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第4話 迫り来る足音と揺れる心

 夜の騒動から翌朝にかけて、大通りの宿は慌ただしい空気に包まれていた。盗賊を取り押さえた件が街の兵士たちによって公にされ、宿の客や近隣住民がぞろぞろと様子を見にやって来たのだ。どんな犯罪者だったのか、どれだけの被害があったのか――人々の好奇心が混じり合って宿をざわつかせる。


 しかし、蓋を開けてみれば、捕まったのは単独の小悪党。警備が手薄そうな宿を狙ってはちょこちょこと盗みを働き、周囲に迷惑をかけていたらしい。最初は頑なに黙っていた男も、役人に厳しく問いただされるうちに、いくつかの犯行を白状したとのことだった。おかげで宿の信用に傷がつかず、むしろ「この宿はしっかり警戒している」「怪しい奴を取り押さえた」といった前向きな評判が広まりつつある。


「いやあ、まったく皮肉なものだよ」

 店主のマルコは、宿のカウンターで集金作業をしながら苦笑いを浮かべる。

「本来なら恐ろしい出来事なのに、『あの宿は安全だ』って話になっちまった。実際、犯人を逃がさず捕まえられたのは幸運だけどな」

「マルコさんが兵士をすぐ呼んでくれたおかげです」

 アルタリアはそう言って頭を下げる。彼女自身にとっても、レオナードの迅速な行動とマルコたちの対応がなければ危険な目に遭っていたに違いない。


 それからというもの、アルタリアは夜の巡回を増やすなど、安全管理を一層強化するよう宿のみんなと協力していた。自分も朝から晩まで働いて疲れてはいるが、不思議と気力だけは衰えない。危機を乗り越えたことが、彼女の中で小さな自信にもつながり始めていたからだ。


 もっとも、その裏側には拭いきれない不安や緊張感がある。

 レオナードは騎士団出身であり、王宮にも通じる可能性がある男。いつか自分の正体を見抜かれ、王都へ通報されるかもしれない。あるいは、まだどこかに潜んでいる敵意ある人間が、アルタリアに手を伸ばしてくるかもしれない。

 いずれにせよ、彼女には落ち着いて暮らせない理由が多すぎた。



---


■町に漂う新たな噂


 ひとまず盗賊騒ぎは収束に向かったものの、町全体を眺めると、新たな動きがささやかれ始めていた。それは、「聖女を名乗る娘が南の地方を巡っている」という噂である。王都を離れ、各地の寺院や孤児院を視察しているらしい。ある日、宿の食堂で耳にした旅商人たちの会話が、アルタリアの胸に突き刺さった。


「近々、この町にも来るかもしれないんだってよ。すごい力を持ってるらしいぞ。噂によれば、病気の子供を癒やしたとか……」

「聖女様がいる場所には、第二王子殿下も随行しているんだろ? そりゃあ一目見てみたいもんだ。なんたって王家の方々だしな」

「しかし、その聖女に入れ込んだ結果、前の婚約者を追放したって話も聞くが……まあ貴族の事情はわかんねえよな」


 客席を回るアルタリアは、配膳用の盆を震えそうになる手で必死に支えた。第二王子、エリオット――彼女を切り捨てたあの人だ。追放された苦い記憶が一気によみがえる。彼は今や“聖女”と称えられる平民娘を得て、新たな道を歩んでいる。まさかこんな近くの町に足を運ぶなんて、思ってもみなかった。

(ひょっとすると、本当にここへ来るの……?)

 もしそうなれば、アルタリアの存在が露見する可能性は一気に高まる。貴族社会であれほど目立っていた自分を、知らないはずがない。ましてや、「追放同然でどこかへ消えた元伯爵令嬢」がこんな町で働いているなど、絶好のスキャンダルネタとして王子に伝わるかもしれない。彼がどんな反応をするか――想像するだけで、体が固まってしまいそうだった。


 だが、アルタリアは表面上は微笑みを崩さず、旅商人たちに「ごゆっくりどうぞ」とだけ告げてテーブルを離れる。逃げ出したい気持ちがこみ上げるが、ここで仕事を投げ出すわけにはいかない。現実逃避して無計画に町を離れれば、再びどこかで危険に巻き込まれるのがオチだ。

(どうする? 本当にエリオットたちが来るなら、先手を打たないと……でも、私に何ができる?)


