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第5話 決意の夜明けと動き出す運命

 薄曇りの空が広がる朝、町の喧騒はいつも以上に高まっていた。領主代行の屋敷へ泊まっている“王家の一団”が、どうやら本日、市内を巡回するというのだ。武官の中には正規の騎士団員らしき人物が多く、準備のために早朝から大通りを馬が行き交っている。

 大通りの宿も例外なく人の波に飲まれつつあった。宿泊客の中には、王家の姿を一目見ようと外へ出て行く者がいるし、それを当て込んで商売をする行商人が軒先を借りにやってくる。アルタリアはマルコやエルダとともに慌ただしい対応に追われながら、心ここにあらずの状態を続けていた。


 ――本当に“あの人”が町を回るのだろうか。

 頭をもたげるのは、かつての婚約者である第二王子・エリオットの姿だ。周囲は「王家の馬車に乗っているのは殿下だ」と噂しているが、本人を直接見たという話はまだ聞かない。あるいは聖女も同道しているのかもしれない。もし目の前に現れたらどうしよう。

 逃げ出したい気持ちもあったが、それ以上に、胸の奥には「今度こそ動じずに立ち向かってみせる」という熱い感情が芽生えていた。エリオットに再会しても、もはや屈辱に押しつぶされるだけの存在ではいたくない――そう思う自分がいるのだ。


 一方、アルタリアを狙っていた謎の男は、レオナードと兵士たちによって捕らえられたものの、取り調べは難航しているという。町役人の話によれば、彼は頑なに黙秘を続ける一方で、「まだ仲間がいる」などと不穏な言葉を漏らしているそうだ。聖女に関する動向を探っていた節もあるが、真相はいまだ闇の中らしい。

 どんな勢力が裏で糸を引いているのか。もしかすると、これ以上の大きな騒ぎが起きるかもしれない。そんな不安を拭えないまま、アルタリアはいつもと変わらず宿の仕事をこなす。長い廊下を走り、使用人部屋を片づけ、食堂のテーブルを拭き上げて回り――余計なことを考えている暇などないほどだ。



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■町に広がる聖女の評判


 昼近くになり、大通りでは一斉に騒ぎが起こった。領主代行の屋敷を出た一行が、ついに表通りを進み始めたのだ。馬に乗った騎士や、式典用の豪奢な服装をまとった従者たちが周囲を固め、その中央にはひときわ装飾の美しい馬車が見える。

 町人たちは歓声とともに沿道へ押し寄せ、手を振ったり、小旗を振ったりして迎えていた。アルタリアも宿の玄関先に立ち、遠巻きにその行列を見つめる。自分の姿が見られるかもしれないという恐怖はあるが、それよりも、実際に王族が町を歩む光景を目撃するのは初めてで、その迫力に息を飲んだ。

 やがて行列の端に、異様なほど多くの人々が集まる一角があった。そこでは馬車が停まり、華やかな衣装を身につけた若い娘が降り立っている。噂の“聖女”だろう。その姿をひと目見ようと市民が殺到し、騎士たちが必死に周囲を制止していた。

「聖女様! 病気を治していただけるって、本当ですか!」

「うちの子供が長いこと熱を下げられなくて……どうかお力をお貸しください!」

 口々に上がる悲痛な叫びに、娘は物腰柔らかな微笑みを返し、手を差し伸べる。そこに居合わせた病人らしき人々が続々と集まり、聖女は優しく声をかけながら、一人ひとりを癒やすように額に手を当てる。すると、次々と「痛みが消えた」「身体が軽くなった」と歓喜の声が湧き起こり、その場は熱狂に包まれた。

(これが……“聖女”……)

 アルタリアの胸には複雑な感情がわき上がる。自分の婚約者を奪った張本人、という負のイメージは拭えない。一方で、目の前で起きている癒やしの光景が事実であるなら、その力は本物らしい。だからこそ、人々の支持を得て、王家の庇護を受けているのだろうか。


 しかし、アルタリアが注視しているのは聖女の姿だけではない。いつ現れるかわからない第二王子――エリオットを探してしまう自分がいる。だが、馬車に乗っている王族らしき人物は見えるものの、顔までは確認できない。いかに町の人々が盛り上がろうと、やはりそれほど簡単に王子の姿は露わにならないようだ。

 アルタリアは少し肩透かしを食らったような気分になりながらも、興奮する群衆の中に紛れず、静かに宿へ戻る。こんな時こそ、仕事を怠らないようにしなければ――気を抜けば、自分が狙われる危険だってあるのだ。



