エドワードが過度な執着を抑えようと努力を続け、セレスティアもまた「自由な愛」を共有するために心を砕く日々が続いた。二人の間には穏やかで温かな時間が流れ、ときには一緒に読書をし、ときには夜更けまで会話を交わす。以前のような束縛や怯えとは違った、“互いを尊重し合う”関係が少しずつ芽吹いていた。
そんなある朝、セレスティアは自室の窓辺に寄りかかりながら、遠くに見える町の景色をぼんやりと眺めていた。エドワードの領地内にはまだ彼女の知らない場所が数多くあるし、外の世界にも興味は尽きない。かつては「屋敷から出ることすらままならない」状態だったが、今は彼が「行きたいところがあれば相談してくれ」と言ってくれる。もちろん、護衛を整えるなどの条件はあるものの、昔のように徹底的に閉じ込められていたわけではない。
(わたしたち、ゆっくりだけれど、変わってきているんだな……)
そう思うと、彼女の胸はなんとも言えない感慨で満たされた。と同時に、新たな疑問も浮かんでくる。――この先、自分とエドワードはどこへ向かうのだろう。闇や陰謀に囚われない、まっさらな未来をどう築いていくのか。
その答えを探すように、セレスティアは部屋を出て廊下を歩く。すると、曲がり角の先で、執務室に向かう途中らしきエドワードの姿が見えた。彼女を見つけたエドワードは、自然な笑みを浮かべて足を止める。あの無表情で冷徹だった頃とは、まるで別人のようだ。
「セレスティア。ちょうどよかった、少し話がある。……お前の予定がもし空いているなら、あとで執務室へ来てくれないか?」
「ええ、もちろん」
彼の頼もしげな声に頷くと、エドワードは満足そうに微笑んで先を急いだ。どうやらよほど大事な話があるらしい。セレスティアは軽く胸を弾ませながら、少しあとを置いて執務室へと向かうことにする。薄暗い陰謀に怯えていた時期を思えば、今の二人がこうして穏やかに会話できるのは夢のようだ。
***
ほどなくして執務室を訪ねると、エドワードは机に地図や書類を広げ、護衛兵や執事と何やら話し合っていた。彼らが一礼して退出すると、セレスティアは部屋の扉を閉める。残ったのはエドワードと二人きり。かつての彼なら「使用人を置いておけ」と言いかねなかったが、今はセレスティア一人を危険視することもない。お互いに信頼が芽生えている証拠だろう。
「忙しいところ、ごめんなさい。わたしに話があるって……?」
セレスティアが促すと、エドワードは少し目を伏せてから、机の上の書類をゆっくりと指さした。そこには領地の農村や町の見取り図らしき地図が広げられ、色とりどりの線や印が記されている。
「お前にも、これを見てほしいんだ。……領地の再建や拡大計画を立てている。今までは政治的な駆け引きばかりに心を奪われていたが、もう少し、住民の暮らしや町の発展を考えたいと思うようになった。……お前は、どう思う?」
意外な言葉に、セレスティアは思わず目を見開いた。これまでもエドワードは公爵としての責務を果たしてきたが、それが“義務”や“力の誇示”として捉えられる面が強かったのは確かだ。けれど、今の彼は「町や農村の未来を考えている」と言う。そこにあるのは、彼なりの成長の証ではないだろうか。
「素敵……。そうね、わたし自身、まだ領地のことをよく知らないの。実はずっと興味があったのよ。どんな人たちが暮らしているのか、何を必要としているのか……。一緒に見に行けたらいいなって思ってたの」
そう答えると、エドワードはわずかに驚いた表情を見せ、それから穏やかに微笑んだ。彼の瞳には、どこか嬉しそうな光が宿っている。
「そうか。……なら、お前にも協力してほしい。俺は過去、力で抑える方法ばかりに頼ってきたが、領民が本当に望んでいるものは何なのか……それを見極めなければならない。お前の目で見た世界を、俺に教えてくれないか?」