 食堂の裏手に下がって深呼吸を繰り返すアルタリアの姿を見かけ、料理人のエルダが怪訝そうに声をかけてきた。

「どうしたの、そんな顔色悪くして。朝から食べてないんじゃない?」

「あ、いえ……すみません。ちょっと胸が詰まってしまって……」

「忙しさに慣れなきゃならないのはわかるけど、ちゃんと休むときは休みなさいよ。あんたが倒れたら宿は大混乱よ」

 どこまでも世話焼きなエルダの言葉に、アルタリアは小さく笑みを返した。深く事情を話せないもどかしさを抱えながらも、こうして気遣ってくれる人がいるのはありがたい。



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■ある来訪者の姿


 それから数日後、町の風景にわずかな変化が訪れた。大通りに通じる門の近くで、兵士たちが警備を強化し始めたのだ。どうやら、上層部から「貴族の要人が来訪する可能性があるから、厳重に見回りをせよ」との通達が出たらしい。噂どおり、あの“聖女”を連れた行列が来るのかもしれない――あるいは、それとは別の貴族たちが視察にやって来るのかもしれない。


 大通りの宿でも、その話題が絶えなかった。

「もし本当に王族クラスが来るんだったら、この町は大騒ぎになるぞ。うちの宿に泊まる可能性は低いだろうが、あちこちで領主や商人たちが準備を始めてるし、なんだかすごいことになりそうだ」

 マルコがそう語ると、エルダが鼻で笑う。

「どうせ領主の館に大勢が押し寄せるだけでしょ? 私はここで料理を出すだけ。変に巻き込まれたくもないわねえ」

 宿のスタッフたちがわいわい噂話をする中、アルタリアはやはり胸の奥に暗い影を感じずにいられなかった。


 そんなある日の昼下がり。アルタリアが買い出しから戻ると、宿の入口に見慣れない男が立っているのが目に入った。薄汚れた外套を羽織り、いかにも浮浪者めいた格好だが、その目つきには妙な鋭さがあった。

「あんた、この宿で働いてるのか?」

 男はアルタリアを見とめると、無遠慮な口調で問いかける。

「はい、そうですが……。宿をご利用ですか?」

「宿? いや、俺はちょっと探し物をしていてな。妙に顔立ちの整った女がここにいるって聞いたんだが……あんたじゃなさそうだな。もっと上品そうな女だと聞いたんだが」


 唐突すぎる質問に、アルタリアは警戒心を抱き、言葉を選びながら答える。

「さあ、私には心当たりがありません。他の宿泊客の方かもしれませんね。もしお探しの方が宿泊しているなら、マルコさんに確認してみては?」

 そう言って奥のカウンターへ視線を向けるが、男は動こうとしない。むしろアルタリアの顔をじっと見つめ、にやりと笑った。

「なるほどな。そう簡単には教えないってわけか。……ま、いい。俺もちょっと確かめたいことがあってな。じゃあ、あんたに頼もう。『アルタリア』とかいう女を見かけたら、俺に教えてくれないか? ここに泊まってるか、働いてるかもしれないって噂があるんだ」


 全身が凍り付くような感覚に襲われる。まさか自分の名前を直接尋ねられるとは。しかも、まるで“そこにいるはずだ”という前提で話しているではないか。アルタリアはなんとか平静を装い、淡々と肩をすくめてみせる。

「その名前……聞いたことがありません。気のせいじゃないでしょうか?」

「へえ……」

 男は怪しい笑みを浮かべると、そのまま踵を返して宿の外へ出ていった。目の奥に残った嫌な光は、彼がまだ納得していないことを示唆しているかのようだった。


 ――まずい。本当にまずい。なぜ、この町に自分の名前が漏れている? いったい誰が情報を流しているのか。追放後、名乗ることを避けていたのに、どこで嗅ぎつけられたのか。

 アルタリアは動悸が激しくなるのを感じながら、慌ててマルコに報告した。

「今、外で妙な男に声をかけられて……私の名前を探しているようなんです。どういう目的かはわからないけれど、すごく不気味でした……」

「なんだって? 名前を……? うーん、困ったな。そいつは客じゃなかったんだな?」

「ええ。見たところ、浮浪者のような格好でしたが……」


 マルコは首をひねりつつ、宿の裏口へ続く扉を確認しながら言う。

「そういうやつに限って何か裏がある。ここに無断で潜り込まれないよう、今夜は扉の施錠をもっと徹底しよう。アルタリアも気をつけてくれ。変な連中に目を付けられたなら、厄介ごとになるかもしれん」


