頼みの綱の帝国艦隊が撤退し、見捨てられた聖王国の艦隊が士気を打ち砕かれて敗走するのはあっという間であった。
いや、敗走というのは正確には違う。海の上で逃げ場のない聖王国の艦隊は敗走すらできない。
もはや、無秩序に逃げ回る聖王国の軍船は一方的に砲撃されて、次々に瓦解していくだけだ。
戦場はもはや混乱の極みに達し、聖王国の船の上では言い争いになった将兵達の仲間割れすら起こっていた。
そんな、もはや戦争とも呼べぬ醜態が一通り終わると、すぐタダシ達のもとに降伏の使者が訪れる。
商人賢者のシンクーは猫耳をピクピクさせながら、怪訝そうな顔で大いに怪しむ。
「タダシ陛下。この乱戦なのに、手際が良すぎるニャ」
まるであらかじめ降伏を期して使者を忍ばせておいたような手際の良さだ。
「しかし、まさか降伏を受け入れないわけにもいかないだろう。警戒は必要だけどね」
「それもそうですニャ。では、降伏を受け入れるニャー」
タダシが降伏を受け入れるとの返事を送ると、白旗を上げてシンクーの港に上陸する軍船から降りてきたのは、大宰相リシューその人であった。
「リシューどうしてこんな真似をしたのですか!」
聖姫アナスタシアの悲痛な叫び。
大宰相自らが戦場の前線にいたとは、聖王国の命運をかけた戦争であるにせよ奇妙なことだ。
「これはこれは姫様、ご機嫌麗しゅう存じますぞ」
大宰相リシューは、聖姫アナスタシアの姿を見て喜悦満面で手を広げた。
その奇妙な陽気さは、まるでその場で踊りだしでもしそうなほどだ。
敗戦の指導者にあるまじき、あまりにも異様な様子にタダシ王国側はもとより、大宰相リシューの側近の兵士ですら息を呑む。
沈んだ空気を払うように、タダシが代表して声をかける。
「聖王国の大宰相リシュー。それで、何か弁明があれば聞こうか」
大宰相リシューには、この度の無益な戦争の責任を取らせなければならない。
しかし、一度は弁明の機会を与えようとタダシは考えた。
「弁明? この私がですか。アハハハッ、これは愉快。さすがは、私の策をことごとく台無しにしてくれたタダシ陛下ですな」
大宰相リシューは、面白い冗談を聞いたとばかりにあざ笑うばかり。
そのふざけた様子に、聖姫アナスタシアは怒りに震えて叫ぶ。
「リシュー貴方の起こした無益な戦によって、ここで聖王国の将兵がどれほど死んだと思っているのですか!」
「ふふ、それはもう軍船にはたっぷりと陸軍も載せておりましたからなあ。超弩級戦艦ムサシが沈んだ際の帝国軍の将兵を除くとしても、聖王国軍の被害はひい、ふう、みいと、三万とは下らぬはず」
港に流れ着いた聖王国軍の死屍累々。無残な味方の死に様を指折り数えて楽しそうに言ってのける大宰相リシューに、聖姫アナスタシアは睨みつけて言う。
「これだけの犠牲を出して、なおも貴方は笑いますか!」
「これを笑わずにはいられましょうか。タダシ王国軍に犠牲が少なかったのは残念……。だが、お前達が頑張ってくれたおかげで暗黒神ヤルダバオト様の復活の生贄にちょうど足りたわ」
「な、何を言って……」
「フフフッ、もはや隠す必要などないか」
今の今まで聖姫アナスタシアと話していたのは、確かに見知った大宰相リシューのはずだった。
しかし、そこに立っているのは、もう人と呼べる存在ではなかった。
真っ赤な目を血走らせ、その肉より暗黒の瘴気を撒き散らすそのおぞましき姿は悪魔司教とでも言うべきか。
いや、もはやそれは悪魔以上の何かか。両腕にはタダシの加護をも超える、十三個もの黒い星の加護が浮かび上がっている。
それは、聖王国を統べる大宰相リシューがその権力を使って生贄を捧げ続けて、自らの力とした結果であった。
大宰相リシューの周りにいた側近もおぞましき瘴気に巻き込まれてのたうち回って苦しみだした。
「うげぇえええ」
「そんな! リシュー様、なんで我らまで!」
死の責め苦の中で、聖王国の将兵達がどす黒い塊を嘔吐し続けている。
そのどす黒い塊は、血反吐と臓物だった。自らの血肉に埋もれて、悲鳴を上げることすらできず次々に息絶えていく。
もはや敵も味方もない。生贄が苦しめば苦しむほど、リシューの力は増大していく。
黒褐色の悪魔と化したリシューを中心に、むごたらしい地獄が顕現したのだ。
「大宰相リシュー、貴方は聖王国の中枢を担う存在でありながら、この私のみならず、聖王国を裏切って暗黒神ヤルダバオトに魂を売ったというのですか」
「さよう、しかし裏切ったとは心外。私はこれより暗黒神ヤルダバオト様の封印を解いて、この地上における新たな創造神の代行者として聖王国を世界一優れた国とするのですから」
「そんなことをさせるものですか! 天にまします地上を創りし偉大なる御方、始まりの神アリア様。どうか愚かなる私どもに、救いと光を……」
創造神アリア様に祈りを捧げ、リシューを食い止めようとした途端に、苦しげに胸を抑える聖姫アナスタシア。
そこには輝きを失い、黒褐色に染まった『封魔のペンダント』がある。
「アハハハハハハッ! この地で偽りの女神アリアの力を得たようだが、それもこのざまだ。我が足元にひれ伏せ小娘!」
「リシュー!」
「聖姫アナスタシア。この世における女神アリアの代行者となりうる貴女は、私の計画の最大の障害だった」
「一体、何を……」
「私が送って差し上げた『封魔のペンダント』の力ですよ」
「これは違う……女神アリア様の……」
「もちろんそう。だが、私は暗黒神ヤルダバオトの加護を受けたと言っただろう」
「まさか……」
「そう我が力、『
「こんなもの……」
聖姫アナスタシアがペンダントを慌てて外そうとするが、黒い瘴気に阻まれて外せない。
大宰相リシューの秘めていた最後の策、聖王国の秘宝『封魔のペンダント』は、女神アリア様の力を封印する呪いのアイテムと化していたのだ。
「そして、私が呪いを込めたこの二つ目の『封魔のペンダント』から送り込まれた力で、その神器はアリアの力を抑え込む。さしずめ『封神のペンダント』とでも名付けることにしようか」
「知恵の神ミヤ様、どうかうちにお力を! 爆ぜろニャ!
