「恵まれた家庭に育ちました。だから、私はそのお返しをしたいと思っています。恵まれない人たちの力になるような仕事をしたいんです」
高校の進路指導の三者面談で、私は担任教師に述べた。三者面談と銘打ってはいるが、親は来ていない。十分ほど私と教師で待っていたが、来ないし連絡もない。私は教師に言った。
「後もつかえていますし、私はもう気持ちは固まっているし、両親ともよく話し合っているので、それをお話します」
教師は何かを言いたそうだったが、そのまま私の話を聞いてくれた。
「この学校は進学率99パーセントだけど、後悔はないかな。正直、君の成績なら、相当のレベルの大学は狙える、まあ、入試はときの運だから、絶対とは言えないけどね」
定年が近いこの教師は女子高生の間で「ダンディ」とか「紳士」とかと呼ばれ、人気が高い。私も好きな教師だった。だからこそ、落ち着いて自分の考えを素直に伝えられた。
「はい。でも私、勉強が好きではないんです。それより、人の役に立つ仕事を早く始めたい。そう、自分で決めたんです」
教師は少し黙った。何かを迷っているようだったが、次にはこう言った。
「分かりました。あなたももうすぐ成人年齢だ。自分のことは自分で決められる筈ですね。私からはあなたの意思を尊重するしかない」
こういう物言い、生徒を「あなた」と言って嫌味のないところなどが人気の秘密なのだろう。
「私は、介護の道を選びます。大学に行く必要はないかなと思いますので」
そう言って私はお辞儀をし、面談会場の小会議室を出た。
家に帰ると、母がキッチンで煙草をくゆらせていた。
「お帰り」
「ただいま」
私はなぜ三者面談に来なかったのかなどということは尋ねない。始めから、多分来ないだろうと思っていた。
「あのさ、夕飯、簡単でいいかな。レトルトだけど、ハンバーグにしようと思うの」
「ああ、何でもいいよ」
私は学校指定のカバンを四畳半の部屋に置いて、財布と買い物用の袋だけ棚から出した。これから近場のスーパーマーケットに行くつもりだ。
「あ、お母さん」
「うん?」
「今夜はお父さん、帰るかな」
途端に母は目尻を吊り上げる。
「知るかよ、そんなこと」
私は黙って玄関のドアを開けた。今日は比較的温かい日だ。いつの間にか日が伸びた。まだ西の空は明るみを残している。
「自転車、借りるね」
ドア越しに母に声をかけた。返事はない。私はアパートの階段を降りて、フェンスに立てかけてある自転車を起こした。
5分ほど走って大きくもないスーパーでハンバーグのレトルトと、玉子とほうれん草を買った。また自転車に跨って、家の方向ではなく、反対方向に向かう。日はもう落ちて、街灯が点いていたが、やがてそれもなくなり、かなり暗い住宅地の道に入る。古ぼけた団地の共同駐輪場に自転車を止め、建物の外階段を昇った。5階建てで外階段しかない団地。上り下りするのは、この団地の住民の大多数である老人たちには苦になるに違いない。途中でひどく背の低い老婆が小さなカートを抱えて降りていくのとすれ違った。
305号室。私は薄いベニヤのようなドアを叩く。呼び鈴はすでに壊れ、黄ばんだセロハンテープが上に貼られている。
「おばあちゃん、私、由香だよ」
大きな声で呼びかける。父の母親である祖母はもうかなり耳が遠く、ドアを激しく叩き、大きな声を出さなければ音が届かない。それでも5分程も待って、ようやくドアが開いた。
「ああ」
それだけを祖母は言った。
「上がるね」
そう言って私は中に入り、玄関横の台所に玉子とほうれん草を出した。
「ご飯はまだある?」
炊飯器を開けてみると少し臭うが、食べられそうなご飯が一食分はあった。なぜ年寄りは、炊飯器を保温のままに放置するのだろう。気が知れなかったが、そんなことはどうでもよかった。シンク下を開けて、サラダ油を探したが、見当たらない。
「サラダ油、切らしてた?」
尋ねても炬燵に半ばもぐっている祖母は返事をしない。私は仕方なく、フライパンでほうれん草をそのまま熱して、火が通る頃に玉子を割り入れた。ほんの5分くらいの手間だ。醤油をふり、食器棚から平らな皿を出してよそう。ご飯もお茶碗に盛って、祖母のいる炬燵のテーブルの上にのせた。
「早く食べてくれないかな」
私は小声で言う。祖母には聞こえないように。
しばらくして祖母は炬燵からはい出し、お箸をとった。私はほっとした。これで早めに家に帰れそうだ。
ようやく祖母が食べ終えると、私は食器を洗ってプラスチック製の古ぼけた水切りかごに逆さに入れた。
「じゃあ帰るね」
多分聞こえてもいないし、あまり関心もないのだろう。返事はない。私はドアを開けて外に出た。鍵くらいは自分で閉められるだろう。そのままにして外階段を降り、また自転車に跨った。少し風が出てきた。寒い。この後は家でレトルトハンバーグを解凍して母に食べさせ、自分も食べる。
何となく、死にたくなった。いや、正確ではない。死にたいのではなく、消えてなくなりたいのだ。西の空に金星が輝いている。少しだけ心が和んだ。東京の夜空でふだん見られるのは、オリオン座とシリウスと金星と火星。これだけは分かる。
17歳。進路指導の教師がいうように、もうすぐ成人年齢だ。でもそれがどうだというのだろう。私には、このやり切れない日常が続くだけだ。浮気症で滅多に帰らない父親。浮気するだけの金はあるはずだが、家には収入がない。いつも疲れた干からびた顔をして、料理もろくにしない母。何より私にとっては、両親の私への無関心が堪えていた。自分が他の家の子と違う境遇にあるのではないかと思いはじめたのは高校生になってから。県内有数の進学校に進学した。もちろん公立。でも、クラスメイトの雰囲気は明らかに中学までとは違った。最初はそれがうれしくて楽しかった。中学までは出来なかったような真面目な話ができるなかまたち。そう思っていた。でも、やがて気づく。
私立中学から来た人。親が大学教授や社長だったりする人。でも、経済的格差はまだよかった。いちばん心に衝撃を受けて辛いと初めて感じたのは、まるで友だちのように仲が良い母親との関係。
一緒に百貨店にお買い物に行って、有名なレストランで食事をして、お互いに選びっこして洋服を買う。
ああ、何と私とはかけ離れた世界が、この世にはあるのだろう。
海外に家族で旅行に行くとか、まるで私には別世界だった。
私の成績は確かによかった。一流大学も視野に入る。でも、いわゆるいい大学の親の年収をテレビのニュースで知って、進学をあきらめた。桁が著しく違うのだ。きっと、そんな場所に行ったら、今以上に惨めな思いを味わい、本当は自分でも嫌でたまらない嫉妬心に苛まれる。それを考えると二の足を踏んだ。
私は勉強が好きだ。読書も大好きだ。でも、それは大学に行かなくてもできるから。そう自分に言い聞かせた。