南の町に到着してから早々、アルタリアは“大通りの宿”での雑用係としての仕事を始めることになった。とはいえ最初の数日間は勝手がわからず、慣れない仕事に手も足も出ない状態だ。朝食の準備や部屋の清掃、さらには食堂エリアの配膳や片づけまで、彼女が担うべき作業は多岐にわたる。どれも王宮や伯爵家では使用人たちが当たり前にこなしていた業務である。令嬢として接してきた“使用人”の視点を持たねばならない立場へ、自分が成り替わるとは、皮肉と言うほかない。
それでも、大通りの宿の人々は想像していた以上に親切だった。店主であり受付担当の青年――名前をマルコという――は、いつもニコニコとした笑顔で丁寧に教えてくれるし、料理を担当しているエルダという初老の女性も世話焼きで厳しくも優しい。アルタリアが失敗しても、頭ごなしに怒鳴り散らすようなことは決してない。彼らは“仕事を続けていくうえで成長してほしい”というスタンスで、彼女をじっくり指導してくれているのだ。
もっとも、アルタリア自身はそんな環境に甘えてばかりはいられないと思っていた。
(いつまでも初心者ではいられない。この町で生きていくには、私がしっかり稼いで足場を作らないと)
王都での裏切りや追放が頭をよぎるたび、胸の奥に悔しさとわずかな不安が入り混じり、彼女を突き動かす。一度すべてを失ったからこそ、もう失うものはないはず――そう自分に言い聞かせながら、慣れない手つきで雑巾を絞り、廊下の床をせっせと磨いていく。
■午前のささやかな事件
ある日の朝、いつものように簡単な朝食付きの宿泊客を迎えるために、アルタリアは厨房でエルダの手伝いをしていた。湯気の立つ鍋をかき混ぜながらパンを温め直し、客の分を並べる。その合間に余った材料をチェックし、昼の準備も視野に入れねばならない。伯爵家の晩餐会では決して経験しなかった“実務”が、今では彼女の日常だ。慌ただしくも、どこか充実感を覚える。
そんな中、宿泊客の一人がつま先立ちで厨房を覗き込むようにして声をかけてきた。
「おい、悪いんだけど、熱いお湯を一杯くれないか。朝から喉が痛くてさ」
見ると、痩せぎすで顔色の悪い男性。長旅で体力を消耗しているのか、咳をしている姿からも疲労がうかがえる。アルタリアは「少々お待ちください」と答え、急ぎ湯を沸かして椀に注いだ。
だが、彼に手渡そうとした瞬間、うっかり躓いてしまい、熱湯が少しばかりこぼれてしまう。とっさに男性が身をよけたため大事には至らなかったが、客の足元に少量の湯がかかってしまった。
「す、すみません!」
アルタリアは慌てて謝り、タオルを持って男性の足元を拭こうとする。背筋に冷や汗が伝い、これがきっかけで宿の信用を落としてしまうのではと、頭がぐるぐる回る。
ところが、その男性は思いのほか穏やかに笑みを浮かべていた。
「いや、大丈夫さ。ちょっとよけたから平気だ。あんた、慣れてないのか? 怪我してないか?」
驚いたことに、彼は自分よりもアルタリアの身を案じている。アルタリアは申し訳なさと安堵が入り混じった表情で、一つ頭を下げる。
「申し訳ありません。ありがとうございます、わたしは大丈夫です。もう少しお気をつけいただけますか? ……あ、違いますよね、気をつけるのは私ですものね、本当にすみません」
お湯を渡し直し、男性が部屋へ戻っていくと、後ろで見ていたエルダが「ふう」と息をついて彼女に声をかけた。
「まあ、怪我がなくて何よりよ。焦らずに一つずつ慣れていけばいいわ。慣れないことを一度にやろうとすると、必ずどこかに無理が生じるものだからね」
エルダに背中をぽんと叩かれ、アルタリアは改めて身を引き締める。ここで働く以上、プロの振る舞いを身につけなくては。わずかに気持ちが沈んだが、それでも“ご主人様”ではなく“仕事仲間”として、こうして叱咤激励をもらえるのは初めての経験であり、暖かいものだった。
■街の市場で