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■レオナードの警告


 昼食の準備を終えて一息ついた頃、食堂の隅にレオナードが座っているのを見つけた。彼は簡単な食事をつつきながら、宿の様子を観察しているようだ。アルタリアがそっと近づくと、彼は小さく手を挙げて合図を送る。

「話があるんだ。少し時間をくれないか」

 尋常でない口調に、アルタリアは胸の奥が騒ぐのを覚える。エプロンを外し、厨房のエルダにひと言伝えてから、レオナードが待つ席に腰を下ろした。

「どうしましたか? あまり落ち着かない顔をしているみたいですが……」

 レオナードは食堂の他の客に耳を傾けられないよう、声を潜めて口を開く。

「捕えた男のことだが、取り調べで“伯爵令嬢を人質にすれば、王家を揺さぶれる”という話をほのめかしていたらしい。おまえさんが元伯爵家の出身というのは、どうやら確固たる情報として裏社会に広まっている」

 アルタリアは息を呑む。もはや自分の素性は確実に漏れているということだ。逃げられない現実を突きつけられ、胃が重くなるような感覚がした。

「そうですか……。やはり王族に接触するつもりなんですね。そのためにわたしを狙うというのなら、まだ他の連中が動いているかもしれません」

「その可能性が高い。しかも今は、あの聖女や第二王子らが町にいる。ここで事件が起これば、どんな混乱になるかわからない。――だから頼む、下手に外を出歩かないでくれ。宿で大人しくしているのが一番安全だ」


 力強い瞳でそう言い切るレオナードに、アルタリアはほのかな感謝と同時に、言い表せない葛藤を覚える。守られるだけではいけない、という思いがふつふつと湧き上がっていた。

「……ありがとうございます。でも、ずっと誰かに隠れて生きるわけにはいきません。これ以上、宿の人たちに迷惑をかけるわけにもいかないですし」

「迷惑をかけたくないならなおさら、姿を見せずに問題をやり過ごした方がいい。おまえさんが狙われるとわかっている以上、一人で出歩けばあいつらの思う壺だ」

 レオナードの言い分は正論だ。だが、アルタリアの胸中には「それだけでは何も解決しない」という苛立ちもくすぶる。これほどの騒ぎになり、王家までもが動いている状況で、自分がただじっとしているだけでいいのだろうか。


「わかりました。今はまだ迂闊に動かないようにします。でも、もしわたしの正体が公になる瞬間が訪れたら……そのときは、どうか力を貸していただけませんか? その気になれば、あなたはわたしを王都に連れ帰ることだってできる立場でしょう?」

 思わず言ってしまった言葉に、レオナードは目を見開く。しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべて言った。

「俺はおまえさんを捕まえるつもりはない。追放されてなお、こうして町で必死に生きている人間を、王家の都合でさらに追い込むような真似はしたくない。ただ、俺はどこまでも“騎士団を抜けた傭兵”だ。いざとなれば、この剣を抜く覚悟はある。……おまえがそれを望むなら、守ってやるさ」

 その言葉に、アルタリアは初めて自分を理解してもらえたような安堵を感じた。誰にも言えずに抱えていた不安が、少しだけ解けた気がする。

「ありがとうございます。わたし、あなたに助けてもらってばかり……でも、ちゃんとお礼をしたい。落ち着いたら、お時間を作ってもらえませんか?」

「……ああ。いつかゆっくり話そう」


 そう言いながらも、レオナードの瞳には複雑な光が宿っている。“元騎士団”という肩書が持つ重みと責任。自分の意志だけでは解決できないこともあるはずだ。

 それでも、アルタリアは彼に肩を貸してもらえるという事実に、少なくとも今は心強さを得られた。もう一人ではないのだ――。



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■領主代行の招集


 夕刻が近づくと、今度は思わぬ人物から宿へ呼び出しがかかった。領主代行の側近と名乗る男性が、大通りの宿を訪ねてきたのだ。緊迫した表情でマルコとエルダに何やら耳打ちし、そのままアルタリアにも目を向ける。

「恐れながら、この町で働かれている“アルタリア”殿にお話がございます。実は、領主代行様が至急お会いしたいと――」

 背筋が凍る思いだった。なぜ自分の名前を知っているのか、どうして領主代行が直接呼び出すのか。隠し通せなくなってしまったのか、と動揺が走る。だが、マルコやエルダの前でここで拒否するのも得策ではない。

 アルタリアが意を決して「わかりました」とうなずくと、マルコは「一人で行くのは危険だ」と主張する。すると側近は、できるだけ早く来ていただきたいが、同伴は構わないと答えた。

