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第3話

 帰宅するとまた母が台所で煙草を吸い、缶酎ハイのロング缶を空けていた。和田茉莉のことなど、母には話していないから知らないはずだ。和田茉莉のことも、今日の葬儀のことも母に話す気はなかった。

「お母さん、今夜は何か食べたいものはある?」

「別に。適当でいいよ」

 せめて食べたいものを言ってくれたら、どんなに私の気分はよくなるだろう。同じようにカバンを四畳半に置き、買い物袋を戸棚から出す。

 そのまま玄関を出ようとすると、ふいに母が声をかけてきた。

「あんた、山田のおばあさんのところにも行ってるの」

 山田のおばあさんとは父の母のことだ。母は「おばあちゃん」とも「お義母さん」とも言わず、自分も「山田」姓のくせに「山田のおばあさん」と呼ぶ。

「うん。だいぶ耳が遠くなってて、動くのも億劫そうだし。ついでだから夕飯は買っていってあげてる」

「ふうん、あんたも目ざといね」

 棘のある言い方に身体が震えた。

「あのおばあさん、あんなところに住んでるけど、お金はたんまり持ってるんだよ。旦那の保険金がたんまりでね。いずれは老人ホームに入る資金にしようと思ってるんだろ。そんなことより、息子が家にお金も入れないのを責任取って補填してほしいよね」

「そうなんだ」

 それだけ答えて外に出た。

 また夕闇の中を自転車に乗りながら、母の意外な言葉を反芻した。確か父の父、私の祖父はそれなりの大手に勤めていた。死亡退職金も少なくなかったというし、多額の保険金が残されていたというのは初耳だった。

 「目ざといね」

 母の言葉が私を針のように刺す。私はそんなつもりで祖母のところに通っているわけではない。

 スーパーに立ち寄って、母と食べるための食材を買い、さらに祖母のために焼き魚の総菜とジャガイモを買った。サラダ油が切れていたっけ。それも買い物かごに入れた。

 いつものように祖母の部屋のドアを叩き、「おばあちゃん」と声を張り上げる。そして今日は案外早くドアは開かれた。

「また来たのか」

 祖母はそれだけを言った。私は「こんばんは」と答える。どうせ耳の遠い祖母には聞こえない。

 黙って台所に立ち、ジャガイモを茹で始めた。確か冷蔵庫に残っていた玉ねぎやハムの残りでポテトサラダにしようと思った。ああ、玉子を買ってきてゆで卵にすればもう少し豪華になったかな。今度はそうしよう。

 ポテトサラダを作ると、電子レンジで焼き魚の総菜を温めた。

 ご飯は相変らず炊飯器に残っていたので、それを茶碗に盛る。

 祖母がはんぶん潜っている炬燵のテーブルに並べ、箸をおいた。

「あんた、父さんはどうしてる」

 珍しく祖母が尋ねた。言うまでもなく、祖母の息子、私の父だ。

「会社に行ってるよ」

 私は嘘を吐く。

「あれも少しはまともになってくれたらね」

 私の言うことなど聞いていないように祖母が言う。いや、実際に聞こえていないのかも知れない。

 帰りがけ、珍しく祖母が玄関前まで送りに来た。

「明日も来るかい。いいものを上げようと思ってるんだ」

 その時私の頭に浮かんだのは、はしたないが、母の言っていた祖母の財産のことだった。「いいもの」、それは私にとっては咽喉から手が出るほどに欲しいお金。

 私は薄く微笑んで外に出た。

 先日の全国模試の結果が校内に張り出されていた。私は進学もしないくせに意地でも受けた。就活生は免除もされるが、それでも入社試験などもあるので受けられる。

 やっぱり私は校内いちばんで、全国レベルでも1000番以内に入っていた。自分でも皮肉な笑いがもれる。こんなことでしか自己証明ができない自分への憐れみもこもった笑いだ。

 省けばいいものを、和田茉莉の成績まで貼り出されていた。校内の最低水準。それを指さして何かを噂している生徒たちがいる。

「やっぱり自殺かな」

「死んでからこんなの出されるの、惨めだよね」

 まだ高校生の17歳だが、世間はとても残酷であると感じる。

 休み時間、皆はちらほら志望校の赤本を持ってきて、これ見よがしに机の上に置いている。国立文系コースなのに、私大の有名どころの赤本を置いている人もいる。すでに数学や理科を放棄しつつある人たちだ。

 私は公務員試験の問題集を出した。介護職にはあまり学科試験はないけれど、公務員試験も同時に受けようと思っていた。高卒では選択肢はとても少ないから。

 でも、あまり集中できない。

 もし、もしも祖母の財産が少しでも手に入るならば、私は東京の大学に行ける。いちばん懸念していた経済格差も埋められるに違いない。この妬ましい感情を自分から取り除くことも可能かもしれない。

 何と光に満ちた世界なのだろう。

 私はまた大きくもないスーパーマーケットで食材を買う。祖母を訪ねるのに、こんなに緊張したことはない。とらぬ狸の皮算用。必死に自分に言い聞かせつつ。

 また数分待って祖母の家の玄関が開いた。何かよい匂いがする。懐かしい匂い。台所に、大きなタケノコが2本置いてあった。

「ほれ、あんたの好きなもの、上げるよ。近所に竹林があるだろ。あそこの爺さんに餞別だってもらったんだ。あんたに上げる」

 祖母は2つのタケノコを私に押しつけた。

「好きだったろ、陽子は」

「あたしもね、もう老人ホームに入ることにしたよ。何、金ならまあまああるからね」

 そう言って祖母はここ数年見せたこともないにかっとした笑いをした。

 私は「ありがとう、おばあちゃん」と言って、また祖母の食事を用意し、早めに祖母の家を後にした。

 自転車のかごには2個の立派なタケノコ。それが自転車のはずみで動くのを見ながら、私は大泣きにないた。お金よりも何よりも、卑しい期待をした自分に無性に腹が立った。本当にそれだけだったのだ。

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