勤務の合間を縫って、アルタリアは食材や日用品の買い出しを任されることも増えてきた。大通りの宿は、町の中心部からやや外れた位置にあるため、市場へは少し歩かなくてはならない。それでも、彼女にとっては広い町を知るいい機会であり、外の空気を吸う気分転換にもなる。
今日も夕方前にエルダから買い出しリストを渡され、アルタリアは宿を出た。雑踏の中を抜け、露店が並ぶ一角へ進むと、空気は一段と活気づいている。果物屋からは熟れた果実の甘い香り、肉屋からはスパイスの匂いが漂い、行き交う人々の笑い声や売り手の掛け声が絶えず耳に飛び込んでくる。王都とはまた違う、庶民のたくましさと親密さが混ざり合った独特の雰囲気に、アルタリアは不思議な懐かしささえ覚えていた。
まずは野菜を売る屋台に立ち寄り、エルダに頼まれた根菜や葉物を吟味する。店主の少年が「今日は安くしとくよ」と笑顔を見せる。アルタリアは年季の入ったスケールで重さを計ってもらいながら、先日エルダから教わった“値切り”の要領を思い出す。
「こちらのカブ、もう少しお値段を……少しだけで構わないのですが……」
「お嬢さんには負けちゃうな。いいよ、これで全部ひとまとめにして少し安くしておこう」
交渉がまとまり、アルタリアは礼を述べて袋に野菜を詰める。こんな小さな取引一つでも、貴族時代には到底やったことがない。だが、自分の口から言葉を紡ぎ、値段を交渉し、人の力を借りながら成り立たせる――そのプロセスが彼女の新しい日常となっていた。
次いで、肉屋、乾物屋と順番に回り、リストにあるものを買いそろえていく。途中、雑貨屋に立ち寄って宿の掃除に使う洗浄草を仕入れたりしていると、いつの間にか腕に抱える荷物が増え、手首が痛くなってきた。
(重い……でも、頼まれたものはまだあったはず。あと豆と、粉類も……)
そう思いながら歩を進めていると、ふと視界の隅に見覚えのある姿が映った。それは以前、街道の休憩所で声をかけてきた男――レオナードだった。短く刈った髪とたくましい体躯は一目でわかるし、腰には相変わらず剣が吊られている。どうやら彼も市場で買い出しをしているらしく、店先で銅貨を数えながら何やらやり取りをしていた。
アルタリアは瞬間的に視線をそらし、身を隠すようにして通りを早足で進む。今はまだ、彼と再会して余計な干渉を受けるのは避けたい。万が一、追放された事情に勘づかれて、さらに踏み込まれたりしたら厄介だ。とにかく自分は“ただの庶民の旅人”として、ひっそり暮らすつもりなのだ。
荷物を抱え直し、一歩二歩と歩を進めると、誰かと肩がぶつかった。
「わっ、すみません……」
思わず謝罪の言葉がこぼれるが、相手は泥酔しているのか、その場でふらつきながら絡んでくる。
「おいおい、気をつけろよ……って、お嬢ちゃん、ずいぶん上品そうじゃねえか。何だよその服、ここの住人っぽくねえなあ」
アルタリアは動揺をおさえつつ、すかさず距離を取る。相手は酒の匂いをぷんぷんさせる中年男で、油断ならない雰囲気がある。とにかく関わりたくない――そう思ったが、男は半ば絡むようにして道を塞いできた。
「なあ、ちょっと小銅貨を分けてくれよ。酒が足りねえんだ」
「い、いえ、わたしにはそんな余裕ありませんから……」
適当にはぐらかし、避けようとするが男はしつこい。周囲の人々はやや迷惑そうに視線を向けるが、わざわざ止めに入る者はいない。大通りほど治安が厳重ではない市場の一角、こういうトラブルは時々あるようだ。
アルタリアはどう対処すればいいのかわからず、荷物を抱えたまま後ずさる。すると、急に男が彼女の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。ぎょっとして声を上げかけたとき――
「おい、その娘から手を離しな」
聞き覚えのある声が飛んできた。レオナードだ。つい先ほどまで彼を避けようとしていたアルタリアだったが、今の状況では彼の助けほど心強いものはない。酔っ払いの男は不満げに舌打ちし、レオナードを睨みつける。