「それでは、わたしもアルタリアを案内します。エルダ、宿は頼むよ」

「ええ、気をつけて。下手なことに巻き込まれないといいけどね……」

 こうしてアルタリアはマルコに付き添われる形で、領主代行の屋敷へ赴くことになった。そこには、町を警護する兵士や使用人が多数出入りしており、緊張感が漂っている。


 屋敷に通され、広間に通されると、領主代行は応接用の豪華な椅子に座って待ち構えていた。彼はやや細身で、神経質そうな眼差しを持つ中年男性だ。

「よく来てくれた。早速だが、そなたは“カリスタ伯爵家”の令嬢であったと聞いている――アルタリア殿で間違いないな?」

 その問いに、アルタリアは一瞬胸が痛む思いをしながらも、嘘はもう通用しないと腹を括り、しっかりと答える。

「……はい。カリスタ伯爵家の娘でした。現在は追放同然で家を離れており、いまはただの庶民としてこの町に身を寄せています」


 その言葉に領主代行はやや安堵した様子でうなずいた。

「そうか。事情は聞いている。元伯爵令嬢とはいえ、今や王室との縁は切れていると。――しかし、この町を騒がせている“怪しい勢力”が、そなたを人質にしようと目論んでいるらしいのだ。すでに捕まえた者もいるが、まだ仲間がいる可能性は高い。ここで事件が起きれば、わたしの立場も危うい」

 やはりそこか、とアルタリアは心の中で思う。追放されたとはいえ、王都で名の知れた伯爵家の娘をこの町で放置していれば、王族の耳に入ったとき領主代行の責任も問われるかもしれない。何より、目前に“第二王子と聖女”という要人が来訪している現状で、万が一でも騒乱が起きれば大問題になる。


「そこでじゃが……そなたがしばらくの間、この屋敷に身を寄せてはくれぬか? わたしが責任を持って警護を手配するゆえ、外部の者が手出ししようにも難しくなるはずだ」

 領主代行の言葉を受け、アルタリアの思考は混乱する。たしかに安全は高まるだろうが、いきなり領主代行の屋敷に入ってしまえば、事実上“保護”という名目の監視下に置かれるということでもある。

 だが、彼の意図はわかりやすい。要は「町でトラブルを起こされると困るから、おとなしくここで保護されていろ」ということだ。

「わたしは、大通りの宿で働いています。今までお世話になった人々を放っておくわけにはいきません。仕事もありますし、急に休むわけには……」

 そう言うアルタリアに、領主代行は冷めた視線を投げる。

「なるほど。だが、そなたが宿にいる限り、そこを狙って賊が襲撃してくる可能性は否めんぞ。そうなれば、宿の人間も巻き添えを食う。――わたしが保証する。警護は万全にするし、要人たちがこの町を去るまでの数日でいい。どうか聞き分けてはもらえぬか」


 マルコが口を挟みかけたが、アルタリアはそれを制して考え込む。自分のせいで宿のみんなに被害が及ぶのは最も避けたい事態だ。かといって、この屋敷に入ってしまえば、王家関係者に発見される恐れが格段に高くなる。そしてもし見つかれば、どんな扱いを受けるか……。

 悩むアルタリアの表情を見て取り、領主代行はさらに言葉を続ける。

「もし王家がこの町で“元伯爵令嬢の醜聞”を知れば、わしも難しい立場になる。そなたの過去を詮索するつもりはないが、どうか余計な揉め事を起こさぬよう、わしに協力してくれ。これはそなたにとっても悪い話ではあるまい」


 利害が一致するならば、手を組もうという提案――それは半ば脅迫にも近い。“ここに来れば安全”、“逆らえば周囲に迷惑がかかる”というわけだ。

 アルタリアは深いため息をつく。自分で動く自由を奪われるのは避けたいが、いま宿に留まって強行策をとれば、かえってトラブルを呼び込む恐れがある。下手をすれば、宿の仲間たちが巻き込まれかねない。

「……わかりました。そちらのご提案を受けましょう。ただし、数日間だけです。状況が落ち着き次第、わたしは宿に戻ります」

「うむ。賢明な判断だ」

 領主代行は薄く微笑み、さっそく使用人に部屋を用意させるよう命じる。見合いの話をまとめたかのような、事務的かつ淡々とした態度だ。マルコは複雑そうな顔をしている。


「……本当にいいのか、アルタリア。こんな形で引き留められるなんて、気が進まないだろう?」

「ええ、でも――宿に迷惑をかけるよりはましです。少なくともここにいれば、わたしが人質になる危険は減るはずですから」

「そうだけど……君が辛い思いをすることにならないといいが。何かあればすぐ知らせてくれ。僕はいつでも迎えに来るよ」

 そう言ってマルコは名残惜しそうにアルタリアの手を握る。彼の優しさが胸に沁みた。宿の仲間たちがどれほど自分を大切に思ってくれているか、痛いほどわかるだけに、こうして離れることが申し訳なくてならない。