 自分の名前を探している人物が現れる――それは悪夢以外の何物でもなかった。もし、王宮かどこかから依頼を受けた密偵が動いているとしたら? あるいは、元婚約者の一族や、別の利害関係をもつ貴族が手下を送り込んでいるとしたら? 考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりが膨らむ。



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■レオナードの忠告


 その夜、宿の廊下で客室の確認をしていたアルタリアは、ばったりレオナードと鉢合わせした。どうやら彼も何か依頼で動いているのか、相変わらず剣を帯びた姿で宿を出入りしている。

「よお、元気してるか?」

 レオナードは声をかけると、アルタリアをちらりと見つめる。最近の彼は、どこかこちらを気にしているような仕草が多い。まるで何か言いたそうにしているが、言い出せない――そんなもどかしさが伝わってくる。

「ええ、おかげさまで。あなたの方こそ依頼は進んでいるんですか?」

「ぼちぼち、な。例の盗賊関連は片付いたが、今度は別の依頼が降ってきた。最近、この町を拠点に妙な動きをしている集団がいるらしくてな。領主代行から、“不審人物がいれば報告せよ”と」


 アルタリアの胸がどきりとする。もし、その“不審人物”の捜索対象に自分が含まれていたら――。レオナードが王宮の命を受けて動いている可能性を、常に警戒していたからだ。

 しかし彼はアルタリアの動揺に気づいた様子もなく、ちらりと廊下の窓の外に視線を投げる。月明かりがわずかに差し込むだけの静かな夜。

「ところで……おまえさんに関わりがあるかどうか知らんが、昼間、“アルタリア”って名の女を探してる奴がいたって聞いたぞ」

 レオナードの言葉に、アルタリアは背筋に冷たい汗が走る。マルコから漏れたのか、あるいは他の客が会話しているのを彼が耳にしたのか。とにかく、もうあの出来事は町の一部で共有されつつあるらしい。

「そ、そうなんです。私も外で鉢合わせして、すごく怖かった……」

「ふむ。そいつの特徴は?」

「薄汚れた外套を着ていて、鋭い目つきでした。浮浪者のようにも見えましたが……」

 レオナードは少し考え込んでから、口を開く。

「そいつは俺も見かけた。似たような噂を他所で仕入れてきたが、どうやらただの浮浪者ではないらしい。何者かの手先かもしれん。くれぐれも気をつけろ。おまえさんの名前が知れ渡ってるなら、今後も似たような輩が現れるかもしれない」

「……わかりました。ありがとうございます」


 胸の奥に重たい不安を抱えながら、アルタリアは一礼してその場を離れようとした。すると、レオナードが控えめな声で呼び止める。

「なあ、アルタリア。俺はおまえに貸しがあるし、放っておけない。もし困ってるなら言ってくれないか。おまえが何者であろうと、少なくともこの町で会った仲だ。俺が守れる範囲でなら、手助けしたいと思ってる」

 にじむような真剣さが、その低い声にこもっている。アルタリアは一瞬、彼にすべてを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。追放の経緯、伯爵令嬢だったこと――。だが、同時に王都の騎士団出身である彼に話すのは危険だという理性が働く。

「お気持ちは本当にありがたいです。でも、何かあっても……その、あまりご迷惑はかけられません」

 言葉を濁すアルタリアを、レオナードは穏やかな瞳で見つめる。

「そうか。強がりにしか聞こえないが……おまえさんがそう決めるなら、俺は口出ししない。ただ、俺の耳にも“王都から要人が来る”という話が届いている。何かと落ち着かない時期だ。おまえさんに関係があるかはわからないが、今はとにかく自衛をしっかりやるんだ。いいな?」

「……はい」


 そうしてレオナードは去っていく。彼の足音が遠ざかるにつれ、アルタリアはこみ上げる戸惑いをなだめる術を失っていた。誰かに守ってほしいと思う反面、自分が抱える秘密を知られてはならない。だが、果たしてそれがどこまで通用するのか――。



