陰謀と復讐の嵐が過ぎ去り、屋敷が平穏を取り戻してからしばらく経った頃――セレスティアは裏庭のベンチに腰掛け、爽やかな朝の風を感じていた。ほんの数ヶ月前までは、彼女がこの屋敷で自由に過ごすことなど想像もできなかった。けれど今、エドワードの溺愛を受けつつも、生活は驚くほど穏やかだ。
とはいえ、エドワードは相変わらず彼女を甘やかし、過保護といっていいほど傍から離れようとしない。朝食は必ず一緒に摂るし、セレスティアが少し庭を散策するときも、護衛兵を伴わせて見送ってくれる。そして彼自身も仕事の合間に顔を出し、「疲れていないか?」と気遣ってくれるのだ。
確かに、セレスティアはそんな彼の優しさと愛情が嬉しい。あの荒れ狂うような復讐心に駆られた男とは思えないほど、今のエドワードは穏やかで、なおかつ深い愛で包んでくれる。彼女もまた、かつて不安で仕方なかった「拘束される恐怖」が、今では温もりに変わりつつあることを感じている。
しかし――。
(このままでは、彼が“私だけ”を視野に入れ過ぎて、いつか苦しんでしまうのではないかしら……)
それがセレスティアの胸に残る、ほんの小さな懸念だった。エドワードの執着は愛に昇華したとはいえ、彼は相変わらず「セレスティアがいなければ世界は成り立たない」と言わんばかりの態度をとる。そこに危うさはないとは言えない。彼女は過去に何度も目にしてきた彼の“守るがゆえの暴走”を、もう繰り返してほしくはなかった。
そんな思いを整理するため、セレスティアは裏庭の光と影が美しく交錯する小径を歩き始める。木洩れ日が揺れ、鳥のさえずりが聴こえる静かで優しい朝。ところどころにまだ春の名残の花が咲き、淡い色の花弁が風に乗って舞っていた。
しばらく歩を進めていると、どこからかエドワードの気配を感じる。近づいてくる足音に気づいて振り返ると、彼は微笑みながらゆっくりと手を差し伸べた。
「こんな朝早くから、裏庭を散策とは珍しいな。……昨日、少し疲れているように見えたが、大丈夫か?」
温かい声に、セレスティアの胸がかすかに痛む。過度に心配しすぎるその態度が、嬉しくもあり、同時にやや息苦しくも感じるからだ。彼女はにこやかに微笑み返し、その手に自分の手を重ねた。
「心配しすぎよ。わたしはもう大丈夫、身体もすっかり元気になったから。……ねえ、少し一緒に歩かない?」
エドワードが「もちろん」と頷き、並んで小径を歩き出す。彼の歩調はセレスティアに完全に合わせられており、まるで彼女を大事な陶器か何かのように扱っている。先日までは安心感で満たされていたが、今は少し違う。セレスティアは「もう少し、普通に接してほしい」と思い始めていた。
(『自由な愛』……きっと、彼に伝えなければならないのは、そのことだわ)
かつては彼の執着を拒みきれず、彼女自身も「この人に守られたい」と思った。しかし、今のセレスティアにとっては、もう“守られるだけ”の関係では成長できないと感じている。自分も彼を支え、助け、未来を築いていきたいのだ。
意を決して、セレスティアは立ち止まり、エドワードの瞳をまっすぐ見つめた。
「エドワード様。……ひとつ、わたしからお願いがあるの」
「お願い? なんでも言ってくれ。お前のためなら何でも叶えたい」
その言葉に、セレスティアは胸が痛む。何でも叶えてくれる――それは魅力的な響きだが、すべてを彼の力に委ねるだけでは自分が前に進めない。彼への愛は変わらない。しかし、「一方的に守られる」のではなく、「共に生きる」ことを望んでいる。
深呼吸して、セレスティアは静かに口を開いた。
「わたしを大切に思ってくれることは嬉しいの。だけど、あなたがわたしのことを“守らなくちゃいけない存在”として縛りすぎるのは、ちょっと違うんじゃないかと思うの。――あなたがわたしを信じて、わたしもあなたを信じて、自由に行動できる関係……そういう『自由な愛』を築きたいの」
エドワードの眉がわずかに動く。初めて耳にする言葉のような、不思議そうな表情だ。
「自由な……愛、というのは、どういうことだ?」
「今のあなたは、とても優しいけれど、何でも代わりにやろうとしてくれる。わたしが少し外に出たいと言えば、危険だからと止めてくれる。わたしが部屋で休んでいても、常に護衛をつけようとする。……わかっているわ、それがあなたの愛し方だということは。でも、それでは息苦しくなることもあるの」