 こうしてアルタリアは、その日のうちに領主代行の屋敷に移ることになった。屋敷の一室に案内されたが、そこは質素というよりは“監視しやすい”位置にあるようにも見える。廊下には常に兵士が立っており、外出は一人ではままならないだろう。

 荷物は最低限しか持ってこなかったが、何をどう整理すればいいのか頭が回らないまま、アルタリアは硬いベッドに腰を下ろした。かすかに差し込む夕陽が、部屋の壁を染めている。

「まさか、こんな形で軟禁状態になるなんて……」

 小さく漏らした独り言に、答えてくれる者は誰もいない。ここでじっとしているうちに、第二王子や聖女が町を視察して去って行くのを見送ることになるのか――。せめてレオナードと連絡を取れればいいが、屋敷の者たちはどこまで認めてくれるのか。


 考え込んでいるうちに日はすっかり暮れ、窓の外には夜の帳が降り始める。敷地内の庭には警護らしき兵士が見回りをしているし、門の外側にも衛兵の姿が見える。下手をすれば、本当に一歩も外に出られないかもしれない。

(あのとき、はっきり拒絶して逃げ出すべきだったかしら。でも、それはそれで宿のみんなを危険にさらす……)


 葛藤に苛まれつつ、アルタリアはベッドに寝転がった。過去にいた伯爵家よりはずっと小さな部屋だが、床には高価な絨毯が敷かれ、家具も上質だ。追放されてからは縁のなかった“貴族的な空間”がここにはある。にもかかわらず、まるで牢獄のような閉塞感しか感じられない。

 いつの間にか疲れと緊張で瞼が重くなり、浅い眠りに落ちていく。うつらうつらと夢の境界をさまよう中、頭に浮かぶのは懐かしい宿の光景。マルコの笑顔、エルダの小言、そしてレオナードのあたたかなまなざし――。



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■夜の囁き


 何度かまどろみを繰り返した後、ふと物音に気づいて目が覚めた。部屋の扉が開くかすかな音がしたような気がして、慌てて身体を起こす。部屋に灯りはなく、廊下の明かりがわずかに差し込むだけで人影までは判別できない。

「どなた……?」

 問いかけるも応答はない。しかし、廊下の方では兵士が巡回しているはずだ。ならば勝手に扉を開けられるのは、屋敷の内部の人間――領主代行か、その使用人だろうか。

 恐怖と警戒で胸が高鳴る中、暗闇を凝視すると、誰かがそっと近づいてくる。やがて近くの燭台に火が灯され、その人影の顔がぼんやりと浮かび上がった。

「――驚かせてすまない。静かにしてほしいんだ」

 小声でそう言ったのは、なんとレオナードだった。彼は屋敷の従者用の服を身に着け、鍵か何かを使ったのか密やかに部屋へ入り込んだらしい。

「れ、レオナード! どうしてここに……?」

「おまえが領主代行に呼び出されたと聞いて、嫌な予感がしてな。何かあれば力になると言ったろ。屋敷の内情を調べるうちに、使用人の誰かと入れ替わる隙を見つけたんだ」

 彼は声をさらに潜める。どうやら堂々と訪問しているわけではないらしく、危険を承知で忍び込んできたのだろう。

「大丈夫か? こんなところに閉じ込められて……領主代行が妙なことを企んでないといいが」


 アルタリアは安堵のあまり、涙がにじむのをこらえる。たった今まで孤独に怯えていた自分にとって、レオナードの存在はあまりにも心強い。

「わたしは大丈夫。まだ何もされてはいません。ただ、しばらくここにいろと言われて……たぶん、わたしを軟禁しているんだと思います」

「なるほどな。領主代行としては、おまえが外でトラブルを起こしたり、王家に見つかったりするのを阻止したいのだろう。だが、このままだとおまえさんの意思は無視され続ける。いずれ王家の誰かが屋敷を訪れれば、否応なく対面させられる可能性もあるぞ」

 その通りだ。下手をすれば、王家の要人が視察という名目で屋敷を訪ねてきて、自分を見つけることになる。そのとき事情を問いただされれば、領主代行は自分を“勝手に保護していた”とでも言うのだろうか。そうなれば、もう自由は完全に奪われるかもしれない。


