母と一緒にレトルトハンバーグを食べて、食器は私が洗う。母は先に寝室にこもってしまった。
私は台所のテーブルの上で教科書を広げる。たとえ受験はしないにしても、好成績はキープしたいという意地があった。そうでないと、ただの落ちこぼれだ。
台所の照明は暗くて、目が疲れる。そろそろ眼鏡がないと苦しい。もともと裸眼の視力はよかった方なのだけど。
父のことをふと思いやる。酒も飲まずギャンブルもせず、私が子供の頃はかわいがってもらった。父が好きだった。一緒に遊んだ思い出は今もよく覚えている。公園で一緒にバドミントンをした思い出。子供の私は父に勝ちたくて必死だった。父はときどきわざと羽を落とした。そのことに気がつくと私は大声で泣いた。父は私を抱いて真剣に謝ってくれたっけ。あの時は父の母、私の祖母も一緒だったように思う。母はなぜかその時はいなかったように思う。
気が散った。私はまた教科書とノートに移った。
3年生ではクラス分けがある。進学コースごとに分かれるのだ。進学しない私は国立文系コースに入った。比較的仲のよかった和田茉莉は国立文系コースで同じクラスになった。華やかな感じの目立つ生徒は大体私立文系コース。クラスは急に真面目で地味な雰囲気になった。
私はこのクラスの雰囲気が好きではない。私と似通った、あまり豊かでない家の、でも真面目な生徒が多い。同族嫌悪のように私は息が詰まった。やっかみの感情と憧れの感情と。でも、思う。全クラスの中でいちばん成績がよいのは私でなければならない。そして、いちばん不遇なのも私でなければならない。そんなくだらないことにでも、すがって生きていきたいと思っていた。
休み時間も受験参考書を開く仲間たち。その中の何人かは私に質問をしにくる。教師に聞けばよいものを。それでも私は丁寧に教えてあげる。
和田茉莉が英語の問題集を持って私の机まで来た。
「あのさ、これがどうしてもよく分からないんだけど」
「ああ、この問題……」
私にはすぐ分かった。
「ちょっとひっかけ入ってるね。ほら、ここ」
和田茉莉は私の走り書きするノートをじっと見つめる。
「そうか。ありがとね」
生気のない声だった。
「どうしたの」
「私、とても国立行ける学力ないんだよね。でも、浪人なんて無理だし、私立はもっと無理……」
言いかけて口をつぐむ。
「ああ、私のことなら気にしないで。私は自分で希望して就職することにしたんだから。あのね、おばあちゃんの面倒もたまにみていて、そういうほうが性にあってるかなって」
茉莉は納得がいかない表情をしているが、そのまま自分の席に戻っていった。
私は優等生だと思う。ねじくれた優等生。誰にも甘えられないと思っているから、誰にも本心は話さない。
茉莉はいかにも冴えない感じのやや小太りの子で、だから私は彼女とつき合ってきた。彼女が大学に受かればいいし、そのために協力しようとも思っていた。
茉莉は話も平凡で、面白くはない。
私の歪んだ同情心の対象でしかなかった。
目の前にいないときは、茉莉のことは頭に浮かぶこともない。いちばん話をするというのに、印象の薄い子だった。
それなのに私は、その翌日、担任教師の話を聞いてイスから崩れ落ちそうになった。
いつもより早く担任教師が教室に入ってきた。40代ほどの英語の男性教師だ。
無表情である。
起立・礼・着席。
全員が席についているのを確かめて口を開いた。
「今日は、皆さんに悲しいことをお知らせしなければなりません。クラスメイトの和田茉莉さんが、昨夜亡くなられました」
教室中がしんと水を打ったように静まりかえった。さすがに耳ざとい人たちも、昨日の今日では知らなかったらしい。
「入浴中、持病の発作を起こして……溺死されたそうです」
微かなざわめきが起こったが、すぐに止んだ。
「以上です。今後のことについては、またあらためて皆には知らせますね」
葬儀などの話だろう。
私は全身から力が抜けた操り人形のように、かろうじてイスに引っかかっているとでもいう状態だった。意識が飛んでいて、しかしその中であの小太りの和田茉莉が湯船に沈んでいる情景だけが脳内を駆け巡った。
そのまま担任は去り、英語教師が入れ違いで入ってきた。クラスメイトたちは、無言で教科書やノートを開きはじめた。
葬儀は和田茉莉と親しかった者として、また受験も関係ない者として、私が代表に選ばれた。制服にブラシをかけて、髪を梳いて、学校指定のネイビーのコートを着て。
空は鉛色だった。葬儀には和田茉莉の親族がそれなりに集まってはいたが、寂しいものだった。やる気のあるのかないのか分からない坊さんの誦経を聞いて、他の人のまねをしながら線香を立て、手を合わせる。茉莉によく似た母親と思しき女性はやはり小太りの体に黒い着物を着ていた。隣にいるやせ形の中年の男性は父親か。
式が終わると、ご遺体を火葬場に運ぶというので、私はそこで辞した。ほんの先日に英語の問題を教えた彼女はもういない。何か実感が伴わないまま、私は学校に向かった。まだ午後の授業には役立つはずだった。
私が教室に戻ると、会話がぴたりと止んだ。私のことというより、和田茉莉についての噂話をしていたのだということはすぐに分かった。中には目を泣きはらしている子もいたが、私は信じなかった。明日になればもう忘れているに決まっている。やたらと感じやすい人間は信用しないことにしている。
一人が恐る恐る私に尋ねた。
「どうだった? お葬式」
「どうって、ふつうだったよ」
相手は少し逡巡してから、
「あの、さ。本当に事故なのかな」
と切り出した。私は驚いて顔を上げた。
「悪いけど、もしかして自殺なんじゃないかって、そういう話にもなってて」
私はきっぱりと言った。
「それはないと思う。死顔はとてもきれいだったよ」
釈然としない顔つきをしたクラスメイトを振り切るように、私は自分の席についた。そのうち皆三々五々、自分の席に戻っていった。
本当は死顔は見ていない。死に化粧をしても見られないくらいの顔になっていたのかもしれない。自殺だってありうる。でも私はこの話題に深入りはしたくなかったのだ。