愛し方を知らなかった頃の彼が、執着によってすべてを囲い込もうとしたのと大差ない状況ではないか――と、セレスティアは感じている。もちろん、今は狂気のような暴力性は失せ、優しさを伴った保護になっただけだ。それでも過度な保護は、彼女が前に進む余地を奪う恐れがある。
「お前は、俺に……苦しい思いをさせたくないんだな。俺がもし、お前を危険な目に遭わせてしまったら……そう考えると、どうしても制限をかけてしまう」
エドワードの声には戸惑いが混じる。セレスティアが軽く微笑みを浮かべ、彼の手を握りしめた。
「わたしはあなたに制限をかけてほしいわけじゃないの。ただ……もう少し、わたしを“信頼”してほしい。あなたが心配するように、わたしはもう無鉄砲に飛び出したりしないわ。ちゃんと危険を理解しているし、それでも少しずつ外の世界を見てみたいの。あなたが強くなれたように、わたしも自分の足で立てる人間になりたいのよ」
エドワードはしばらく黙り込む。木漏れ日が彼の横顔を照らし、その目に深い悩みの色が浮かんでいるのがわかる。セレスティアは必死で「拒絶しないでほしい」と祈りながら、彼の言葉を待った。
「……俺は、お前を傷つけるのが何より怖い。それはもう変えられないけれど……お前の意思を尊重するというのなら、努力してみる価値はあるかもしれない」
「本当……?」
思わず胸が熱くなる。彼が少しでも受け入れてくれようとするのなら、道は開けるはずだ。この“溺愛”を活かしつつ、セレスティアが自由に生きる場所を作る――それが「自由な愛」を彼に伝える最初の一歩だと感じている。
「ただし、いきなり全部は無理だ。……少しずつ、俺の心も慣れさせてほしい。今まで、お前が離れるなんて想像しただけで正気じゃいられなかったからな」
「もちろん。わたしもあなたから離れたいわけじゃない。そばにいたいと思っているのよ。……でも、お互いが一人の人間として、尊重し合って生きていきたいの」
セレスティアの瞳には決意が宿っている。エドワードがそれに気づいたのだろう、彼は静かに息をつき、「わかった」と短く答えた。そして、ややぎこちない手つきで彼女の髪を撫で、「こうして触れることすら、幸せなんだ」と呟く。その声音には、かつての支配欲とは違う、切実な愛情が滲んでいた。
***
小径を再び歩き出す二人。並んで歩く歩幅が自然に合うのを感じながら、セレスティアは心の奥底に確かな安堵を覚えた。昔のような恐怖に塗れた支配ではなく、今は“愛”という温かさが彼を動かしている。それさえ崩れなければ、二人でいくらでも成長できるはずだ。
エドワードもまた、少し戸惑いながらも「彼女を信頼する」という行為に踏み出そうとしているようだ。そっと差し出された彼の手は、セレスティアの手を絡めながら、決して強く締め付けたりしない。かつては“腕を掴む”という動作ですら、どこか支配や執着を感じさせた。今は違う――触れ合いながらも彼女を解放してくれる、そっと包み込むような手だ。
「自由な愛か……。お前は本当に、俺にとって新しい世界を見せてくれるな」
「あなたが新しい世界を見るのに、わたしが少しでも役に立っているのなら嬉しいわ」
そう言って微笑むセレスティアに、エドワードはしばらく無言で見入っていたが、やがて照れ隠しなのか、少しそっぽを向いて「ああ」とだけ呟いた。頬がわずかに赤く染まっている。いつも堂々としていた彼が、こうして戸惑いを見せる姿に、セレスティアはくすりと笑みを漏らす。
(少しずつでいい。わたしたちは、きっと変われる――)
裏庭を抜け、邸の窓から差し込む明るい陽光を感じながら、セレスティアは強くそう思う。執着を愛へと昇華させた先にある“自由な愛”こそが、二人の未来を照らし出す鍵なのだと。手を繋ぐ温かさが、彼女の決意を一層堅くした。
こうして、セレスティアはエドワードの溺愛を受け入れながらも、「自由」という新しい価値観を彼に伝え始める。まだ道半ばだが、彼が自分の意志で彼女を守りつつも“解き放つ”姿勢に変わってくれたなら、より深い愛を育めるはずだ。二人が手を取り合って見据えるのは、これまでになかった穏やかで広い未来。――それを築き上げる準備が、静かに始まろうとしている。