かつてエドワードは、セレスティアが外の世界を見たいと言うだけで猛反対し、どこへ行くにも束縛を強いていた。しかし今はこうして、自分の領地を見て回り、共に未来を築きたいと誘ってくれる。その変化が嬉しくて、セレスティアは胸を熱くしながら、彼の手をとった。
「もちろん、喜んでお手伝いするわ。……あなたが気に病むほど大事じゃなくても、わたしにできることがあるなら、何でも言ってちょうだい」
その言葉に、エドワードはセレスティアの手を少し強く握り返しながら、ほっとしたように微笑む。そのまま彼女の手を引いて書類や地図を見せてくれる。先日まで“二人が同じテーブルにつき話し合う”など考えられなかったが、今はこうして対等に意見を交わす関係性になりつつある。
「お前の目線で、困っているところを見つけてくれ。俺はどうしても、“治める側”からしか考えられなくなる。……今までは、“恐れさせる”ことで秩序を守ってきたつもりだったが……それでは駄目だということを、お前に気づかされた」
語るエドワードの横顔は、どこか自嘲めいている。セレスティアは彼にそっと寄り添い、机の上の地図を見つめた。村の位置や、川の流れ、街道のつながり――どこにどんな人々がいて、彼らが何を望んでいるのか。そんなことを考えるうち、自然と胸が弾むような感覚が湧いてくる。
(わたしが、彼の領地づくりに関わるなんて……想像もしなかった。でも、これって、わたしたちが“同じ未来”を築くための第一歩なのかもしれない)
エドワードはふと小さく息をつき、セレスティアの手を離して机の端に置いた書類を手に取る。それは、彼が新たに立案した計画の概要が書かれたものらしく、余白には赤いペンでいくつものメモが残されている。「ここを改良」「この村は支援が必要」など、かなり実務的だ。
「これをやり遂げるには時間がかかる。……けれど、お前がいてくれるなら、俺は諦めずに進めると思う。……お前の意見を、できるだけ多く取り入れたいんだ。……ダメか?」
最後の問いかけに、セレスティアは首を振り、微笑みながら答える。
「ダメなわけないわ。むしろ、光栄よ。わたしも“あなたと一緒に未来を創りたい”と思っていたから」
その言葉にエドワードの瞳が少し潤んだように見えた。かつては“所有”という歪んだ形でしか彼女を捉えられなかった男が、今は“共に未来を築く相手”としてセレスティアを求めている。その変化に、セレスティアは強く胸を打たれる。もっと彼に心を開いて、自分自身ができることを示したい――そんな思いが自然と湧き上がってくる。
「エドワード様……わたし、あなたに話しておきたいことがあるの。わたしが育ってきた環境や、家のこと、どれほど期待されずに生きてきたか。でも、それでもあなたのところに嫁いできた経緯……。今まであまり深く話してこなかったわよね」
セレスティアはそう告げながら、かつて冷え切った家庭で物のように扱われてきたことを思い出す。当初はエドワードとの縁談も「家のため」に押し付けられたもので、彼の噂を聞いては恐怖に震えるばかりだった。それが今や、心から愛し合い、共に未来を語り合える間柄へと進化しているのだ。
「……実は、あなたと同じように愛を知らずに生きてきた部分があるの。だからこそ、あなたの孤独も何となく理解できるような気がして……。今はこうして一緒に領地の未来を考えられるなんて、夢みたいだけど、とても幸せだわ」
吐露される彼女の想いに、エドワードは息を呑む。セレスティアの生い立ちや家族からの仕打ちについて、漠然と知ってはいたが、こんなふうに彼女の口から具体的に語られるのは初めてだ。彼は書類を置き、セレスティアの手を強く握る。
「……そうだったのか。お前は、そうやって孤独を抱えてきたんだな。……気づけなかった、いや、気づこうともしなかった俺はどうしようもない愚か者だ」