「な、なんだよお前。関係ないだろ……」
「関係ないかどうかは俺が決める。それに、そんなふらついた足で殴り合う度胸はあるのか? 悪いことは言わん。今すぐ消えろ」
低い声で淡々と告げるレオナードに、男は一瞬たじろいだ。腰の剣を見てさらに萎縮したのか、「ちっ」と舌打ちをして人混みの中へ消えていく。
アルタリアは胸をなでおろし、荷物を抱え直しながらレオナードに頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました……」
「いや、気にするな。誰だって助けるさ。……久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
彼はそう言って、すっと視線を向けてくる。その瞳には探るような光が宿っているようにも見える。アルタリアはなるべく警戒心を隠しつつ、「ええ、まあ……」と曖昧に笑って答えた。
「またここで会うなんて、奇遇ですね。あなたもこの町に用が?」
「ああ、ちょっとした依頼を受けてな。厄介事を片付ける仕事をしているんだよ。傭兵ってわけじゃないが、まあ似たようなものだ」
レオナードはそう言って肩をすくめる。依頼――恐らくは何かの護衛か、もしくは治安維持のための仕事なのだろう。旅暮らしをしているらしい彼には、各地を渡り歩いて報酬を得る術があるようだ。
「ところで、おまえさんはずいぶん重そうな荷物を持ってるな。よかったら少し手伝おうか?」
半ば強引に手を差し出され、アルタリアは一瞬逡巡した。今は下手に騒ぎを起こしたくないが、彼に不自然に拒否を示してもかえって怪しまれそうだ。
「では、申し訳ありませんが、あと少しだけ買い物が残っていて……そこまで持っていただけますか?」
アルタリアがそう尋ねると、レオナードはにこりと笑う。
「もちろん。俺もこれといった急ぎの用はない。気が済むまでついて行くさ」
■レオナードの不穏な問い
その後、レオナードに荷物の一部を持ってもらい、アルタリアは粉屋で小麦粉や豆類を追加購入した。重さはかなりのもので、彼がいなければ到底運びきれなかっただろう。手際よく買い物を済ませ、帰路につく頃には日が傾き始めていた。
商店街を抜け、宿へ戻る道すがら、レオナードがさりげなく話を切り出してくる。
「おまえさん、前に言ってたとおり、旅を続けてるのか? この町で落ち着いているようにも見えるが……」
「ええ。あまり長いこと同じ場所にいるつもりはありませんでしたが、ひょんなことからここの宿で働かせてもらうことになったんです。まだお金が必要なので」
アルタリアは、ごく無難に事実だけを述べた。自分が身分を隠していることに触れられないよう、慎重に言葉を選ぶ。レオナードは彼女の横顔をちらりと見ると、含みのある口調で続ける。
「そうか。おまえさん、妙に落ち着きがあるな。貴族出身か何かか?」
一瞬、アルタリアは息を飲んだ。まさかここまで直接的に問われるとは思わなかった。しかし、こういう質問を受ける可能性は十分に想定していたはずだ。彼女はあくまで平静を装い、首を横に振る。
「いえ、そんな。たまたま家族から教養だけは与えられて育ったもので……」
苦し紛れの言い訳ではあるが、彼女のきちんとした言葉遣いや身のこなしを見れば、“平民の中でもやや教育のある家庭の出”という設定で通じないことはないかもしれない。少なくとも、王都でも地方の裕福な商人の子女は、一定の教養を身につけていることがあるのだ。
しかしレオナードは完全には納得していない様子だ。どこか探るような、警戒するような眼差しでアルタリアを見ている。その瞳が示す意図は何なのか。彼もまた、この町で何かしらの目的を持っているに違いない。
やがて、大通りの宿が見える位置まで来ると、アルタリアは足を止め、レオナードに向き合った。
