柱の陰からこちらを窺っていた、あの緊張と好奇心の入り混じった眼差し。震える手でビラを差し出してくれた時の、か細い声と赤くなった耳。そして、僕が礼を言った瞬間の、驚いたような小さな悲鳴。
何か、僕たちに伝えたいことがあったんじゃないだろうか。あるいは、よろず相談部に、少しでも興味を持ってくれたんだろうか。
もしそうなら、あと二人必要な部員の、貴重な一人になってくれるかもしれない。でも……。
「はぁ……」
放課後の部室。窓の外を眺めながら、僕は無意識に溜息をついていた。
どうやって声をかければいいんだろう。小鳥遊さんは極度の人見知りだ。僕が不用意に話しかけたら、また怯えさせてしまうかもしれない。かといって、このまま何もしなければ、せっかくの繋がりが消えてしまう気もする。
「悠人、また溜息ついてる。小鳥遊さんのこと考えてるんでしょ?」
呆れたような、でもどこか楽しそうな声で、
「まあ……うん。どうしたらいいかなって」
「んー、難しいよねぇ。あの子、本当に喋らないもんね、クラスでも」
「そうだね……」
「悠人くんが気になるなら、私が捕まえてこようか?」
いつの間にか隣に来ていた
「いや、そういうわけには……」
「なーんだ。でも、悠人くんがあんまり他の女の子のことばっかり気にしてると、私、やきもち妬いちゃうかも」
甘粕さんは、僕の顔を下から覗き込むようにして、唇を尖らせる。その仕草は可愛いんだけど、目が全然笑っていない気がするのは、僕の気のせい……だよな?
「やきもちって……」
「ほらほら、陽菜ちゃんも悠人を困らせないの。それより、何か依頼は来てないの? 目安箱とか」
紬が、ナイスタイミングで話題を変えてくれた。
僕は部室のドアに設置された古びた木製の目安箱に目をやる。最後に確認したのは昨日だけど、まあ、期待は薄いだろう。
「見てくるよ」
席を立ち、目安箱に手をかける。ギィ、と小さな音を立てて蓋が開いた。
中は……空っぽ。やっぱりか。
そう思って蓋を閉めようとした時、箱の底に、一枚の紙切れが落ちているのに気がついた。折り畳まれた、小さなメモ用紙だ。
「あれ? 何か入ってる」
「え、ほんと!?」
紬と甘粕さんも興味津々といった様子で近づいてくる。
僕は慎重にそのメモ用紙を取り出し、ゆっくりと開いた。そこには、震えるような、それでいて丁寧な文字で、こう書かれていた。
『あの……部室、見学しても……いいですか……?』
差出人の名前はない。でも、この特徴的な、少し自信なさげな文字には、見覚えがあった。確か、クラスで回ってきたプリントか何かで……。
「これって……」
「小鳥遊さん、かな?」
紬も同じことを思ったらしい。
見学したい、か。これは、大きな一歩じゃないか?
「ど、どうしよう……返事、書いた方がいいのかな?」
「そうだね! 『いつでもどうぞ!』って書いとこうよ!」
「うん、それがいいかも!」
僕たちがそう話していると。
コンコン、と控えめなノックの音が、部室のドアから聞こえた。三人で顔を見合わせる。まさか……。
「は、はい! どうぞ!」
僕が少し上擦った声で応じると、ドアがゆっくりと、本当にゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、やっぱり小鳥遊さんだった。俯いて、両手で何かを胸に抱きしめている。
今日は眼鏡をかけていない。そのせいか、いつもより少しだけ幼く見える。……そして、隠されていた大きな瞳が、不安げに揺れているのが分かった。
「あ、あの……さっきの、メモ……」
消え入りそうな声で、彼女が言う。
「うん、見たよ。見学、したいんだよね?」
僕が努めて優しく言うと、彼女はこくりと小さく頷いた。長い前髪がさらりと揺れる。
「ど、どうぞ! 入って入って! まあ、こんなボロいとこだけど!」
紬が、持ち前の明るさで彼女を招き入れる。小鳥遊さんは、びくりと肩を震わせたものの、おずおずと一歩、部室の中に足を踏み入れた。
「わぁ……あなたが、小鳥遊さん? よろしくね! 私、甘粕陽菜!」
甘粕さんが人懐っこい笑顔で挨拶する。小鳥遊さんは、また少し後ずさりそうになったけど、なんとかその場に留まっている。
「えっと……ここが、よろず相談部だよ。普段は、まあ、こんな感じで……」
改めて室内を見回しながら説明しようとすると、小鳥遊さんが胸に抱えていたものが目に入った。それは、少し使い込まれたスケッチブックだった。
「小鳥遊さん、絵を描くの?」
僕が尋ねると、彼女は驚いたように顔を上げた。大きな瞳が、僕をまっすぐに見つめている。
「あ……う、ん……す、少しだけ……」
「へぇ、すごい! 見てみたいな」
何の気なしにそう言うと、彼女の顔が、みるみるうちに赤くなっていくのが分かった。
「え、あ、で、でも……そ、そんな、上手じゃない、し……」
慌ててスケッチブックを隠そうとする小鳥遊さん。その仕草が、なんだか小動物みたいで、微笑ましく思えた。
無理に見せてもらうのは良くないな、と思い直し、「そっか。もし気が向いたら、いつか見せてほしいな」とだけ付け加える。
すると、彼女は少しだけ驚いたような顔をして、それから……ほんの少しだけ、嬉しそうに俯いたように見えた。
他の人は気づかないかもしれない、些細な変化。でも、僕には、彼女の心が少しだけ開いたような、そんな温かい感覚が伝わってきた。
この子は、自分の好きなもの、大切なものを、誰かに分かってほしいのかもしれない。そして、それを馬鹿にしたり、否定したりしない相手を、探しているのかもしれない。
「あの、小鳥遊さん。もし、迷惑じゃなかったら……この部、入らないかな?」
できるだけ優しい声で、そう尋ねてみた。
彼女の大きな瞳が、また不安そうに揺れる。答えは、まだすぐには出せないだろう。
それでも、彼女が今日、ここに来てくれた小さな勇気が、何かに繋がればいい。そう、心から思った。