セレスティアが「自由な愛」の大切さをエドワードに伝え始めてから、しばらくの時間が経った。彼にとっては未知の考え方――愛する相手を束縛せず、信頼し合いながら共に生きるという発想は、なかなか簡単には身につかない。しかし、セレスティアの言葉を受け止めたエドワードは、意外なほど誠実に「過度な執着」を抑えようと努力を重ねていた。
ある日の午前、穏やかな陽ざしが邸内を照らしている中、セレスティアは自室の窓から庭を眺めていた。花壇では侍女たちが手入れをしており、春から初夏へと移り変わる季節の香りが風に乗って漂ってくる。以前なら彼女がこうして一人で窓を開けることさえ、「危険だから」とエドワードに制止されがちだった。だが最近は、屋敷内の行動について細かく口出しされることが少なくなっている。
(これも、彼が“わたしを信頼してくれている”証拠なんだろうか)
思わず胸が温かくなる。エドワードの“溺愛”が完全に消え去ったわけではないが、セレスティアが言葉を尽くしてきた甲斐があり、少しずつではあるが「彼女を尊重する」姿勢が見られるようになってきた。たとえば、彼女が小さな外出を望んだとき、彼はかつてのように頭ごなしに止めるのではなく、護衛を少し遠巻きにつけて見送ってくれる。あるいは、屋敷内で好きなように散策をすると告げても、ぎこちなくも理解を示してくれる。
その日の午前も、セレスティアが「一人で図書室に行ってもいいかしら?」と尋ねたところ、エドワードは少し考えこんだ末、「ああ、好きにしていい」と小さく笑みを返してくれた。わずか半年ほど前までは、彼女の一挙手一投足に過敏に反応し、どこへ行くにも付き添おうとした彼からは想像できないほどの進歩だ。
そんなエドワードの変化を感じ取りながら、セレスティアは微笑して部屋を出る。廊下を進むうち、ふと彼の執事と出くわした。レオンという名のその執事は、長年エドワードの家に仕え、若き当主の成長を見守ってきた。今やセレスティアにも親身に接してくれる存在である。
「おや、奥様。図書室へ行かれるのですね。今日もよい天気で、読書日和と言えましょうか」
優雅に一礼するレオンに、セレスティアは少し照れながら頷いた。
「ええ。しばらく気になっていた本があるの。それを読んでみたくて……最近は、エドワード様もわたしが自由に本を選ぶのを気にしなくなったみたい」
小さく笑い合う二人。レオンはどこか感慨深げに目を細めている。
「旦那様は、以前のように奥様を厳しく束縛することを望んでおられないように感じます。これも、奥様が示してくださった“新しい愛の形”のおかげなのでしょうね」
「……そうだといいのですが。わたし自身、まだ手探りの部分があって」
胸に浮かぶのは、エドワードが必死に“過度な執着”を抑え込もうとしている姿だ。彼の深い愛情は変わらないが、それをどう表現すれば“自由”と両立できるのか、エドワードも、そしてセレスティアも模索中だった。レオンはそんな彼女の内心を察したのか、穏やかに微笑む。
「奥様、ご安心を。旦那様は変わりたいと願っておられる。それがまだぎこちなくとも、少しずつ形になっていくはずです。長年仕えた私が言うのもなんですが、あの方ほど、自分で決めたことを愚直なほどに守ろうとする人はいませんから」
その言葉に背中を押され、セレスティアはさらに深く頷く。そう、エドワードは不器用ながらも一度決心したことは貫き通す。それが彼の長所であり、同時に危うい個性でもある。でも今は、その危うさが「自由な愛」を守る方向へ向かってくれている。とても大きな変化だ。
***
図書室で読みたかった本を探していると、セレスティアは思いがけずエドワードの姿を見つけた。めったに人の目が届かない書架の奥で、本を開いて何かを読んでいる。つい先ほどまで彼女が「一人で図書室へ行く」と言ったのに、こうして後を追いかけてくるとは、まったく彼らしい――しかし、ほんの少し嬉しい気もする。
「エドワード様、何を読んでいるの?」
