あの衝撃的な練習試合から数週間。俺の立場は、微妙ながらも確実に変わりつつあった。
以前のようなあからさまな無視や嘲笑は鳴りを潜め、代わりに戸惑いや好奇、そして一部からは警戒心にも似た視線を感じるようになった。まあ、無理もない。昨日まで壁際のオタクだったやつが、いきなり剛速球を投げ始めたんだからな。
「来栖、ちょっといいか」
練習後、いつものように自主練の準備をしていると、監督の佐竹先生に呼び止められた。
「はい」
「お前のピッチングは素晴らしい。だが、体力はどうだ? あのピッチングを試合でコンスタントに続けるスタミナが、今のままでは厳しいぞ」
先生の指摘は的を射ていた。
「……分かっています。走り込み、トレーニングメニュー、増やします」
「ああ。それと……お前のあの独特なフォーム、誰に教わったんだ? 」
佐竹先生は、何かを探るような目で俺をじっと見つめた。
「……自己流、です。ずっと、一人で……動画とか、本とか見て……」
俺は、咄嗟にそう答えた。悠人のノートのことは、まだ誰にも話せない。あれは、俺が勝手に広めていいものではない。
「そうか……」
先生はそれ以上何も言わなかったが、その表情には、まだ何か腑に落ちないような色が残っていた。無理もない。俺だって、今の状態を説明しろと言われても困る。
チーム内での俺の立ち位置が微妙に変化していく中で、高木先輩の態度は、より複雑なものになっていた。
彼は、練習試合での俺のピッチングを目の当たりにしてから、以前にも増して練習に打ち込むようになった。
その姿には、鬼気迫るものがあった。あからさまな敵意を見せるわけではないが、練習中、ことあるごとに競争心を剥き出しにしてきた。
「来栖! もう一球だ! 今ので終わりかよ!」
ブルペンで隣り合って投げ込んでいる時、彼はよくそんな風に俺を煽ってきた。
(俺が奏多だった頃は、あいつのこと「そら」って呼んでたのにな……今は「高木先輩」か……)
そんな些細なことにも、胸がチクリと痛む。
「来栖、最近の高木、すごい気迫だと思わないか?」
ある日の練習後、キャプテンの佐伯先輩が汗を拭きながら俺に話しかけてきた。
「……そうですね。気合、入ってるみたいです」
「ああ。お前が入ってきてから、あいつも目の色が変わったよ。いい意味でな。……お前たち一年と二年のダブルエースで、今年の青葉を甲子園に連れて行ってくれよ」
佐伯先輩の言葉は、素直に嬉しかった。そして、少しだけ、胸が熱くなった。俺は、このチームで、自分の居場所を見つけ始めているのかもしれない。上杉奏多としてではなく、来栖悠人として。
そんな中、俺にとって一番の変化、そして悩みの種は、上杉美波の存在だった。
マネージャーとして入部した彼女は、献身的にチームをサポートしながら、いつも俺のことを見ている気がした。それは、自意識過剰なんかじゃない。練習中、ふとした瞬間に視線を感じてそちらを見ると、必ず美波と目が合うのだ。彼女は、慌てて視線を逸らす。
「来栖君、これ、新しいタオル。汗、すごいよ」
「……ありがとう、上杉さん」
休憩中、彼女はよく俺にドリンクやタオルを差し入れしてくれた。その度に、俺の心臓はぎこちなく脈打つ。妹に、こんな風に世話を焼かれるなんて、想像もしていなかった。
「あの……今日のピッチング、すごく良かった。特に、あのインコース高めのストレート……兄さんが、全盛期の時によく投げてた球筋に、なんだか似てて……ドキッとしちゃった」
美波は、時折、そんな風に、俺のピッチングに兄……つまり、上杉奏多の面影を重ねているようなことを口にした。その度に、俺は胸の奥が締め付けられるような、甘酸っぱくて、でもどうしようもなく切ない気持ちになった。
彼女は、俺が奏多だなんて、夢にも思っていないだろう。ただ、兄を亡くした悲しみの中で、兄と同じ野球に打ち込み、どこか兄に似た雰囲気を持つクラスメイトの「来栖悠人」に、特別な感情を抱き始めているのかもしれない。
それでも……彼女の言葉は、彼女の存在は、俺にとって、何よりの励みになった。この体で、もう一度野球をやる意味を、与えてくれているような気がした。
「ユウト、あんた、最近ちょっと調子乗ってんじゃないの? なんか、クラスでも雰囲気変わったって噂だよ」
学校の帰り道、幼馴染の橘莉子が、呆れたように言った。彼女は、俺が野球部で少しずつ結果を出し始めていることを、どこからか聞きつけているらしい。
「……別に、乗ってねえよ」
「ふーん。まあ、どーせまたすぐヘタレに戻るんでしょ。期待しないで見てるから」
相変わらずの口の悪さだが、その声には、以前のようなトゲトゲしさはなかった。むしろ、どこか楽しんでいるような……。こいつも、俺の変化を、それなりに認めてくれているのかもしれない。
秋季地区大会が、刻一刻と近づいてきていた。
俺は、悠人のノートの理論を体に染み込ませるため、そして、試合で投げ抜くためのスタミナをつけるため、毎日必死で練習を続けた。姉の綾音さんも、時々俺の練習を見て、的確なアドバイスをくれるようになった。
「悠人、今の投げ方、少し肩に力が入っているわ。もう少し、下半身主導で……そう、そんな感じ。体幹ももっと意識して」
彼女のアドバイスは、さすが全国レベルのアスリートだけあって、いつも的確で、俺の成長を加速させてくれた。憧れの人が、自分のピッチングを見てくれている。それだけで、どんな厳しい練習も乗り越えられそうな気がした。
そして、秋季大会の初戦。相手は、夏の大会で帝都実業に敗れた、古豪、武蔵野第一高校。
俺は、監督から先発マウンドを任された。
スタンドから、美波の、そして、いつの間にか応援に来てくれていた綾音さんや莉子、小春の声援が聞こえる。
大丈夫だ。俺は、もう一人じゃない。俺は、深呼吸をして、キャッチャーのサインに頷いた。