「本当にありがとうございました。おかげで助かりました。あの……荷物、お渡しいただいてもいいでしょうか」
「もちろん。ここまでの道のり、なかなか面白かったよ。市場での買い出しってのは大変なんだな。貴族の屋敷に届ける専属の商人とは違うから、値段交渉も必要になるんだろう?」
何気なくレオナードが口にしたその一言に、アルタリアはどきりとする。いかにも“貴族の屋敷に出入りしていた経験があるかのような”物言い。そして、彼自身が貴族相手の商売を知っているような口ぶりだ。もしかすると、彼には王都や貴族関連の仕事で深い繋がりがあるのかもしれない。
内心で警鐘を鳴らしながら、アルタリアは出来るだけ自然に会釈をした。
「わたしはもうそういう世界とは無縁ですが……。それにしても、このお礼はどうしたらいいでしょう? 申し訳程度にしかお渡しできないのですが――」
「いや、いらんよ。金目当てだったらこんなことしない。……ただ、もし今後何か困ったことがあれば、俺を呼んでくれないか? 同じ町にしばらく滞在する予定だし、力になれることもあると思う」
そう言う彼の瞳からは邪気が感じられない。むしろ、本気でアルタリアを心配しているようにも見える。しかし、それが“善意”だけの行動とは限らないのが世の常だ。身分を隠して暮らす身としては、深入りして問題が起こるのは避けたい。
「ありがとうございます。でも、わたしのことは気にしなくて大丈夫です。あなたもお仕事がありますでしょうし……」
「そうか。まあ、俺も余計なお世話を焼くつもりはない。ただ、いざって時は遠慮しなくていい。じゃあな」
レオナードは手を振って去っていく。その背中が町の雑踏に溶け込んでいくのを、アルタリアは不安交じりの気持ちで見送るしかなかった。
■宿での新たな日々と広がる噂
宿に戻ると、すでに日が暮れかけている。アルタリアは荷物を厨房に運び込みながらエルダに買ってきた物を報告する。エルダは黙々と検品をして、「あら、ここはもう少し安くなったはずよ」と口を尖らせる場面もあったが、総じて合格点をくれた。
「はい、これからもっと交渉の勉強をします……すみません」
「いいのよ。最初にしては上出来。明日はもうちょっと安く買ってきてもらうわよ」
軽口を叩かれながらも、エルダはどこか楽しげだった。厨房に食材を収め終わると、アルタリアは次の仕事として自室の掃除に取りかかる。といっても、自室と言っていいのか悩むほど簡素な部屋だが、それでも屋根の下で眠れることは有難い。買った洗浄草を使って床を拭き、窓を開け放って空気を入れ替えると、気分まで清々しくなる。
宿の夕食時には客が集まり、アルタリアは配膳を手伝う。テーブルを回り、注文を取り、エルダが作る煮込み料理やパンを運んでいく。まだ接客に慣れない彼女だが、客たちからは「かわいらしい子だな」「最近入ったのか?」と声がかかることも少なくない。王都から流れた噂を知っている者がこの場にいる様子はないが、いつ情報が入り込むかわからない。気を許しすぎてはいけないと、アルタリアは自制する。
だが、街全体の噂として、王都での“大事件”が話題に上ることは日常茶飯事だ。たとえば、こんな話が聞こえてくる。
「いやあ、聞いたか? 第二王子の婚約が白紙になって、相手は追放同然でどこかに逃げたらしいぞ」
「しかも、王子は最近“聖女”を名乗る娘と一緒に各地の寺院を巡っているそうだ。やっぱり聖女様は凄いって話だな。奇跡を見せたっていう噂だぞ」
食堂の片隅で談笑する商人たちの会話に、アルタリアは耳を塞ぎたくなる思いだった。過去の自分と、国中を賑わす“聖女”の存在。あまりにも苦い記憶を呼び起こす単語が並び、胸が軋む。しかし、ここで取り乱しては正体を疑われる可能性もある。彼女は必死に表情を崩さぬよう、黙々と皿を下げるだけだった。
(エリオット殿下は新しい聖女とともに行動しているのね……。わたしなんか、もう眼中にもないでしょう。いや、それでいい。どうせ彼らはわたしを捨てたのだから)
