の闇の中、彼と共に微睡みへと誘われていった。



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