敵対貴族が引き起こした一連の陰謀が、ついに終焉を迎えたのは、それからさらに数日後のことだった。エドワードが調査を進め、慎重に証拠を集めていた結果、策の裏をかくように彼らの拠点を突き止め、必要最小限の手勢で一斉に制圧したのだ。以前なら間違いなく「血の海」に変えたであろう場面で、彼はセレスティアとの約束を思い出したのだろう。極力流血を避け、主犯格の貴族たちを確保するに留めている。
報復劇の結末としては、もしかすると“生ぬるい”と感じる者がいるかもしれない。だが、それはエドワードにとって大きな変化だった。敵を完全に滅ぼすのではなく、法に委ねる形で決着をつける――そこには、セレスティアが望んだ「あなたが血で染まらない未来」を考慮した、彼なりの答えがあったのだ。
屋敷に戻ったエドワードは、意外なほど落ち着いた雰囲気でセレスティアの前に現れた。深夜にもかかわらず、彼女は胸の高鳴りを抑えられず、玄関ホールで出迎える。折れそうな心を何度も奮い立たせながら、この日を待っていたからだ。
「エドワード様……お帰りなさい。無事、終わったのね?」
静かな声でそう問いかけると、彼は微かに疲れをにじませながらも、淡く微笑む。そしてセレスティアに歩み寄ると、そのまま何も言わずに彼女を抱きしめた。まるで強い安堵と、愛しさと、全身から力を抜いたような抱擁。背中に回された腕からは、彼が“もう大丈夫だ”と言っているのが伝わってくる。
「……すべての首謀者が、裁きの場へ送られることになった。……この手で息の根を止めてもよかったが、そうしたら二度と、お前と笑い合えない気がしたんだ」
小さく笑いを伴いながらの囁きに、セレスティアは胸が熱くなる。彼がどれだけの怒りと孤独と戦ってきたか、想像するだけで瞳が潤んだ。かつてのエドワードなら、遠慮なく敵を“血祭り”にあげていたかもしれない。それでも、彼は苦しみながらもセレスティアの言葉を思い出し、暴走する手前で踏みとどまったのだ。
「……ありがとう、エドワード様。私、あなたが無事に帰ってきてくれて本当に嬉しい……」
繰り返し言葉を口にしていると、彼女の頬には安堵の涙が伝う。かすかな震えとともに、その涙を彼はそっと拭い、さらに優しく腕に力を込める。傷ついた身体も心も、こうして二人で寄り添うだけで救われるような気がした。
***
翌朝、屋敷はすっかり落ち着きを取り戻していた。暗い陰謀が晴れたことで、使用人たちの表情も明るい。侍女や護衛兵、執事までもが、セレスティアとエドワードの動向をどこか誇らしげに見守っている。
セレスティアは刺客に襲われたときの擦り傷やあざがまだ残っていたが、気分はかなり良い。何より、エドワードの姿が格段に柔和になっている――周囲もそれを感じ取っているのか、安心した空気が流れていた。
朝食後、エドワードは執務室へ向かう前に、セレスティアを一際強く抱きしめる。まるで「ようやく訪れた穏やかな朝」を、その肌で確かめ合いたいかのように。
「……もう、しばらく大きな争いは起こらないだろう。しばらくは安心していい。……お前を、こんなにも血なまぐさい世界に巻き込んでしまってすまなかった」
「ううん、エドワード様が生きていてくれたことが一番大切。私も……あなたの力になりたかったのに、あまり何もできなくてごめんなさい。でも、あなたがこうして戻ってきてくれるなら、私はそれだけで――」
囁きながら彼を見上げると、エドワードの瞳が甘やかに揺れ、微笑みを浮かべる。それは、以前の“冷酷な仮面”に覆われた顔とはまるで違う、本心からセレスティアを愛し、守りたいと思う男の表情だった。
「お前は、俺の何より大切な存在だ。お前がいるから、俺はこうして生きていける」
まるで独り言のような、甘い溜息に似た言葉。セレスティアはその響きに胸を締めつけられ、自然と笑みがこぼれる。改めて思う――“執着”から“本当の愛”へ変化しているのだと。彼が取り戻したのは孤独の闇に沈む未来ではなく、セレスティアと歩む明るい日々だ。
***
それからしばらく、エドワードは溺愛ともいえるほどセレスティアを甘やかし始めた。もとより独占欲は強かったが、今はその裏に深い慈しみがある。彼女が小さな用事で廊下を歩けば、その足音を追うようにして隣に並び、まるでお姫様の付き人のように笑顔でエスコートする。
セレスティアが読書をしていれば、その肩越しに「疲れていないか?」と声をかけてくるし、庭を散策すれば必ずと言っていいほど隣についてきて休憩を促す。食事の場でも、彼女の好みの料理が並ぶように料理人に指示を出しているらしい。
「エドワード様、こんなに気を使わなくても大丈夫なのよ。私、もう元気だし、あなたに苦労をかけたくないわ」
遠慮がちにそう言うと、彼は苦笑を交えながらかぶりを振る。
「今まで血なまぐさいことでしか自分を証明できなかったから、少しでもお前のためになることをしてみたいんだ。大切な人に尽くすのは、悪い気分じゃない」