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■手放せない居場所


 翌日以降も、あの薄汚れた男が宿の周辺をうろつくという報告はなかった。ひとまず危機は去ったかに見えたが、アルタリアの胸騒ぎは増すばかり。いつ何時また奇妙な輩が現れるかもわからないし、さらに王族が訪れるという噂も日に日に濃厚になっている。


 そんな中でも仕事は待ってくれない。大通りの宿は評判が上向きになったこともあって、宿泊客が以前より増えてきた。エルダが作る料理が美味しいと口コミで広まり、旅の商人たちや近隣の住民たちが食事目当てに立ち寄るようになったのだ。

 アルタリアはその対応に追われ、朝から晩までせわしなく動き回る。荷物を運び、食堂で接客し、部屋の掃除をし、夜には廊下の見回りをする。肉体的には厳しいが、余計な考えに沈む暇がないのは幸いだった。


 ある夕刻、宿の裏庭で一息ついていたアルタリアに、マルコが声をかけてきた。

「お疲れさま、アルタリア。助かってるよ、本当に。うちの宿がここまで忙しくなるなんて、正直思ってなかったんだ。君が入ってくれて大助かりだ」

「わたしも、ここで働かせてもらえてありがたいです。お給金もいただけますし、何より……居場所があるというのは、こんなに安心することなんだなって」

 アルタリアは素直な思いを口にする。追放という辛い経験があったからこそ、こうして“雇われる側”として働ける喜びを知ったのかもしれない。確かに厳しい現実はあるが、ここでの日常はかけがえのないものになりつつあった。

 マルコは笑みを浮かべ、少し言葉を添える。

「君がここでずっと働きたいなら、僕としては大歓迎だ。いずれはもう少し給金も上げてあげたいと思ってるし、部屋の環境だって整えたい。まあ、今はまだ忙しすぎて、何から手をつければいいかって状態だけどね」

「……ありがとうございます、うれしいです。わたしもこの場所を大切にしたいと思っています」


 心底からの言葉だった。アルタリアにとって、この宿は第二の人生の拠り所になり始めていた。ここを離れたくないし、離れる理由もない――そう、少し前までは思っていた。

 しかし、今まさに王都関連の動きが迫っている以上、この町にずっと潜んでいられるとは限らない。もし自分の存在が露見してしまえば、迷惑をかけるのは宿の人々だ。マルコもエルダも、そしてここで出会った心優しい仲間たちも巻き込みたくはなかった。


 そうした思いがぐるぐる渦巻くなか、アルタリアはマルコと別れて食堂へ戻る。キッチンからはエルダが大鍋をかき混ぜる音が聞こえてきた。仲間たちが働く忙しげな姿に、一抹の寂しさを覚える。

(いざという時、この町を出る覚悟を決めないといけないかもしれない。せっかく頑張ってきたけど……何より、彼らを守るためには)



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■暗雲の影


 翌週のある日。ざわついた空気を背負い、数台の馬車が町に入ってきた。先頭には騎士団の装いの一団が騎乗しており、その後に馬車が続く。馬車の窓は閉められ、中の様子はわからないが、兵士たちが周囲を警戒しているところを見ると、要人が乗っているのは間違いない。

 人々が遠巻きに見つめる中、馬車の列は町の中央通りを通過し、領主代行の屋敷へと向かった。おそらく、そこが彼らの暫定的な滞在先となるはずだ。もし本当に“聖女”と第二王子が乗っているのだとしたら――。


 大通りの宿も、外からその行列をちらりと眺める形になった。店先でマルコやエルダ、アルタリアが顔を見合わせる。周囲の客や町人たちも口々に「すごいな」「あれが王都の騎士団か」と囁いている。

「本当に来たんだね……。ただの噂かと思ってたけど」

 マルコがつぶやくと、エルダは腕を組んだまま鼻を鳴らした。

「どうせ領主の館に引きこもって出てこないでしょうよ。ま、あの規模だと兵士や関係者たちがあちこちに泊まるかもしれない。宿としては稼ぎ時だけど、トラブルは勘弁してほしいわね」


 アルタリアの視線は、遠ざかる騎馬隊の後ろ姿を追う。彼らの中に、エリオットがいるかもしれない。かつての婚約者――もう決して会うはずのない人。もし彼がこの町に長く留まるなら、いずれ外出する機会もあるだろう。そのときに顔を合わせてしまったら……。

