どれくらいの時間が過ぎたのか分からなかった。
テレビの音だけが来栖悠人の部屋に虚しく響いている。俺は、床に座り込んだまま、動けなかった。
自分の死。チームの敗北。そして、この訳の分からない借り物の体。絶望という言葉ですら、生温い。
ふと、脳裏にあの瞬間の光景が焼き付いたように蘇る。
横断歩道。けたたましいブレーキ音。小さな女の子の恐怖に歪んだ顔。ボールを追いかけて道路に飛び出したんだ……俺は、咄嗟にその子を突き飛ばして……トラックの白いライトが、目の前で爆ぜた。
「……そうか……俺は……あの子を、助けて……」
自分の最期を思い出したことで、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
無駄死にじゃなかった、と。でも、だからといって、この状況が好転するわけじゃない。なぜ俺が、よりにもよってクラスメイトの、あの来栖悠人の中に……?
コンコン、と控えめなノックの音。
「悠人? 大丈夫? 夕飯、できてるけど……」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた、でもどこか芯の強さを感じさせる声。この家の長女、
……来栖綾音。その名前を知らない高校球児はいない。彼女は、スポーツ超名門校、
俺も、彼女のピッチングやリーダーシップをテレビで見て、同年代のトップアスリートとして密かに憧れに近い感情を抱いていた。……まさか、その彼女が、俺の……いや、この来栖悠人の姉だなんて、まだ信じられない。
「……うん、今、行く……」
俺は、できるだけ悠人っぽく、か細い声で答えた。
リビングへ行くと、中学二年生の妹、
「お兄ちゃん、また部屋に引きこもってたの? 青葉学院の試合、負けちゃったからって、いつまで落ち込んでるわけ? 上杉先輩が死んじゃったのは残念だけどさー」
こいつ……。まあ、仕方ない。俺はもう、「上杉奏多」じゃないんだから。
「……別に、落ち込んでないよ」
俺がそう言うと、キッチンから出てきた綾音さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「小春、余計なことを言うんじゃないの。ねぇ悠人、本当に大丈夫? 顔色が良くないわよ。食欲もないみたいだし……。上杉君のこと、同じクラスだったから、ショックが大きいのは分かるけど……」
その真っ直ぐな瞳に、ドクリと心臓が跳ねる。憧れの人が、俺を心配してくれている……この、来栖悠人の体を。
「……うん、まあ……ちょっとね」
嘘は、言っていない。
悠人の部屋に戻り改めて部屋の中を見渡した。綾音さんの言う通り野球関連の本やグッズで足の踏み場もない。
何か手がかりはないのか。俺がここに来た理由。悠人は、一体どんなやつだったんだ……。
ベッドの下の段ボール箱。中には、古びたアルバムや、使い込まれたグローブ。そして、一冊の分厚いノートがあった。
表紙には、几帳面な文字。
「究極の投球術 ~凡才が天才を超えるための設計図~ Ver.2.5 来栖悠人」
……なんだ、これ。
期待せずにページをめくった俺は、次の瞬間、言葉を失った。
そこにびっしりと書き込まれていたのは、俺の想像を遥かに超える、緻密で、高度な野球理論だった。物理学、運動力学、生体力学に基づいた詳細な投球フォームの分析。筋肉の効率的な使い方。変化球のメカニズム。さらには、配球論やメンタルトレーニング法まで……。
走り書きのような文字と自作らしき図解。それは、ただの野球オタクの妄想なんかじゃなかった。本気で野球と向き合い、練り上げられた、血と汗の結晶。
ノートの最後のページに、小さな文字で走り書きがあった。「――綾音姉ちゃんへ。少しでも参考になれば嬉しい。ユウト」
……え? あの来栖綾音が……このノートを……?
そういえば、以前テレビで見た彼女のピッチングフォーム……どこか独特で、でも恐ろしく合理的だと思った記憶がある。あれは、もしかして……。
俺の中で、何かが音を立てて繋がった。来栖悠人……こいつ、ただのオタクじゃなかったんだ。そして、あの綾音さんが、弟のこの理論を参考にしていた……?