いつしか、彼の声は穏やかに変わっていた。たとえ狂気をはらんだ怒りを内に抱えていたとしても、セレスティアの前ではそれを見せることなく、甘やかす喜びに浸っているようだ。使用人たちも微笑ましく見守っているが、その過保護ぶりには驚きを禁じ得ないらしく、使用人同士が「旦那様がすっかり奥様に夢中だわ」とひそひそ話を交わしている姿もよく見かける。
「そんなに構わなくても私は逃げたりしないのに……」
セレスティアが苦笑混じりに呟くと、エドワードは少し寂しげな笑みを返す。
「わかってる。でも、以前の俺はお前を縛りつけることでしか所有を示せなかった。……これからは“愛”で示したいんだ。それは執着より、はるかに幸せなものだから」
その言葉に、セレスティアは胸をぎゅっと熱くさせながら、思わず瞳を潤ませる。誰にも愛されなかった彼が、今や“愛し方を学んでいる”姿に、自分自身も救われる思いだ。
確かに彼の溺愛はときに過剰すぎるほどだ。けれど、それは血みどろの復讐や狂気とは無縁の、ただただ“彼なりの優しさ”の現れにほかならない。
「ありがとう、エドワード様。私も、あなたにもっと応えられるように……そう思ってる」
そう告げると、彼は小さく目を見開き、すぐに穏やかな笑みに変わる。セレスティアを優しく抱き寄せ、まるで繭の中のような暖かさで包み込む。執着ではなく、絹糸のように柔らかい温もりがそこにはあった。
***
さらに数日が経ち、邸は以前と同じ穏やかな空気に包まれていた。裏庭では花が開き、侍女たちが明るい声で挨拶を交わしている。もはや敵の影は存在せず、エドワードが心を痛めながら闘ってきた陰謀も、完全に収束した形となった。
セレスティアは昼下がりの柔らかな日差しを浴びながら、庭のベンチに腰掛けていた。そこへエドワードが現れ、彼女の隣に座る。以前のように護衛が警戒するでもなく、ただ日常の延長線上にある幸せな風景だ。
「この場所、覚えてるか? お前が最初に裏庭に来たとき……まだお互い、ぎこちなかったな」
「ええ、はっきり覚えてるわ。あのときはあなたのことが少し怖かった。でも、私にはなぜか、あなたの孤独が見えたような気がして……」
言葉を継ぐと、エドワードは小さく肩をすくめ、「孤独、か」と苦笑いを浮かべる。今なら笑って話せる――彼が秘めていた孤立感や、持て余すほどの執着も、セレスティアがそばにいる限り解きほぐされていく。
そして彼は、改めてセレスティアの手をとり、真剣な表情で見つめた。
「俺はずっと、愛し方を知らなかった。でも今、こうしてお前に触れて、お前を感じるたび……血の匂いでも恐怖でもなく、安心を覚えるんだ。お前がいてくれるから、俺はようやく過去の孤独を埋められる」
「あなたはもう、ひとりじゃないわ。私も同じ。あなたが隣にいてくれるから、どんな不安も乗り越えられる」
柔らかな風が二人の髪を揺らす。セレスティアは自分の手を絡めたまま、そっと瞳を閉じた。近くから聴こえるのは、エドワードの深く落ち着いた呼吸音。かつては狂気をはらんだ彼の鼻息に怯えていたのが嘘のようだ。今は、ただただ愛しい。
「だから、私も……あなたに応えたい。この先何があっても、もう逃げたりしない。あなたと生きると決めたから」
かすかに震える声で誓うように言うと、エドワードはセレスティアの手をそっと引き寄せ、自分の胸に当てる。彼の鼓動がどくどくと伝わり、その強さに胸が詰まる。これは執着でも所有でもなく、明らかに“愛”――二人が求め合う真実の気持ち。
やがてエドワードはセレスティアを抱き寄せ、唇を重ねる。以前のような荒々しい欲望ではなく、優しく確かめ合うようなキス。身体の奥深くにまで沁み渡る、穏やかな熱がある。
「お前がそばにいれば、俺はもう何も恐れることはない。……ずっと、離れるなよ」
耳元で落とされる甘い囁きに、セレスティアは「ええ……」と微笑み、彼の首筋に腕を回す。こうして再び“溺愛”を注がれる日々が始まるが、その根底にあるのは紛れもない相互の愛情。彼女は彼を救いたいと思い、彼は彼女を大切に護り抜きたいと願う。その思いが紡がれて、互いを強く結びつけているのだ。
――こうして、陰謀が完全に解決した今、エドワードはセレスティアを改めて溺愛し始める。以前のような支配や束縛を越え、より深い愛情へと昇華したその“執着”は、もはや狂気ではなく至上の甘やかな関係を築き上げる手掛かりになっている。
セレスティアもまた、自分がどう生きるべきかをはっきりと悟った。彼が孤独に苛まれないよう、何より血に染まらぬ道を選び続けられるよう、彼女は全身全霊で支えると決めている。その決意が二人の未来をどのように彩っていくのか――それは、まだ誰も知らない。
けれど、少なくとも今は、風にそよぐ花の香りと柔らかな日差しが彼らの周囲を包み込み、かつての恐怖や復讐心を遠ざけていた。世の中のすべてを敵に回してもなお護りたいと思うほどの愛が、セレスティアとエドワードを穏やかな幸福へと導いている――それだけは間違いなかった。