煮え切らない感情を心の奥へ押し込め、アルタリアはただ、今与えられた業務を淡々とこなす。愛したとは言い難くとも、自分を支え合う相手だと信じていた人間に捨てられるのは、やはりつらいものだ。追放という事実がそれを否応なく思い出させてくる。
だが、ここで嘆いていても仕方がない。真実を知らない周囲の人々の噂話に、いちいち動揺しては生きていけない。
■仕事を終えて
夜が更け、客がそれぞれ部屋に落ち着いてから、アルタリアもようやく休憩を取ることができた。食堂の片隅で冷めかけたスープとパンを食べ、時折マルコが声をかけてくれる。
「今日もお疲れさま、アルタリア。ずいぶん慣れてきたみたいだね」
アルタリアはふっと微笑む。実際、自分でも少しずつ要領をつかんできたと感じる。客に気配りをするポイントや、厨房の動きを乱さずに動く方法など、注意すべき点は山ほどあるが、それでも最初の日々よりずっとスムーズに動けている。
「はい。皆さんに助けられてばかりですけど、なんとかやっています。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ頼むよ。そうだ、買い出しのとき困らないように、もっと町の地理を覚えたらいい。休みの日があれば、一緒に回って教えてあげようか?」
マルコは宿の若い店主として忙しい身だが、好意的にいろいろ教えてくれる。アルタリアはありがたい申し出に軽く頷いた。
「ぜひお願いします。でも、わたしはここで働かせてもらってるだけなので……あまり負担をかけてしまっては……」
「気にしないで。今のうちに町を知ってもらった方が、宿としても助かるからさ。じゃあ、近々時間を作るから声をかけるよ」
そんな話をしながら食事を終えると、アルタリアはそっと自室に戻った。腰を下ろして、改めて自分の足や腕の疲労を確かめる。慣れない肉体労働が続くせいか、脛から太腿まで鈍い痛みがある。手のひらにも微かに水ぶくれができかけていた。
けれど、その痛みこそが“生きている”という実感をもたらしていた。貴族令嬢として過保護に暮らしていたころは感じることのなかった、自分自身の身体と心の限界。今、彼女はそれを乗り越えようとしている。
部屋の隅にある洗面台で顔を洗い、鏡を覗く。明かりは薄暗いが、そこに映る自分の姿は一皮むけてきたようにも見える。
(しっかりしないと……。いつか、あの人たちに“ざまあ見ろ”と言える日まで、わたしは生き抜くんだ)
エリオットや聖女と呼ばれる娘、そして裏切った伯爵家の周囲の者たち……アルタリアは想いを断ち切るように目を閉じる。これは復讐心というよりも、自分自身への誓いに近い。二度と誰かの都合で振り回される人生には戻らない。そのために、アルタリアは今できることを着実にこなしていくしかないのだ。
■再訪する影
その夜。宿の廊下はすでに消灯され、客たちも各部屋で寝静まっている。アルタリアはベッドで横になり、疲れた身体を休めようとしていた。ふと、昼間にレオナードと市場で出会った光景が思い出される。あの鋭い眼差しは何を意味していたのか。自分が貴族出身であると勘づいているのか、それとも別の目的があるのか。
何より、彼はどうしてあんなに自然に剣を帯びているのだろう。普通の旅人や商人なら、護身用の短剣こそ持っていても、あれほど本格的な剣を常に携行している者は少ない。どこかで軍隊経験があるのか、王家に関わる特殊な職務でも請け負っているのか――想像が尽きない。
(もし、王宮からの密偵だったりしたら……)
そんな不安が頭をかすめる。しかし確証はないし、彼の態度からは“敵意”までは感じ取れなかった。むしろ余計なお世話を焼いてくれる優しさが見て取れたほどだ。けれど、この世界では“優しさ”を装って近づき、情報を得ようとする人間もいる。決して油断してはならない――アルタリアはそう自分に強く言い聞かせる。
