ナルム平原を通過し、ボルト樹林を乗り越えた俺たちの目の前には、国境としても機能するダニール谷が広がっている。
主都イザバナから人の足で半日、国境までの距離はかなり近く思われるかもしれないが、国境=すぐ隣国というわけではない。
国境でもあるダニール谷は、その険しさで有名なスポットで、あのダニール谷の悲劇の舞台でもある。そんなダニール谷なのだが、一番の特徴はその広さにあるだろう。
土地の高低差がありすぎるのと、常に強い風が吹き荒れるこの土地は、人間が住むことはおろか、生物が生息できないほど過酷な場所だ。そんなのがレフレオ共和国の二倍ほどの面積を誇っているのだから恐ろしい。隣国までこのダニール谷を越えようと思うと、丸三日はかかる。
そして今回の任務は、このダニール谷付近での警備だ。
普段は第二師団の面々が行う業務だが、今回は先日のエタンセル側とのいざこざの件があるため、それを重く見た上層部が精鋭である俺たちを派遣したというわけだ。
指令書には、ここに数日間籠って国境沿いを見守って欲しいと書いてあるだけなので、何も起こらない可能性の方が高い。というより、そうでなくては困る。
「相変わらず風が強いんだな、ここは」
お腹パンパンのレフレオは、呑気にダニール谷の渓谷を見下ろしている。
俺たちは、向こう岸までおよそ十数メートルはありそうな断崖絶壁の縁で、下を流れる大きな川を見つめていた。
「落ちんなよ。レフレオ」
「ふん。どっちがだ」
「二人ともバカみたいな言い合いしてないで、荷物を運ぶの手伝って!」
「へいへい」
さぼっていることをニーアに咎められた俺たちは、しぶしぶ荷物を見張り小屋に運び込む。
見張り小屋は流石に絶壁には作られておらず、ダニール谷の崖から五〇メートルほど内側に建てられている。もしも崖っぷちに置かれていたら、たまにくる突風に吹き飛ばされるところだ。
「あの時のエタンセルの騎士たちは、ここを馬で突破してきたのか?」
俺は荷物を積み込みながら、疑問を呈する。
実際、馬で通れるほどの幅の道はあるが、誰も落下せずに通り抜けられるとは思えない。崖に沿って作られた道も、激流で蠢く川を渡る木製の橋も、どれも数騎しか通れないほどの幅だ。とてもフル装備の騎兵隊が通ってくるとは考えにくい。
「まあでもそれしか無いんじゃない?」
「そうだよな……」
「空を飛べるなら分からないけど、飛行技術なんてほとんど無いでしょう?」
「そのほとんどない飛行技術を、エタンセルが騎兵隊の運搬に使った可能性は無くはないけど……」
「流石に無いんじゃない? 本当に戦争でも始めてしまえば分からないけど」
ニーアはそう言って最後の荷物を見張り小屋に入れ終え、近くのちょうどよさげな岩に腰を降ろす。
道中、異形の者と戦ったり、巨大ネコが出たり(レフレオが食べたが)いろいろ疲れる一日だった。
「戦争か……本当に起きると思う?」
俺はニーアの隣に腰を降ろす。
「一応、過去の歴史としては無いはずよね?」
「ああ。そのはずだ」
あくまで表向きは、そう教わってきた。我々人類は空をドラゴンに奪われ、海を異形の者に奪われた。
だから人類同士で争っている場合ではない。それに四体の偉大なドラゴンが、空と陸を隔てる結界を共同で張っている以上、そのドラゴンを軸に国を作った人類が、表立って戦争なんてするはずがない。
そう教わってきたし、そう思ってきた。
人類が今の状況に陥った理由は自爆だ。遥か昔に核戦争を起こした人類は、その放射能によって一部の鳥をドラゴンへと変質させてしまった。それによって人類は次々とドラゴンに食われ続け、その数を急激に減らしてしまった。
人間の脳を食べ続けた強きドラゴンは、やがて知能を獲得し、その中でも飛びぬけて強靭で、強大で、凶悪だったのが神話に出てくる闇のドラゴンだ。そこから先は神話と同じ。
竜騎士見習いの時の座学で教わったのはここまでだ。
だが、実際はどうだろうか?
「でも人類をここまで追い込んだのは戦争なのよね」
ニーアはしみじみと口にする。
彼女の言う通り、結局人類は争わないという選択ができない種族なのだと、歴史が証明してしまっている。
「これまでにも表立って発表していないだけで、実は戦争のようなことはあったんじゃないか? 小競り合い程度があるのは知っているわけだし、なんなら先日の俺とエタンセルの騎士たちとのいざこざなんて、思いっきり小競り合いだしな」
俺は自分の意見を口にして立ち上がる。
「どこ行くの?」
「レフレオを探してくるよ。アイツ、こっちが小難しい話をしているとすぐにどっかに消えちゃうんだから」
そう言って俺はニーアが投げ渡したランタンに明かりを灯し、ダニール谷の崖っぷち付近を捜索する。
強風に煽られて落下してしまったら笑えないので、やや内側を散策する。ランタンの明かりと、月明かりに照らされた地面をひたすら真っすぐ突き進む。
目的地は決まっている。
このまま真っすぐ進めば滝が見られる。
レフレオが好きなポイントだ。
「なにやってんだ?」
十数分歩いた先で、レフレオは村一つ飲み込んでしまいそうな巨大な滝を見上げていた。
「ハンスか……。小難しい話は終わったのか?」
「終わったよ。そろそろ戻ろうぜ。夜も更ける」
「それもそうだな」
レフレオは言葉とは裏腹にその場から動こうとはしない。
「どうした?」
「いや、なんかお前たち人類の過去の話は、あんまり好きじゃなくてな」
「なんだよ急に」
レフレオがそういう話が好きじゃないのは分かっているが、改まってどうしたのだろう?
「イザバナにいる間は、なんにも思わないんだけど、いざこういう人がいない場所に出てみると、俺はこっち側の存在なんだろうなと思うのさ」
「そっち側って、人類側じゃなくて自然側って意味か?」
「そうだ。当たり前なんだけどな、ドラゴンだし」
「いやオオトカゲだろ?」
「……。」
普段ならすぐに突っ込んでくるのに、そのまま黙ってしまった。
調子が狂うな。
たまにコイツは月を見上げたり、前回の時もそうだが滝を見上げたり、とにかく何かを見上げながら物思いにふける時がある。
「なあハンス」
「うん?」
「俺は喋れるのにどうしてドラゴンなんだろうな?」
「何をいまさら……」
心なしか、レフレオの声は沈んでいるように思えた。
「人類の過去の話で、絶対に出てくるだろ? ドラゴンが人類を食い続ける話。俺はあれがとことん嫌いなのさ。本当に……」
レフレオはそのまま滝を見上げた姿勢のまま続ける。
「俺はあの話を聞くたびに、お前たちに対して申し訳ない気持ちになるんだぜ」
レフレオは滝を見上げたまま、月を見上げたまま、まるで独白のようにそう呟いた。