「……すげぇ……」
俺は、このノートの持つ本当の価値に今更ながら気づかされた。特に、「非力な肉体でも、効率的な体の連動と重心移動によって、鋭い回転のボールを生み出す投球術」という項目。今の俺……いや、この悠人の貧弱な肉体にとって、それはまさに天啓だった。
上杉奏多としての俺は1年生エースだった。だが、それは決して圧倒的な才能に恵まれていたわけじゃない。投手力で言えば、せいぜいC++、贔屓目に見てもBクラス。それが、このノートの理論を実践できれば……?
俺は、いてもたってもいられず、ノートと、部屋の隅にあった古びたボールを掴んで、近所の公園の壁に向かった。
ノートに書かれた指示通り、体の軸、肩甲骨、股関節、腕の振り、指先の感覚……一つ一つ確認しながら、ボールを投げる。
最初は、やはりダメだった。ボールは力なく、あらぬ方向へ。悠人の体は俺のイメージ通りには動いてくれない。だが、諦めずに投げ続けるうちに、何かが変わった。
――パァン! 乾いた音が壁に響く。投げたボールは、鋭くホップし、壁の一点に突き刺さっていた。
「……嘘だろ……」
今のボールは……かつての俺よりも……速い……? いや、キレが、回転が、まるで違う!
悠人の緻密な理論と、俺の投手としての魂と経験が、このひ弱な体の中で、奇跡的な化学反応を起こし始めている……!
A++……いや、それ以上の可能性を、俺はこの体に感じていた。
「来栖悠人……お前、一体……何者だったんだ……?」
それからの俺は何かに取り憑かれたように練習に没頭した。学校が終わると真っ直ぐ家に帰り、ノートを読み込み、日が暮れるまで一人で壁当てを繰り返す。
そんな俺の変化に、最初に気づいたのは、やはり綾音さんだった。
「悠人、最近、何か雰囲気変わったわね。……そのノート、また読んでるの?」
ある晩、彼女は俺の部屋に入ってきて、そう尋ねた。その手には、彼女自身の練習メニューが書かれたノートがあった。そのノートにも、悠人の字で書かれたメモがいくつか挟まっているのが見えた。
「……姉ちゃんも、これ、参考にしてるの?」
「ええ、まあね。悠人の理論は、ハッとさせられることが多いから。……でも、まさかあなたが本気で野球を始めるなんて、思ってもみなかったわ」
彼女は、少し驚いたように、そしてどこか面白そうに俺の顔を見た。その瞳の奥に、鋭い光が宿っているのを見逃さなかった。
憧れの人が弟の才能を認め、そして今の俺の変化に興味を持っている。その事実は、俺の胸を熱くした。
妹の小春は、相変わらず俺をからかってくる。
「お兄ちゃん、急に野球選手にでもなったつもり? でも、前よりちょっとだけカッコよくなったかもねー!」
幼馴染の
「あんた、本当にユウト? なんか、人が変わったみたいじゃん。……まあ、引きこもってるよりは、マシだけどさ」
憎まれ口を叩きながらも、時折、スポーツドリンクを差し入れてくれるあたり、根は優しいやつなんだろう。
そんなある日の夕暮れ。いつものように公園で壁当てをしていると、不意に背後から声がかかった。
「あの……来栖君、だよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは、
「……ああ、上杉さん」
俺は、咄嗟にそう呼びかけ、心臓が早鐘を打つのを感じた。まさか彼女から話しかけられるなんて。
「練習、熱心だね。……ここ、昔よく兄とキャッチボールした場所なの。なんだか、思い出して……」
美波は、そう言って寂しそうに微笑んだ。その笑顔が、兄である俺の記憶の中の彼女と重なり、胸が締め付けられる。
「……そう、なんだ」
「来栖君も、野球好きなんだね。クラスでは物静かだから、少し意外だった」
彼女は、俺が投げているボールと、壁にできた無数の跡を交互に見ている。
「……まあ、最近始めたばっかりだから」
俺は、できるだけ悠人らしく、ぶっきらぼうに答えた。
「そっか……。ごめんね、練習の邪魔しちゃって」
美波はそう言うと、軽く会釈して公園を去ろうとした。その小さな背中を見つめながら、俺は何も言えなかった。
俺は、再び壁に向き直り、ボールを投げ込んだ。夕焼けが、公園全体をオレンジ色に染めていた。