やがて、まぶたが重くなり始め、意識が遠のきかけたとき、かすかに廊下で人の動く気配がした。何者かが足音をしのばせているのか、妙にゆっくりとした足取りが聞こえる。客が夜中にトイレに立ったのかもしれないが、どこか落ち着かない胸騒ぎを覚えた。
一度は気のせいだろうと目を閉じたが、どうにも眠りに入れない。アルタリアはふっとベッドから起き上がり、耳を澄ませる。小さな物音が続いたかと思うと、何やら戸を開けるような音がきしむ。宿の中で物色をする不審者がいるのでは――そんな疑念がわきあがる。
もし盗賊かならず者が潜り込んでいたらどうしよう。アルタリアは恐怖に喉が渇くような感覚を覚えるが、ここで怯えていては何も解決しない。宿の安全は自分だけでなく、他の客や従業員たちの生命にも関わる。
彼女は決意を固め、そっと扉を開けた。極力物音を立てないよう注意しながら廊下に出ると、薄暗い明かりの中、確かに何者かの人影が見えた。小柄な体つきでフードを被り、宿の部屋のドアノブを静かに回している。まるで施錠の甘い部屋を探しているかのようだ。
(まずい……どうすれば。マルコさんかエルダさんを呼んだ方が――)
そう考えていると、ふと人影が振り返った。息が止まるほどの緊張が走るが、相手もまたこちらを見て固まったようだ。互いに沈黙のまま、わずか数秒のにらみ合いが続く。
先に動いたのは相手だった。何か言葉を発するでもなく、ギラリと光る短剣を取り出し、こちらに向けて身構える。
「……っ!」
アルタリアは悲鳴を上げそうになるが、かろうじて唇を噛んでこらえる。こんな夜中に大声を出せば客室にも迷惑がかかるし、相手を刺激する可能性も高い。だが、どうする――このままでは殺されかねない! そう思った瞬間、人影がこちらに駆け出してきた。
咄嗟に逃げようとするも、廊下は狭くて思うように動けない。あわや短剣が届く、というところで――
「動くな!」
鋭い声が響いた。続いて、何かが風を切り、フードの男の腕から短剣が弾き飛ばされる音がした。男は「ぐっ……」とうめき、床にひれ伏す。驚きのあまり、アルタリアは視線を巡らせる。そこにいたのは、まさかの人物――レオナードだった。
彼は一瞬で男を取り押さえ、うつ伏せの状態にして腕を背中へねじ上げる。短剣は廊下に転がり、鈍く光を放っていた。フードを剥ぎ取ると、男は痩せこけた青年で、焦りと怒りが混ざった表情を浮かべている。
「盗賊か? おまえ、この宿で何をするつもりだった?」
「くそっ、離せ!」
青年は必死にもがくが、レオナードの圧倒的な力の前ではどうにもならない。そこへマルコや他の客たちが気づき、明かりを手に廊下へ集まってきた。
「何だ何だ、騒がしいぞ……」
「泥棒か?」
ざわめきが広がる中、レオナードは無言で男を押さえ込んだまま、アルタリアに視線を向ける。彼女は息を切らしながら、恐怖と安堵が入り混じった複雑な表情でうなずいた。
「ありがとう……また助けられました……」
「気にするな。偶然、仕事の関係でこの辺りを見回ってたんだ。まさかこんなところで会うとは思わなかったが……おまえさん、危ないところだったな」
そう言って、レオナードは男の腕をさらに力強く押さえた。カチャリと金属音がして、彼は懐から何か鎖のようなものを取り出し、男の手首を拘束する。
「俺はこの町の領主代行から“最近宿泊客を狙う盗みが横行しているから、捕まえてほしい”と依頼されていた。まさかおまえさんの宿に現れるとはな」
その場で男の身元を調べようとしたが、彼は口を噤み、逃げようとして暴れるばかり。マルコは衛兵を呼びに走り、ほどなくして駆けつけた兵士に男を引き渡すことになった。
こうして宿の危機は回避され、他の客たちも床に戻っていく。アルタリアの胸には、またしてもレオナードに助けられたという事実が深く刻みつけられた。
■交錯する思い
