夕焼けが部屋の壁を茜色に染めるまで、俺は来栖悠人のノートに書かれた理論と、公園の壁を相手にした投球練習に没頭する日々を送った。
上杉奏多としての記憶と経験、そして、このノートに記された緻密な設計図。それらが俺の中で混ざり合い、このひ弱だったはずの体に、信じられないほどの力を与え始めていた。
もちろん、直ぐに理論通りにいくわけではない。悠人の体は、長年の運動不足が祟って、基礎体力があまりにも低い。
少し走っただけで息が上がり、筋肉痛は日常茶飯事だ。それでも、ノートに書かれた効率的な体の使い方を意識することで、投げられるボールの質は、日を追うごとに変わっていった。
「……本気、なんだね、ユウト」
ある日の練習後、汗だくで家に帰ると、幼馴染の橘莉子が、家の前で腕を組んで立っていた。
彼女は、俺が「来栖悠人」として野球の練習を始めたことに、誰よりも驚き、そして誰よりも疑いの目を向けていた一人だ。
「まあな」
「ふーん。……で、いつまでそんな遊びみたいなこと続けるわけ? どうせすぐ飽きるんでしょ、アンタのことだから」
相変わらずの毒舌。でも、その目には、以前のような完全な侮蔑の色はなかった。少しだけ、興味……いや、戸惑いが混じっているように見える。
「……遊びじゃねえよ」
「へえ。じゃあ、まさかとは思うけど、野球部に入るとか言わないでしょうね?」
「……そのつもりだけど」
俺がそう言うと、莉子は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから盛大に吹き出した。
「ぶっ……! あんたが!? 野球部!? 無理無理! 一日で音を上げるに決まってるじゃん!」
まあ、そう思うのが普通だよな。以前の悠人を知っていれば。
「……見てろよ」
それだけ言って家に入った。
姉の綾音さんにも、野球部に入るつもりだと伝えた。彼女は、少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になった。
「本気なのね、悠人。……あなたの野球理論、確かに素晴らしいと思うわ。でも、それだけでやっていけるほど、高校野球は甘くない。部活の……甲子園を目指す部の練習についていけるだけの覚悟、本当にあるの?」
さすがは全国制覇を経験したアスリートだ。言葉の重みが違う。
「……うん。覚悟なら、できてる」
俺の目を見て、綾音さんは小さく頷いた。
「そう……。なら、何も言わないわ。頑張りなさい。……もし、何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るから」
その言葉は、素直に嬉しかった。
そして、俺は青葉学院野球部の門を叩いた。
監督の佐竹先生は、俺……いや、悠人の顔を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。
「来栖……か。お前、野球経験は?」
「……ありません。でも、ずっと野球が好きで、理論だけは勉強してきました」
悠人なら、きっとこう答えるだろう。
周囲の部員たちから、クスクスと笑い声が漏れる。体力測定では、俺の記録は下から数えた方が早いほどで、遠投も平凡なものだった。
元々の「陰キャで運動音痴の来栖悠人」というイメージが強すぎるのだろう。
「おいおい、一年坊主、本当に大丈夫かよ」
「あいつ、確か上杉と同じクラスの……。全然タイプ違うよな」
上級生たちの、侮りと好奇が入り混じった囁きが耳に届く。そんな中、ひときわ鋭く、そして複雑な色の視線を感じた。
……高木青空。
俺の親友だった男。彼は、俺の死後、図らずもエースの重責を一人で背負うことになったはずだ。その青空が、俺……いや、「来栖悠人」という新入部員を、じっと見つめている。
彼の瞳には、亡き親友への悲しみ、新チームを引っ張るエースとしてのプレッシャー、それらが渦巻いているように見えた。
俺が上杉奏多だった頃、彼が俺に向けていた信頼や友情とは明らかに異なる、何か得体の知れないものを見るような目。その変化は、俺の胸を締め付けた。
彼の心中は、察するに余りある……それは、俺が上杉奏多だったからこそ、痛いほど伝わってきた。