 思考が混乱を極め、頭の中で警鐘が鳴る。逃げ場はあるのか? いや、今すぐ宿を飛び出せば怪しまれるだけ。ここで働いている姿を見られたくないけれど、かといって動揺して仕事を投げ出すこともできない。


 心が千々に乱れる中、宿の中へ戻ろうとしたアルタリアは、不意に視界の端に人影を捉えた。先日、自分の名前を尋ねてきたあの不審な男だ。今は少し離れた場所の路地裏で、鋭い眼差しを向けている。あれほどの人混みの中でも決して見失わないように、彼女を注視しているようだ。

(やはり、諦めていない……!)


 何かが起こる――そう直感した瞬間、アルタリアは足早に宿の裏口へ回った。そのまま厨房を抜けて人目につかない裏庭に出る。追われているなら、ここへ回り込まれる可能性もあるが、まずは宿の仲間たちを巻き込まないよう行動するしかない。

 だが、裏庭の向こうには古い柵があるだけで、すぐ隣は細い路地となっている。逃げ場は少ない。どうする? このまま静かに室内へ戻るか、それとも――。

 ぐっと息を呑んだとき、案の定、柵の向こうから男の姿が現れた。目が血走っており、あからさまに敵意を漂わせている。

「おい……やっぱりおまえが『アルタリア』だな? とぼけやがって……。まあいい、ここまで来りゃ逃げられねえぞ。ちょっと話をさせてもらう」

 ぴたりと通せんぼされる形で、アルタリアは喉が渇くような恐怖を感じる。だが、ここで弱気を見せれば男の思う壺かもしれない。彼女は決意を込めて唇を開く。

「わたしはあなたなんかに用はありません。どこでわたしの名を聞いたのかは知りませんが、人違いという可能性だってあるでしょう?」

「へっ、苦しい言い訳を。おまえが元伯爵家の令嬢ってのは、もうわかってんだよ。なあに、ちょっと情報を聞き出したいだけさ。協力してくれりゃ害は加えねえよ」


 その言葉に、アルタリアの眉が僅かにひそむ。男は自分の正体に確信を持っているようだ。いったいどこからそんな情報が流れた? いずれにせよ、このままここで男に捕まるわけにはいかない。

「……あいにく、追放されてからもう何の力も持っていません。伯爵家にも王家にも、何の影響力も。聞きたいことがあるなら、さっさとどうぞ。協力できるとは思えないですけどね」

「強気だねえ。ならあんた、王都で“聖女”に会ったことはあるか? 噂によりゃ、あんたはそいつに婚約者を取られたって話じゃないか。あの女の正体について、何か知ってるんじゃねえのか?」


 聖女――あの平民出身の娘。エリオットが惹かれ、アルタリアを切り捨てるきっかけとなった存在。どうやら、この男は聖女に関して探りを入れているのだ。何の目的で?

「知らないわ。あの人の身辺になんて興味もないし、そもそも親しくした覚えなんかない」

 アルタリアは吐き捨てるように言う。事実、エリオットとの縁談がこじれた原因は彼女にとって屈辱以外の何物でもない。だが、男は歯を見せて嘲笑する。

「へえ、そうかい。だがな、俺が欲しいのは情報だけじゃない。あの“聖女”がこの南の地までやって来てるらしいし、いろいろと都合があるんだよ。もしおまえさんを人質にすれば、王子どもを呼び寄せられるかもなあ?」


 人質――それは冗談ではすまされない言葉だ。アルタリアは背筋が凍る思いで、すっと視線を男の足元に据える。危険だが、怯えきった姿を見せるわけにもいかない。

「……本当にそんなことをしたら、町の兵士たちが黙っていないわよ。この宿だって客が多いし、あなた一人がどうにかできる相手じゃないでしょう」

「さあ、どうだかな。俺一人だと思うか? まあ、こうして話をしている間にも、すでに計画は進行中かもしれないぜ」


 ぞっとするような殺気が漂い、アルタリアは奥歯を噛み締める。どうにか逃げられないかと辺りを見回すが、細い路地のほうにも人影がある気配がする。複数の仲間が待機しているのかもしれない。