騒ぎがひと段落した廊下で、アルタリアは荒れた呼吸を整えながらレオナードと向き合う。
「本当に、ありがとうございます……二度もあなたに助けてもらうなんて」
「気にしなくていい。こっちも依頼の一環だし、そこまで大したことはしてないさ。ちょっと怪しげな奴がいると睨んで、この近辺を巡回していただけだ。それより、おまえさんこそ無事で何よりだった」
レオナードは真剣な表情で言葉を続ける。
「ただ、これでわかったろう? この町はそこまで甘くない。盗賊やならず者がちらほら入り込んでるし、特に夜は危険だ。自室の鍵は必ずかけておくこと、廊下の様子がおかしければ宿の人間に知らせること――あたりまえのことだが、しっかり徹底するんだ」
「はい……今夜は、たまたま目が冴えていて気配を感じただけで、危うく襲われるところでした」
「運が良かったんだよ。下手すりゃ命がなかった」
そう指摘されると、アルタリアは身震いする。ほんの数秒遅れていたら、短剣が自分の体を傷つけていたかもしれない。まだ手の震えが収まらず、怖かったという実感が後から押し寄せてきた。
レオナードはそんな彼女の様子を見て、少しだけ微笑みを浮かべる。
「怖いなら、今夜は部屋でしっかり鍵をかけて眠るんだ。大丈夫、奴は捕まえたし、ほかにも仲間がいるなら近々炙り出してやる」
「……あなたは、こういう仕事が多いんですか? 依頼を受けて危険を排除するのって、大変では」
「まあ、慣れてるからな。俺も色々あってこういう立場に身を置いてる。騎士団にいた時期もあるから、多少は人より動ける自信はあるんだ」
レオナードがさりげなく自分の経歴を明かす。騎士団出身ということは、やはり王国軍との関係があったのだろう。アルタリアの不安が少し高まるが、今はそれを表に出せない。
「そう……だったんですね。とにかく、今夜は助かりました。お礼の言葉も見つからないくらいです」
「礼を言われるほどじゃない。じゃあ、そろそろ俺は行く。また何かあれば呼んでくれ。おまえさんがどういう事情でここにいるのかは聞かないが、身を守る術は身につけておいたほうがいいぞ」
そう言い残し、レオナードは足音を立てずに宿を出ていった。廊下には静寂が戻り、遠くからマルコが兵士たちと話している声が微かに聞こえる。アルタリアは自室に戻り、扉をしっかり施錠したのち、ようやくベッドに腰を下ろした。
――二度目の危機を救われたことへの安堵と、“彼が騎士団出身らしい”という情報がもたらす緊張感。まるで入り混じるように心の中を渦巻き、彼女はしばらく眠れそうにない。
(あの人が騎士団にいたのなら、王宮の事情も少なからず知っているはず。わたしのことが露見する可能性は高い。どうすれば……)
恐怖に固まる手を握りしめ、アルタリアは震える唇を噛む。ここで働き始めたばかりの宿も、人々も、ようやく手に入れた安定も、すべて壊されてしまうのだろうか。
けれど、レオナードの助力がなければ、命を落としかねない場面だったのも事実だ。そのことを思うと、彼に対する不信ばかりを募らせていては恩知らずだと感じる自分もいる。
誰を信じ、誰を疑うべきなのか――。追放によって一度壊れたアルタリアの人生には、まだ試練が待ち受けているらしい。彼女は目を閉じ、深呼吸を繰り返しながら、明日もまた仕事があるのだと自分に言い聞かせた。
(わたしはここで生きていく。もう誰にも振り回されない――絶対に)
外では町の兵士たちが盗賊の一味を追う足音を響かせ、闇夜にか細い声が遠ざかっていく。激しい心臓の鼓動を鎮めるように布団を握りしめ、アルタリアは再び覚悟を確かめた。追い風のような自由もある一方、いつ敵が襲い来るかわからぬ孤独な日々。
王宮の裏切りや華やかな貴族社会の喧騒を抜け、彼女が手に入れた“ささやかな暮らし”は、まだ足元が覚束ない。だが、それでもなお彼女は前を向いて歩み続けるしかないのだ。いつか、すべてを塗り替える日がやってくることを信じて――。