「……じゃあ、どうすればいいの? ここから抜け出せるような状況じゃないわ。屋敷の兵士は多いし、外には王家の護衛もいるかもしれない」

「簡単ではないが、手段はある。――夜中にひそかに抜け出すのさ。俺が屋敷内の配置をもう少し探ってみる。もし抜け出すなら、宿に戻った方がまだ安全だろう。あそこにはおまえを守ってくれる仲間がいる」

 アルタリアは思わず頷きかけて、しかし逡巡する。すでに領主代行に“数日間の滞在”を約束してしまった手前、勝手に姿を消せば、結局は宿へ危険が及ぶかもしれない。あの男が激怒して、宿に嫌がらせをする可能性も否定できない。

「でも、そうしたら領主代行は黙っていないわ。わたしを匿っている宿を責めるかもしれない……」

 そう言うアルタリアに、レオナードは眉根を寄せて思案する。

「その点については、いずれにせよ領主代行の思うままにされるのは危険だ。放っておけば、おまえを“恩情”という形で王家に差し出すかもしれない。それが一番面倒だろう?」

「確かに……」


 王家に引き渡されれば、もう選択の余地はない。追放という事実も、伯爵家との関係も、すべて公にされ、下手をすれば国家反逆のような罪を着せられる可能性すらある。たとえ実際に罪に問われなくても、かつての屈辱よりさらに重い扱いを受ける恐れは十分に考えられた。

「わかった。じゃあ、できるだけ早くここを出ましょう。でも、方法は……」

 アルタリアが言いかけたとき、廊下から微かな足音が聞こえた。レオナードは反射的に部屋の灯りを消し、彼女に耳打ちする。

「俺はこのまま隠れる。外まで通じる通路は確認した。いずれまた来るから、今は静かにしていてくれ」

 そう言うや否や、彼は物音を立てずに素早くクローゼットの陰へ身を潜ませる。アルタリアは胸を押さえ、震える息を整えた。


 やがて扉の向こうで「巡回中だ、失礼する」と兵士の声が響き、ノブが回される。アルタリアは慌ててベッドに腰掛け直し、さも眠りから起きたかのように振る舞う。

「夜分にすみません、様子を確認しております。何か変わったことは?」

「いえ、何も……。眠っていましたので」

 兵士はろうそくの灯りをかざし、部屋の奥を軽く見回す。暗闇の中にレオナードが隠れているとは露ほども思っていないのか、疑う様子はあまりなかった。

「失礼しました。では、お休みください」

 兵士が立ち去ったのを確認し、アルタリアはほっと胸を撫で下ろす。しばらくしてレオナードがクローゼットから静かに顔を出した。

「危ないところだったな。……とりあえず今夜はこれ以上は無理だ。周囲が警戒している。明日か明後日、機会を見て外へ連れ出そう。道順や見張りの配置は、俺がこのまま探る。いいな?」

 アルタリアは頷くしかなかった。背徳感や恐怖は大きいが、ここを抜け出すならレオナードを頼るほかない。

「……ごめんなさい、こんな危険なことに巻き込んで」

「謝る必要はない。俺がやりたいからやっているまでだ。それに――おまえをこのまま放っておいたら、俺自身が後悔する。追放されたってのに、こんなに必死に生きようとしてる奴を、王族や貴族の都合で潰させてたまるか」

 小声ながら、彼の言葉には強い熱があった。アルタリアの胸もまた、それに応えるように高鳴る。彼は仲間として手を差し伸べてくれている。もしかすると、それ以上の想いが混じっているようにも感じられた。


 そうして二人は最小限の言葉で打ち合わせをし、レオナードは夜の闇にまぎれて部屋を後にした。静寂が戻った室内で、アルタリアはため息まじりに窓の外を見やる。屋敷の敷地内を警備する火の灯りが揺れ、闇夜が不穏な陰影を落としていた。

(また助けてもらってる……でも、今はこの道しかない。私は、ここに閉じ込められて終わりたくない)

 自分の手で運命を切り開きたい――そんな思いが、今やアルタリアの心を強く占めている。もしこのまま王子や聖女が来ても、もう翻弄されるだけの弱い存在ではない。

 外には危険が待ち受けているとわかっていても、前に踏み出さなくてはならないのだ。大通りの宿に戻り、マルコやエルダ、仲間たちと再会し、そしてレオナードにもきちんと“ありがとう”を伝えるためにも。


 夜は深く、息苦しいほどの緊張が張り詰めていた。しかし、アルタリアの中には少しだけ確かな光が芽生えている。いつか彼らとともに笑って過ごせる未来を、勝ち取るために――いよいよ運命が大きく動き出そうとしていた。



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