 完全に袋の鼠――その嫌な予感が高まったとき、どこからか声が飛んできた。

「そこまでだ」

 現れたのはレオナードだ。どこに潜んでいたのか、まるで風のように静かに入り込み、男とアルタリアの間に割って入る。

「ちっ、またお前か……」

 男は苦々しげに唇をゆがめる。レオナードの背後には、すでに何人かの兵士の姿も見える。どうやら、町の不審者情報を得たレオナードが、急ぎ駆けつけたらしい。


 だが、男は簡単に降参する様子を見せない。懐からナイフを取り出し、鋭い目つきで左右をうかがう。柵を飛び越えて逃げようとする素振りすらある。兵士たちも武器を構え、にらみ合いが続く。

(このまま戦闘になったら、宿が荒らされる……)

 アルタリアは胸を押さえ、ただ祈るような思いでその場に立ちすくむ。レオナードが一歩踏み出すと、男は逆上したように柵へ駆け寄った。だが、そこにはもう一人兵士が回り込んでおり、あっという間に取り押さえられる。ナイフが地面に落ちてガチャンと音を立てた。

「くそ……覚えてろよ……」

 男は捨て台詞を吐きながら、兵士たちによって両腕を背中へ回される。どうやら仲間と合流する余裕もないほどに追い詰められていたようだ。


 こうして再び、アルタリアはレオナードの助けで危機を逃れた。

「大丈夫か?」

 レオナードが振り返り、アルタリアに手を差し伸べる。彼女はこわばったままの顔で、かろうじてうなずいた。

「は、はい……ありがとうございます。危うく捕まるところでした」

「まったく、放っておけないな。おまえさんに執着する連中が一体何を企んでいるのか、早めに調べなければならん。――王都からのお偉方が来ている状況で、こんな企みが進んでいるとなりゃ、早晩大きな騒ぎになるだろう」

 そう言いながら、レオナードはすぐさま兵士たちに指示を飛ばし、男を拘束して連行させる。アルタリアはその光景を見守りながら、震える手で襟元を押さえていた。


 ――再び救われる形となりながらも、彼女の心は重く沈む。このままでは町に迷惑が及ぶのも時間の問題だ。彼女自身、いつまでも“助けられる側”でいるわけにはいかない。

 同時に、男の口から飛び出した「聖女をおびき寄せるため」という言葉が頭を離れない。あの娘を狙う勢力がいるのか、それとも王子を揺さぶるための手段なのか――。思わぬところで、アルタリアはふたたび“聖女”の影を感じることになる。追放の痛手がまだ癒えぬうちに、こんな形で因縁が迫ってくるとは想像すらしていなかった。


 町には王族の馬車が到着し、不穏なならず者が暗躍し、さらに自身を「アルタリア」と名指しする者も現れた。どう動くべきか。どう決断すべきか。

 アルタリアは胸の奥に炎のような感情を宿し始める。かつての自分なら王宮や家族に守られるだけだった。けれど今は違う。守らなければいけない人々がいる――マルコやエルダ、宿に集う仲間たち。そして、いつも危険を顧みずに助けてくれるレオナード。

(わたしはもう逃げるだけじゃない。もしあの人たちと再び相まみえる日が来るなら、しっかりと向き合わなければならない)


 それは、追放されて以来初めて芽生えた“覚悟”と呼べるものだった。この町を襲う危機は、どこか自分自身の宿命とも繋がっている気がする。今はまだ具体的な策は思いつかないが、必ずしも“逃げる”だけが選択肢ではないはず。そう信じたい――。

 宿の裏庭を吹き抜ける風は肌寒いが、アルタリアの心にはかすかな熱が巡っていた。追放という苦しみを経て、なおも自分を捕らえようとする過去の連鎖に、彼女はもはや黙って飲み込まれるつもりはない。


 夜が深まるほどに、町のどこかから騎士たちの見回りする足音がかすかに聞こえてくる。あの王子が本当にここにいるのかはわからない。聖女を名乗る娘が既に町へ入ったのかも定かではない。だが、この先の波乱が避けられないことだけは、もはや疑いようがなかった。

 しっかりと立たねば――そう決意して、アルタリアは握りしめた拳をそっとほどく。いつか“ざまあ見ろ”と堂々と言える日が来るように、今はすべてを受け止める覚悟を固めるしかない。





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