キャプテンの佐伯先輩は、新入部員として公平に接しようとしてくれているようだが、明らかに俺を持て余している感じだった。
この野球部は、守備特性を見るため、新入部員にすべてのポジションをテストされる。
そして、一番最初に行われた、ピッチングテストが始まると、空気は一変した。
俺は、悠人のノートに書かれた理論を、必死で体に叩き込んできた。その成果が、今、試される。
セットポジションから、ゆっくりと左足を上げる。体の軸を意識し、腰を鋭く回転させ、腕をしなやかに振る。指先にかかったボールは、唸りを上げてキャッチャーミットに吸い込まれていった。
――ズドンッ! 乾いた、心地よい音。
キャッチャーが、驚いたように目を見開いている。周りの部員たちも、さっきまでの嘲笑を忘れ、息を呑んで俺の投球を見つめていた。
「……今の……何キロ出てたんだ……?」
「コントロールも、エグいぞ……。本当に初心者かよ……」
監督の佐竹先生も、険しい顔で俺のピッチングを凝視している。
俺は、淡々と投げ続けた。ストレート、カーブ、スライダー……悠人のノートに書かれた、効率的なフォームで。
でも、この体はまだ未完成だ。スタミナも、筋力も、上杉奏多の頃には遠く及ばない。それでも、ノートの理論通りに体を動かせば、ボールの威力とキレは、確実にあの頃の自分を超えつつあった。それは、紛れもない事実。
その日の練習後、数人の一年生が、興奮した様子でおずおずと俺に話しかけてきた。
「あの……来栖、すごいな! どうやったら、あんなボール投げられるんだ?」
当たり障りのない言葉を選びながら、悠人のノートに書かれていた理論のほんの一部を自分の言葉で伝えた。もちろん、ノートの存在は絶対に秘密だ。
しかし、上級生たちの視線は依然として冷ややかだった。「まぐれだ」「たまたま調子が良かっただけだろ」そんな声が、風に乗って聞こえてくる。無理もない。昨日までの「来栖悠人」を知っていれば、今の俺の姿は信じられないだろう。
そんな中、上杉美波が、野球部のマネージャーとして入部してきた。
兄である俺の死後、彼女が塞ぎ込んでいると聞いていたから、正直、驚きを隠せなかった。
「来栖君も野球部に入ったんだね。公園で見たピッチング、凄かったわ」
練習の準備中、不意に声をかけられた。振り返ると、そこには制服姿の美波が立っていた。
「……ありがとう」
できるだけ平静を装って答えた。妹と、こんな形で言葉を交わす日が来るなんて想像もしていなかった。胸の奥が、チリチリと痛む。
彼女は時々、練習の合間に俺のところへやってきて、当たり障りのない会話を交わすようになった。
「今日のストレート、すごく伸びてたね。……なんだか、見てると、兄さんのことを思い出すの」
「……そうか」
それ以上何も言えなかった。彼女の言葉の一つ一つが、俺の心を締め付ける。
数週間後、練習試合が組まれた。相手は、秋の大会でそこそこの成績を残した強豪校だ。そこで、監督から中継ぎとして登板機会を与えられた。
マウンドに立つ。土の感触、ロージンバッグの匂い、キャッチャーミットの乾いた音……。全てが懐かしく、そして新鮮だった。
悠人のノートの理論を信じ、そして、来栖悠人として上杉奏多として魂を込めて右腕を振った。
――ズドンッ! 相手バッターのバットが、豪快に空を切る。
――ズドンッ! 高めのストレートに、手が出ない。見逃し三振。
――ズドンッ! アウトコースいっぱいに決まるスライダー。またしても三振。
三者連続三振。ベンチも、スタンドも、一瞬静まり返り、そして、次の瞬間、どよめきにも似た歓声が上がった。
俺は三回を投げ、一人のランナーも出さずにマウンドを降りた。監督の佐竹先生が、興奮を隠せないといった様子で俺の肩を強く叩いた。
「来栖……お前、一体……何者なんだ……!?」
その言葉は、奇しくも、俺が悠人のノートを初めて読んだ時に抱いた疑問と、全く同じだった。
ベンチに戻ると、高木青空が信じられないものを見るような目で、俺を見つめていた。
その瞳には、驚愕と、焦燥と、そして……ほんのわずかだが、ライバルとしての闘志のような光が宿っていた。
二度目の野球人生。それは、多くの波紋と、様々な想いを呼び起こしながら、静かに、しかし確実に、動き始めていた。