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「タッチ ──すり抜けた手──」
「タッチ ──すり抜けた手──」
ひより那
現実世界スポーツ
2025年05月28日
公開日
2.3万字
完結済
甲子園地区予選決勝の日、不慮の事故で命を落とした青葉学院高校1年生エース・上杉奏多。彼が次に目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋で、体は同じクラスの陰キャな野球オタク・来栖悠人のものに入れ替わっていた。  自身の死とチームの敗戦という絶望的な現実を突きつけられた奏多は、悠人の部屋で一冊の「野球理論ノート」を発見する。その緻密な理論と奏多の経験が融合し、悠人の体は驚異的な野球の才能を開花させ始める。 ※この小説は、ノベルアッププラスのスポーツフェアコンテストに掲載したものと同内容になります。

===001===

第1話 失われた夏

 じりじりとアスファルトを焼く太陽。むせ返るような蝉時雨。そして、スタンドを埋め尽くす大歓声。

 俺、上杉奏多うえすぎかなたは、マウンドへ向かうはずだった。甲子園への切符を賭けた地区予選決勝のマウンドへ。最後の夏、最高の仲間たちと、最高の舞台へ……。


 そう、向かっていたはずなんだ。あの、眩いヘッドライトが視界を白く染め上げるまでは……。


……ん。


 重い瞼をこじ開けると見慣れない天井が目に飛び込んできた。

 薄暗い六畳ほどの部屋。壁には野球選手のポスターが何枚も貼られ、本棚には野球雑誌やスコアブックがぎっしりと詰まっている。俺の部屋じゃない。そもそも、なんで俺はこんなところに……。


 体を起こそうとして、違和感に気づいた。


 ……軽い。まるで自分の体じゃないみたいに異常に軽い。いつも鍛え上げているはずの筋肉の重みが、どこにも感じられない。細く、頼りない腕。


「……なんだよ、これ……」


 掠れた声が自分の口から漏れた。それも、俺の声じゃない。少し高くて、弱々しい、聞き覚えのない声だ。

 混乱しながら部屋を見渡すと、机の上に置かれたテレビが目に入った。画面には、見慣れた球場が映し出されている。


 ――『さあ、まもなく試合開始です! 高校野球選手権、埼玉大会決勝! 青葉学院あおばがくいん帝都実業ていとじつぎょうの一戦をお送りします!』


 アナウンサーの明るい声が部屋に響く。しかし、続けて彼の口から信じられない言葉が飛び出した。


 ――『しかし、心配な情報が入ってきています! 青葉学院あおばがくいんのエース、上杉奏多うえすぎかなた投手が、いまだ球場に到着していない模様です! 関係者によりますと、現在連絡も取れない状況とのこと……』


……は?


 俺が、到着してない? 何を言ってるんだ、このアナウンサーは。俺はここに……いや、ここはどこだ? そして、この体は……誰なんだ?


 頭が真っ白になる。テレビ画面には、必死の形相でウォーミングアップをするチームメイトたちの姿。そして、マウンドへ向かう見慣れた背番号「10」……二番手の高木青空たかぎそら


「……青空そら


 無意識に彼の名前を呟いていた。

 落ち着け、落ち着くんだ。何がどうなっているのか、全く分からない。でも、今は……試合を見届けなければ。


 机の上に置かれた学生証。「来栖悠人くるすゆうと 青葉学院高等部一年」。


 ……来栖悠人? 野球オタクで、クラスでも目立たない、あの……。

 そうだ、悠人は俺と同じクラスだが……俺とはほとんど話したこともない、存在感の薄いやつだ。


 試合は、波乱の幕開けとなった。

 初回、青空そらは帝都実業の強力打線に捕まり、いきなり2点を失う。スタンドの応援も、どこか元気が無いように聞こえる。俺がいないだけで、こんなにもチームの雰囲気が変わってしまうのか……。


 青葉学院も必死に反撃し、3回裏に1点を返すが、5回表、帝都実業に追加点を許し、スコアは3-1。重苦しい空気が、画面越しにも伝わってくる。


 ――『5回を終了し、3対1、帝都実業が2点をリードしています。青葉学院、エース上杉君の不在が大きく響いているでしょうか……』


 アナウンサーの言葉が、胸に突き刺さる。


 その時だった。テレビ画面が、突然、緊急ニュースの速報テロップに切り替わったのは。


 ――『臨時ニュースです。本日午前、 高校野球選手権、埼玉大会決勝に向かっていた青葉学院のエース、上杉奏多さんが、都内の交差点でトラックにはねられる事故に遭い、先ほど、搬送先の病院で死亡が確認されました。繰り返します……』


 ………………は? 嘘だろ……? 俺が……死んだ……?


 頭が真っ白になる。耳鳴りが酷い。目の前がぐにゃりと歪む。

 事故の記憶……小さな女の子……俺は、あの子を助けて……。だから、俺は……。


 信じられない。信じたくない。でも、テレビの中のアナウンサーは、淡々と、俺の死を報じ続けている。


 涙が溢れてきた。この悠人とかいうやつの目から。


 混乱は球場にも広がっていた。青葉学院の選手たちはベンチで泣き崩れている。青空もマウンドで呆然と立ち尽くしている。スタンドからは悲鳴と嗚咽が聞こえてくる。


 それでも……試合は止まらない。非情にも、再開のサイレンが鳴り響く。


 両チームの選手たちは、どんな思いでプレーを続けているのだろうか。俺には、もう、それを見ていることしかできない。この、借り物の体で。


 試合は、その後、両チームとも追加点を奪えず、重苦しい雰囲気のまま進んだ。

 そして、迎えた最終回。9回裏、青葉学院の最後の攻撃。スコアは3-1のまま。

 ツーアウト、ランナー一、二塁。一打同点の場面。バッターは、キャプテンの佐伯さえき先輩。


 スタンドの応援団が、声を振り絞って校歌を歌っている。涙声で。


 ――『佐伯君、この場面、亡きエース上杉君に、勝利を捧げることができるか!』


 頼む……打ってくれ……!


 カキィン! 打球は、三遊間を鋭く破るヒット!

 セカンドランナーが還り、3-2!

 ファーストランナーも三塁を蹴ってホームへ突っ込む! クロスプレー!


 ――『……アウトーーーッ!!』


 無情なコール。ゲームセット。


 3-2。青葉学院は、敗れた。

 俺たちの、最後の夏は……終わった。


 テレビ画面には、グラウンドにうずくまり、号泣する仲間たちの姿。監督も、コーチも……俺は、もう、あそこにはいない。


 俺は死んだ。そして、なぜか、この来栖悠人という、見ず知らずの……いや、同じクラスの、ほとんど話したこともない少年の体の中にいる。


 これから、どうすればいい……? 窓の外は、いつの間にか、血のような夕焼けに染まっていた。


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