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第2話 姉と設計図

 どれくらいの時間が過ぎたのか分からなかった。

 テレビの音だけが来栖悠人の部屋に虚しく響いている。俺は、床に座り込んだまま、動けなかった。

 自分の死。チームの敗北。そして、この訳の分からない借り物の体。絶望という言葉ですら、生温い。


 ふと、脳裏にあの瞬間の光景が焼き付いたように蘇る。


 横断歩道。けたたましいブレーキ音。小さな女の子の恐怖に歪んだ顔。ボールを追いかけて道路に飛び出したんだ……俺は、咄嗟にその子を突き飛ばして……トラックの白いライトが、目の前で爆ぜた。


「……そうか……俺は……あの子を、助けて……」


 自分の最期を思い出したことで、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。

 無駄死にじゃなかった、と。でも、だからといって、この状況が好転するわけじゃない。なぜ俺が、よりにもよってクラスメイトの、あの来栖悠人の中に……?


 コンコン、と控えめなノックの音。


「悠人? 大丈夫? 夕飯、できてるけど……」


 ドアの向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた、でもどこか芯の強さを感じさせる声。この家の長女、来栖綾音くるすあやねさんだ。


 ……来栖綾音。その名前を知らない高校球児はいない。彼女は、スポーツ超名門校、鳳仙ほうせん|女子学園女子野球部の2年生にしてキャプテン。去年、1年生ながらチームを全国大会優勝に導いた立役者として、スポーツニュースでも特集されたほどの有名人だ。

 俺も、彼女のピッチングやリーダーシップをテレビで見て、同年代のトップアスリートとして密かに憧れに近い感情を抱いていた。……まさか、その彼女が、俺の……いや、この来栖悠人の姉だなんて、まだ信じられない。


「……うん、今、行く……」


 俺は、できるだけ悠人っぽく、か細い声で答えた。

 リビングへ行くと、中学二年生の妹、来栖小春くるすこはる|がスマホをいじりながら、俺を見てニヤついた。


「お兄ちゃん、また部屋に引きこもってたの? 青葉学院の試合、負けちゃったからって、いつまで落ち込んでるわけ? 上杉先輩が死んじゃったのは残念だけどさー」


 こいつ……。まあ、仕方ない。俺はもう、「上杉奏多」じゃないんだから。


「……別に、落ち込んでないよ」


 俺がそう言うと、キッチンから出てきた綾音さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「小春、余計なことを言うんじゃないの。ねぇ悠人、本当に大丈夫? 顔色が良くないわよ。食欲もないみたいだし……。上杉君のこと、同じクラスだったから、ショックが大きいのは分かるけど……」


 その真っ直ぐな瞳に、ドクリと心臓が跳ねる。憧れの人が、俺を心配してくれている……この、来栖悠人の体を。


「……うん、まあ……ちょっとね」


 嘘は、言っていない。


 悠人の部屋に戻り改めて部屋の中を見渡した。綾音さんの言う通り野球関連の本やグッズで足の踏み場もない。

 何か手がかりはないのか。俺がここに来た理由。悠人は、一体どんなやつだったんだ……。

 ベッドの下の段ボール箱。中には、古びたアルバムや、使い込まれたグローブ。そして、一冊の分厚いノートがあった。


 表紙には、几帳面な文字。


「究極の投球術 ~凡才が天才を超えるための設計図~ Ver.2.5 来栖悠人」


 ……なんだ、これ。


 期待せずにページをめくった俺は、次の瞬間、言葉を失った。

 そこにびっしりと書き込まれていたのは、俺の想像を遥かに超える、緻密で、高度な野球理論だった。物理学、運動力学、生体力学に基づいた詳細な投球フォームの分析。筋肉の効率的な使い方。変化球のメカニズム。さらには、配球論やメンタルトレーニング法まで……。


 走り書きのような文字と自作らしき図解。それは、ただの野球オタクの妄想なんかじゃなかった。本気で野球と向き合い、練り上げられた、血と汗の結晶。


 ノートの最後のページに、小さな文字で走り書きがあった。「――綾音姉ちゃんへ。少しでも参考になれば嬉しい。ユウト」


 ……え? あの来栖綾音が……このノートを……?


 そういえば、以前テレビで見た彼女のピッチングフォーム……どこか独特で、でも恐ろしく合理的だと思った記憶がある。あれは、もしかして……。

 俺の中で、何かが音を立てて繋がった。来栖悠人……こいつ、ただのオタクじゃなかったんだ。そして、あの綾音さんが、弟のこの理論を参考にしていた……?