声をかけられた彼は驚いた様子で顔を上げるが、すぐに照れ隠しのように視線を逸らした。本の表紙を閉じて見せると、それは政治や貴族の暗躍を記した書物でもなく、どちらかというと海外の物語集のようだ。
「ああ……ちょっと見ていただけだ。お前こそ、どうしてここに?」
「“どうして”って……図書室に行くとは、先刻お話ししたでしょう?」
セレスティアがくすくす笑いながら答えると、エドワードは困ったように唇を引き結ぶ。本当は「お前が心配で、思わずあとをついて来てしまった」と言いたいのかもしれないが、そこまで素直に口に出せるほど彼は器用ではない。
「……お前がいるなら、俺も読みたい本を探しに来ただけだ。……別に、お前を束縛したいわけではない」
そう言って目を逸らす彼の姿に、セレスティアは優しい気持ちになる。表現は拙いが、確かに彼は“過度な支配”をしようとしているわけではない。ただ、そばにいたい――それだけなのだろう。かつて彼が示した独占欲とは似て非なる、もう少し穏やかな甘え方にも見える。
「ねえ、エドワード様。もしよければ、わたしの探している本を一緒に探してくれない? わたし、一度読んでみたいと思っていた歴史書があるの」
そう提案すると、彼は意外そうに目を見開いたあと、「いいぞ」と短く頷く。わざわざ「護衛を呼べ」とも「疲れていないか」とも言わないあたり、やはり少しずつセレスティアを“自由な存在”として受け入れているのだと感じさせる。
二人で書架を巡る中、セレスティアは棚の背表紙を丁寧に眺め、目的の本を探す。エドワードが本のタイトルを読み上げては「これか?」と手渡してくれるそのやりとりは、穏やかでほほえましい。セレスティアは、ほんの数ヶ月前には想像もできなかった「対等な時間」を味わいながら、胸を満たされる思いだった。
「ねえ、エドワード様。わたしね、あなたがこうして少しずつ“わたしを尊重してくれている”って実感できるのが嬉しいの」
ぽつりと漏らすその言葉に、エドワードは一瞬動きを止め、視線を彼女に向ける。そして、わずかに伏し目がちに言葉を継いだ。
「……お前が望んだことだからな。俺は不器用だけど、お前を縛って苦しめたくないと思っている。……以前の俺は、それが愛だと思い込んでいたけれど、今は違うと思い始めている」
静かな語り。セレスティアは思わず目を潤ませ、彼にそっと微笑みを返す。ほんの些細なやりとりだが、エドワードが根本から変わり始めているのを感じられる瞬間だった。
「ありがとう。……このままわたしたち、一緒にゆっくり前に進んでいきましょう?」
「……ああ。お前がそう望むなら、そうしよう」
エドワードは少しぎこちなくも、やがて柔らかな笑みを浮かべて応じる。二人の間にはかつてのような重苦しい空気はない。押し付けられる支配でも、恐怖で結びついた執着でもなく、互いを思いやる愛が確かにそこにあった。
棚から取り出した本を片手に、セレスティアはふとエドワードの袖を引き、「ありがとう」と小声で告げる。彼は照れ隠しのように彼女の頭を軽く撫で、さっさと先へ歩き出す。いつもなら「疲れていないか」と問いかけるだろうに、今は何も言わない。きっと、彼女が自分の意思で動くことを尊重しているのだろう。
背中を見つめるセレスティアは、胸の奥でまた一つ小さな感謝の灯をともす。過度な執着を抑えようと努力するエドワードの姿は、不器用ながらも愛そのものだ。そう思うと、次にどんな未来が待っているのか、ほんの少し楽しみにもなってくる。
(わたしたちなら、きっと大丈夫。ゆっくりでいいから、この愛をもっと深めていきたい)
図書室の扉を出た先には、外から差し込む光が金色に瞬いていた。かつては縛られるばかりだったセレスティアの足取りは、今や自らの意思で踏み出すしなやかなものへと変わりつつある。エドワードはそんな彼女にさりげなく寄り添い、腕を回すことはしない――同じ距離を並んで歩く関係。それが、“自由な愛”を目指す二人にとっての、新たな一歩だった。