俺たちがダニール谷についてから、もう丸七日が経過していた。その間、特にトラブルもなく、半分休暇のような七日間だった。
これは誰がやっても同じなのだが、今回のような国境警備というか、長期にわたる任務は、大抵やることが少ないのだ。
この七日間、毎日やる職務としては、地平線の先まで続いているダニール谷の崖っぷちを、半日かけて散歩するぐらいのもので、それ以外には何もない。
毎日同じところを巡回するというのは、退屈だし疲れるだけなのだが、見張りというのはそういう仕事なので仕方がない。
俺とレフレオ、ニーアとフレイヤの二組に分かれ、一日おきにダニール谷の散策に繰り出す。残った方は一日見張り小屋付近にて待機、もしも何かあった場合は、打ち上げ式の信号弾で連絡を取り合う手筈だった。
「今日はニーアたちの番だな」
「え、そうだっけ?」
「とぼけるな。昨日は俺とレフレオだったろうが!」
「冗談よ。じゃあそろそろ行くから、お留守番しっかりね」
「へいへい」
俺は脱力したまま手を振り、彼女らを見送る。
この何も起きない七日間のせいで、すっかり警戒心を失った俺は、気が抜けていた。しかしそれはニーアとて同じで、毎晩晩酌しているぐらいなのだから相当だろう。
「じゃあ俺はボルト樹林に行ってくるぜ」
「何をしに?」
「あの巨大ネコを捕まえに」
「おいふざけんな、仕事中だぞ?」
俺は思っても無いことを口にする。言っていることは正しいのだが、言っている本人の態度は間違っていた。
「お前がそれを言うか?」
オオトカゲ、いや、レフレオは呆れた様子で俺を見る。
「一応言うだろ? 形式上」
「形式上ということは、行っても良いんだな?」
「好きにしろ。ただ、緊急時はすぐに戻って来いよ」
「任せろ!」
レフレオは力強く宣言し、見張り小屋を出発した。
小一時間後に、ボルト樹林の方からネコの断末魔が聞こえてくるのはまた別のお話。
「そろそろ戻ってくる頃か?」
俺は見張り小屋から出てすぐの岩に腰を降ろし、空を見上げる。
ニーアたちが出発したのは朝早く。今はお昼を過ぎて、日没までのカウントダウンを始めているそんな時間。昼と夕方の狭間、そんなタイミング。見たくないものを遠方の空に見た。
信号弾だ。
明るい昼間でも目立つ、緊急性を示す赤色の信号弾は、大きな破裂音と共に宙に撃ちあがり、破裂する。
ニーアに何かあったのだ!
「レフレオーーーー!!」
俺は急いで立ち上がり、肺に空気を大量に送り込み、ボルト樹林でネコ狩りをしているレフレオの名前を叫ぶ。
そのまま返事を待たずして、全力で信号弾の打ち上げ地点へと駆け出した。
竜騎士にのみ許されたドラゴンの力を存分に使い、脚力を常人の数倍にまで高めた俺は馬並みのスピードでニーアの元へと急ぐ。
少々進んだ先で、同じく結構なスピードで走ってきたレフレオと合流し、その背中に飛び乗る。
「敵か?」
「分からないけど、何かあったんだ」
「だがアイツが助けを呼ぶか?」
「それはそうだけど……」
レフレオの指摘通り、確かにおかしい。
何かあれば信号弾を打ち上げる算段ではあったが、ニーアの強さと性格上、信号弾を打ち上げるなんてしなさそうなのだ。全部自身の力で解決しようとするはずだ。
そんな彼女が助けを求めている……。相当なことなのか、それとも何か別の目的なのかは分からないが、ここはとにかく急ぐしかない。
「とにかく急ぐぞ!」
俺はレフレオに跨ったまま、彼の腹を足で叩く。
叩かれたレフレオは速度をあげる。
目指すは救援を求める彼女の元へ!
「ニーア!」
全力で駆け抜けたレフレオの功績もあり、存外に早く駆けつけることに成功した俺は、這いつくばって崖の下を覗く彼女の名を呼ぶ。
見る限り彼女には負傷の様子もなく、何かあったようには見えないが、ニーアは俺の接近に気がついていないのか、一心不乱に崖下を眺めていた。
「どうした?」
俺はレフレオから降りて、ニーアの肩を叩く。
肩を叩かれてようやく気がついたのか、ゆっくりと顔をあげた。
「ハンス……これ、誰がやったのかな?」
そう言って再び崖下を覗き込む彼女に釣られ、俺も同じく崖下に視線を向ける。視線を向けて理解した。これは緊急事態だ。俺たちに命の危険があるとかではない。ただただ起きてはいけない事態が起きていた。
「なんだ……これは?」
崖下には、ずっと警戒していたエタンセル王国の騎兵隊、およそ十数人が血まみれになって転がっていた。遠目からなのでしっかりとは判別できないが、そのどれもが刃物で切り裂かれた様子で、明らかに人間による殺戮の後だった。
エタンセルの騎士たちから流れ出た血流が、やがて川に合流し、渓谷の隙間をおぞましい色で流れていく。
「これ、誰の仕業かな?」
ニーアは震える声で呟く。
信じられない光景だ。
この世界で人が死ぬことは、あり得なくはない。病気でも死ぬし、運悪く異形の者に遭遇した場合は殺されることだってあるだろう。
だけど剣による切り傷で人が死んでいるというのは問題だ。しかもそれが完全武装の王国騎兵隊一部隊全員とくれば、およそ普通ではない。
状況を見るに、犯人がいるとすればそれは相当な手練れだ。崖下の惨状に、エタンセルの騎士以外の死体は転がっていない。つまり、犯人が一人であろうと複数であろうと、誰一人死なずに、十数人で構成される一部隊を全滅させたことになる。
「一体、どんな手練れだ? どんな手段を用いた?」
「これは……人間の匂いがするな」
気づけばレフレオは俺の横で鼻をクンクンさせていた。
「そりゃあそうだろ?」
「違う。こいつらとお前たち以外に、近くに人の反応がある。それも一人だ」
レフレオの言葉に一瞬、血流が止まったかと錯覚した。
このオオトカゲの言うことが事実だとしたら、かなりの問題になる。国際問題という面でもそうだが、エタンセルの騎士以外の死体が転がっていない以上、そいつがたった一人で王国騎士一部隊を殺戮したことになる。
一体何者だ? そんな化け物、ここにいるニーアだって、龍技を使わないと難しい。
「レフレオ。そいつは今どこにいる?」
「剣を抜け、二人とも。もうすぐこっちに来る!」
レフレオの言葉を受けて、俺たちは急いで立ち上がり剣を抜き放った!