この気持ちは、恋じゃない――。
神に仕える者が、愛欲を禁じられた者が、誰かを好きになる。
そんな事は、許されない。
だから彼女に恋愛感情を持ったわけではない――はずだった。
ホランド・ジャンセンは、自分にそう言い聞かせた。
けれども目の前で踊るように翻る太陽の色のドレスを目にした時からずっと、彼の胸の鼓動は辺りに響きそうなほど、脈打つのをやめなかった。
「マリーゴールド……」
思わず口をついてでた言葉に、自分で言っておきながらホランドは顔を赤らめてしまう。
「何?」
彼女は不審な顔一つせず、ミルクティー色の髪を揺らめかせた。
※※※
全ては、ホランドが見ず知らずの少女の下敷きになった事が、きっかけであった。
彼が案内役の下男とオゼンセの街を歩いていると、突如、道路横の建物の扉が吹き飛んだのである。同時に、黒髪の少女が横殴りに飛んできて、共倒れの形で彼に覆い被さったのだった。
何が起きたのか、その瞬間の彼に分かるはずもない。
「な……え? 何……?」
と呟いても、吹き飛ばされたであろう少女はその衝撃のせいかぐったりと気を失っている。
聞こえてきたのは、別の角度からの違う人間の声。
「何が
高い位置からの声に目をやると、帯剣した男二人と、左右の両腰に短剣を一本ずつ帯びた筋肉質で大柄な女性。男女三人が、こちらを見下ろしていた。
状況が呑み込めず呆然としているホランドだったが、直感的に頭をよぎった事が一つだけあった。
――今日は、生涯で二番目に最悪の日だ。
という事。
そして昔、彼の親友が言ったこんな言葉も思い出す。
人は、二種類に別けられる。
楽観的な人間か、悲観的な人間か。
この場合、まだ二〇年しか生きていないのに、人生最悪の一、二位を決めつけてしまうホランドは、紛れもなく後者であろう。
そもそも最悪などという言葉がすぐに浮かぶあたり、どう考えても彼は悲観的思考の人間であったが、ただその感想が、そこまで的外れでなくなってしまうのは、少しばかり後になって分かる事ではあった――。
「
不敬どころではない暴言を耳にして、半ば反射的に、ホランドは声をあげてしまう。
「な……何が何だかわかりませんが……」
「あぁ?」
「今の発言は聞き捨てなりませんね……」
ここは街中の往来。
どうやら少女は、この男女三人に殴られたか突き飛ばされたかされた事で、こんな風になったようであった。
周りには驚きで足を止めた人々がおり、路上には、蹴立てられた樽と砕かれたスプルース材の扉が転がっている。扉の向こうはよくある食事処で、どうやら少女はそこで働く給仕のようだった。
ようは給仕の少女が聖女について何か言ったようで、それに腹を立てて三人が暴れた、といったところらしい。無論、それが正解かどうかは不明だが。
そもそもホランドは、今日この街に到着したばかりである。
彼は己の役議のため、この街にある教会へ案内の下男と共に徒歩で向かっていただけで、その途中でいきなり吹っ飛んできた少女の下敷きになり、今に至るというわけなのだ。
ちなみにその案内役は、騒動に巻き込まれたくないと言わんばかりに、さっきから姿が見えなくなっていた。
つまり紛う事なく厄介な騒ぎに巻き込まれただけであり、こんな揉め事にホランドが首を突っ込む必然も必要も一ミリたりともなかった。だったら、巻き込まれた群衆の一人として何もしないのが一番なのだが、彼には思わず口を挟んでしまうだけの理由があった。
己の体に被さっている少女をそっとどかし、ホランドは膝を震わせながらぐらぐらと立ち上がろうとする。
不意に受けた衝撃のせいもあるが、単に相手への怖さが大きいからだろう。足がガクガクとなるのは、ようは喧嘩慣れしていないだけである。
それもそのはず。元より彼は、揉め事や争い事を嫌う穏やかな人間なのだ。
またそれだけではない。彼そのものが、争い事と対局の存在であるからだった。
「はっ、何だと思ったら司祭かよ。聖女様への暴言は許しませんってか、くだらねえ。
灰色の衣を見て分かる通り、ホランドは教会に仕える司祭である。それもかなり高位の人間だった。
この街、というかこの国を訪れた理由も司祭としての役目であり、こんな粗暴で野卑な人間に信仰を説き、薫陶を与えるためではない。
「教会への非難は、甘んじて受け容れます。けれども聖女への暴言は如何なものでしょうか」
膝以上に震える声で、ホランドは三人組へ意見をした。止せばいいのに、という声が何処からともなく聞こえてくる。
確かに無謀だった。
三人は見るからに兵隊崩れ。どうせ溢れ者の敗残兵か傭兵の成れの果てといったところだろう。
つまり倫理や道徳などとは無縁の連中。そんな人間に、神の教えを説くほど無益なものはなかった。
ホランドは司祭だが、神に仕えているからといって理想主義者ではない。
どちらかといえば、かなりの現実主義者である。
理想を掲げるのは立派だが、立派なだけで百害あって一利なしの理想論ほど無為なものはないと分かっている。
にも関わらずこんな暴漢どもに反論をしようというのは、三人が口にしたのが他ならぬ
「
足を止めた人々の中から「そうだそうだ」という賛同が聞こえてくる。
だがそれは火に油を注ぐのと同じ。三人組は余計に腹を立てたらしい。
「やかましい。アタイらの事情を知らないって言ったよな? 正にその通りさ! 聖女のせいでアタイらはどれだけの目にあったか。あんなものは呪いだ! 呪いだし、災いそのものだ。あんなアバズレどもがいるせいで、一体何百人、何千人の兵が虫ケラみたいに死んでいったと思ってんだ……!」
「それは違います。確かに大きな戦いの場となれば――」
「黙れよ。――いいか、世界中、色んな戦場を渡り歩いたがな、それこそ我が聖女こそ真実無二の奇跡である、なんて何処に行っても聞かされたさ。だが教えてやるぜクソ坊主。真の聖女なんてのはな、何処にもいやしねえ。何処の国の聖女も、どれもこれもみぃんな血塗られた戦争の道具でしかねえんだよ。聖女? 神霊の奇跡? ハッ! 笑わせる。殺しの道具が神霊の奇跡だってんなら、そいつぁ随分と血生臭い神霊様だぜ」
「聖女だけでなく神霊にまで……。地獄に落ちてもいいんですか」
「何が地獄だ。戦場こそが本物の地獄だよ。そうだクソ坊主、カビ臭ぇ教会しか知らねえ、てめえみたいなのに、この世の真実ってのを教えてやる。いいか、一番の聖女様ってのはな、てめえらの言う女の事じゃねえ。最もいと気高き聖女サマってのはな、股ぐらの具合いがいい女の事だ。そこにいましますのが俺らにとっての本当の聖女様ってワケだ。それが美女の股なら尚良し、だな」
二人の男がげらげらと笑った。
その男らの腹を女戦士が小突き、「だったらアタイは一番上等な聖女様って事になるねえ」と言って、一緒に下卑た笑声を響かせた。
あまりに下品で無礼な言葉に、思わずホランドは激昂しそうになる。
楯突いたところで腕力的なもので勝てるはずもなく、ただ一方的に殴られるのは目に見えていたが、それでも教会の司祭として――いや、ホランドという一人の人間として許せる発言ではなかった。
が、その時だった――。
「さっきから聞いてれば、災いを振り撒いてるのはあんた達じゃないの」
ホランドの背後から、鈴の音のような軽やかな声が響いてきた。