「……すげぇ……」


 俺は、このノートの持つ本当の価値に今更ながら気づかされた。特に、「非力な肉体でも、効率的な体の連動と重心移動によって、鋭い回転のボールを生み出す投球術」という項目。今の俺……いや、この悠人の貧弱な肉体にとって、それはまさに天啓だった。


 上杉奏多としての俺は1年生エースだった。だが、それは決して圧倒的な才能に恵まれていたわけじゃない。投手力で言えば、せいぜいC++、贔屓目に見てもBクラス。それが、このノートの理論を実践できれば……?

 俺は、いてもたってもいられず、ノートと、部屋の隅にあった古びたボールを掴んで、近所の公園の壁に向かった。


 ノートに書かれた指示通り、体の軸、肩甲骨、股関節、腕の振り、指先の感覚……一つ一つ確認しながら、ボールを投げる。


 最初は、やはりダメだった。ボールは力なく、あらぬ方向へ。悠人の体は俺のイメージ通りには動いてくれない。だが、諦めずに投げ続けるうちに、何かが変わった。


 ――パァン! 乾いた音が壁に響く。投げたボールは、鋭くホップし、壁の一点に突き刺さっていた。


「……嘘だろ……」


 今のボールは……かつての俺よりも……速い……? いや、キレが、回転が、まるで違う!

 悠人の緻密な理論と、俺の投手としての魂と経験が、このひ弱な体の中で、奇跡的な化学反応を起こし始めている……!


 A++……いや、それ以上の可能性を、俺はこの体に感じていた。


「来栖悠人……お前、一体……何者だったんだ……?」


 それからの俺は何かに取り憑かれたように練習に没頭した。学校が終わると真っ直ぐ家に帰り、ノートを読み込み、日が暮れるまで一人で壁当てを繰り返す。

 そんな俺の変化に、最初に気づいたのは、やはり綾音さんだった。


「悠人、最近、何か雰囲気変わったわね。……そのノート、また読んでるの?」


 ある晩、彼女は俺の部屋に入ってきて、そう尋ねた。その手には、彼女自身の練習メニューが書かれたノートがあった。そのノートにも、悠人の字で書かれたメモがいくつか挟まっているのが見えた。


「……姉ちゃんも、これ、参考にしてるの?」

「ええ、まあね。悠人の理論は、ハッとさせられることが多いから。……でも、まさかあなたが本気で野球を始めるなんて、思ってもみなかったわ」


 彼女は、少し驚いたように、そしてどこか面白そうに俺の顔を見た。その瞳の奥に、鋭い光が宿っているのを見逃さなかった。

 憧れの人が弟の才能を認め、そして今の俺の変化に興味を持っている。その事実は、俺の胸を熱くした。


 妹の小春は、相変わらず俺をからかってくる。


「お兄ちゃん、急に野球選手にでもなったつもり? でも、前よりちょっとだけカッコよくなったかもねー!」


 幼馴染の橘莉子たちばなりこも公園で練習している俺を見つけると、呆れたように声をかけてくる。


「あんた、本当にユウト? なんか、人が変わったみたいじゃん。……まあ、引きこもってるよりは、マシだけどさ」


 憎まれ口を叩きながらも、時折、スポーツドリンクを差し入れてくれるあたり、根は優しいやつなんだろう。


 そんなある日の夕暮れ。いつものように公園で壁当てをしていると、不意に背後から声がかかった。


「あの……来栖君、だよね?」


 振り返ると、そこに立っていたのは、上杉美波うえすぎみなみだった。奏多の……双子の妹。


「……ああ、上杉さん」


 俺は、咄嗟にそう呼びかけ、心臓が早鐘を打つのを感じた。まさか彼女から話しかけられるなんて。


「練習、熱心だね。……ここ、昔よく兄とキャッチボールした場所なの。なんだか、思い出して……」


 美波は、そう言って寂しそうに微笑んだ。その笑顔が、兄である俺の記憶の中の彼女と重なり、胸が締め付けられる。


「……そう、なんだ」

「来栖君も、野球好きなんだね。クラスでは物静かだから、少し意外だった」


 彼女は、俺が投げているボールと、壁にできた無数の跡を交互に見ている。


「……まあ、最近始めたばっかりだから」


 俺は、できるだけ悠人らしく、ぶっきらぼうに答えた。


「そっか……。ごめんね、練習の邪魔しちゃって」


 美波はそう言うと、軽く会釈して公園を去ろうとした。その小さな背中を見つめながら、俺は何も言えなかった。


 俺は、再び壁に向き直り、ボールを投げ込んだ。夕焼けが、公園全体をオレンジ色に染めていた。



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