タダシ達も、それを黙って見ているわけもない。
シンクーの手から放たれた巨大な爆炎!
しかし、大宰相リシューがさっと手を掲げるだけでその炎は暗黒の瘴気に呑み込まれて消えた。
「フハハハ、素晴らしい力だ! すでに私は、地上における暗黒神ヤルダバオトの代行者となっている。こんな攻撃魔法、いくら喰らおうとも露ほどにも感じぬ!」
「弾かれるでもなく、呑み込まれたニャ!? まさかここまでとはニャー」
シンクーが、攻撃魔法を放った瞬間。
それに呼応した獣人の勇者エリンが動いて、死角から大宰相リシューに斬りかかっている。だが――
「貴様もだ犬! 汚らわしき獣人の分際で、神の代行者に触れた罪、万死に値する!」
「ボクの剣が、うぁあああ!」
なんと、大宰相リシューの手の中で最硬度を誇る魔鋼鉄の剣が、まるで飴細工のようにぐにゃりと曲がってしまう。
そして、そのままエリンの身体を引き寄せて暗黒の瘴気に呑み込もうとする大宰相リシュー。
それをタダシの振るった
「リシュー! お前はなんでこんな真似をするんだ!」
「瘴気を切り裂くか。その農民のような身なりは滑稽だが、さすがは神降ろしの王と呼ばれる男よ。だが、もうすぐこの地上に暗黒神ヤルダバオト様が復活されるのだ! その時にはもはや貴様らの命はない!」
タダシが言うより早く、「それはどうかしら!」と声が上がった。
聖姫アナスタシアに瓜二つの容姿を持つ、エルフの元女王イセリナが現れた。
宝石に彩られた樹木の王冠をかぶるイセリナに、天からキラキラとまばゆい光が降り注ぐ。
それは、創造神アリア様の力を示す神聖なる銀の輝き。
「なんだと、聖姫が二人!?」
「私は、エルフ氏族の古王エヴァリスの末なる枝葉イセリナ・エル・エヴァリス! 大宰相リシュー、貴方の好きなようにはさせません!」
大宰相リシューの放つ暗黒神ヤルダバオトの闇が、イセリナの放つ銀色の輝きに包囲されていく。
「なぜだ!
「
「まさか!
エルフと人間という種族の違いがありながら、瓜二つの相貌を持つ聖姫アナスタシアとイセリナの二人を見れば、それは一目瞭然であった。
「そのとおり! ですからアリア様は、もう一人の代行者として私をお選びになったのです!」
えっへんと大きな胸を張って、ドヤ顔するエルフの元女王イセリナ。
イセリナ、一世一代の晴れ舞台であった。
リシューは掴んでいたエリンの魔鋼鉄の剣をメリメリと握りしめて、手から血が滲み出るのも構わずに悔しげに握りつぶす。
「うぉおおおおお! 私とて、私とて聖王の血筋であったのに! 小娘ならまだしも、下賤なるエルフにまで神の代行者を任すとは! 許さんぞ、偽りの神アリアめ! ここまでこの私をコケにするか!」
「もはや、暗黒神ヤルダバオトの復活も叶わないでしょう。大人しく降伏なさい!」
「するわけがない! 暗黒神ヤルダバオト様、どうかこやつらに死の責め苦を! 我が願いに応え、我にあだなす愚か者どもをこの地上より肉の一欠片も残さず消し去り給え!」
血の涙を流しながら、大宰相リシューは身につけていた黒褐色のペンダントを掲げる。
それは多くの死者を出した海から、再び膨れ上がる猛烈なる瘴気。
タダシは、イセリナを守るように前に出て、青く輝く魔鋼鉄の鍬を掲げて叫ぶ。
「どうするつもりだ、リシュー!」
「暗黒神の復活が叶わずとも、まだ私には生贄の力がある! 与えられし暗黒の加護がある! これを見るが良い大野タダシ、地上における神の化身となったこの私はもはや止めようはないぞ!」
暗黒の瘴気が渦巻く海から、おぞましき死者の群れが上がってくるのが見えた。
暗黒神ヤルダバオトの生贄として捧げられた三万もの屍兵が、大宰相リシューに操られてシンクーの港街を襲おうとしているのだ。