「いいのよ。わたしだって、あなたの支配的なところを怖がりながらも、いつか解きほぐせるんじゃないかって信じていたの。お互い不器用だけど、ようやくこうして手を取り合えた」
エドワードは深い溜息をつき、それからまるで自分を鼓舞するように顔を上げる。複雑な感情が入り混じった瞳は、どこか安心と罪悪感、そして新たな決意を滲ませていた。
「お前が“自由な愛”を教えてくれた。……俺はお前をただ守るだけじゃなく、共に生きるための未来を築きたい。だから、これからもお前に心を開いてほしいし……俺も、お前をもっと知りたい」
その言葉に、セレスティアは胸を熱くさせながら微笑む。彼が誰かに心を開くのは、幼い頃から苦手としてきた行為だ。けれど今は、自分もエドワードに本音を伝えられるようになり、彼もそれを受け止めようとしている。この先、二人が目指す未来は未知に満ちているが、一緒ならばきっと大丈夫――そう思えるのだ。
「……ええ、わたしもあなたをもっと知りたいし、あなたにもっと心を開きたい。これから先、どんなことがあっても話し合って解決できるような、そんな信頼関係を築きましょう?」
「……ああ。お前となら、できると思う」
しんとした執務室の空気の中、二人は微笑みを交わし合う。かつての緊迫や恐怖とは無縁の、穏やかで揺るぎない愛情がそこに息づいている。
セレスティアが手を伸ばし、机の上の地図をそっと撫でる。村々を繋ぐ道、町の中心にある広場の位置――ここに生きる人々の未来を、エドワードとともに支えていきたいという思いが、彼女の胸を満たすのを感じる。彼が変わろうとしているように、セレスティアもまた過去の傷を乗り越えて、新しい人生を歩む決意が固まりつつあった。
「わたしたち、これから先、いろいろな計画を立てられるのね。どんな町にしていきたいか、どんな家族を築いていきたいか……。想像するだけで、なんだか胸が高鳴るわ」
セレスティアがはにかむように笑うと、エドワードは静かに微笑みを返しながら、彼女の手を重ねる。冷たい鋼のようだった彼の指先は、今では温もりに満ちている。
「お前と一緒なら、どんな未来でも目指せる気がする。だからこそ――いつか必ず、その未来のために大きな決断をする日が来るはずだ。そのときは……俺の隣にいてほしい。必ず、だ」
その低く落ち着いた声には、単なる独占欲ではない、深く揺るぎない想いが込められていた。セレスティアは応えるように微笑んで、「わたしがそばを離れるわけないでしょう?」と、何気ない冗談まじりの言葉を返す。かつては“縛りつけられた”だけの関係だったのが、今は“お互いに選び合う”関係へと昇華しているのだ。
こうして、二人は共に未来を築くための計画を立て始める。人々が安心して暮らせる領地にするためのプランや、エドワードが過去に顧みなかった文化事業への興味、さらには二人の関係がさらに深まった先の未来――子どもや家族の話も、いつかは交わすことになるかもしれない。
そして、セレスティアもまた心を開き、“エドワードと一緒に”生きていく覚悟を固めていた。以前のように一方的に守られるだけではなく、互いが互いを支え合う道を選び取ろうとしている。もはや、そこに歪んだ執着や恐怖はない。あるのは、まだ形は曖昧なれど、確かに芽生えた希望に満ちた明日だ。
(もう、わたしは逃げない。あなたの隣で、あなたと同じ景色を見て、同じ夢を追いかけて……そうやって歩んでいきたい)
セレスティアは心中でそう誓いながら、彼の手の上に自分の手を重ね、そっと指を絡ませる。互いの温もりが伝わり合い、これまでとは違う“自由な愛”の形を感じさせる一瞬。未来への扉が少しずつ開き、二人が踏み出す足音は、静かで力強い響きをもって屋敷に広がっていくのだった。