朝の光が公爵家の庭を照らし始める頃、レクシアは自室の窓辺で身支度を整えていた。結婚生活が始まってからというもの、彼女にとっての日々はめまぐるしくもあり、同時に単調でもある。夫であるダリオンの不在が多く、夫婦らしい時間はほとんど持てずにいたが、それでも先日の出来事――厩舎で見た優しい横顔や、書庫で危ないところを助けてくれた一瞬などが頭から離れない。
それまでは“冷酷な公爵家の嫡男”という噂どおりの距離感ばかりだったダリオンが、ほんの少しずつレクシアに歩み寄るような言動を見せている気がした。深い心の内まではわからないものの、彼の優しさや、不器用ながらも守ろうとしてくれる姿勢を感じるたび、レクシアの胸の中で小さな喜びが芽生えている。
自分でも驚くほど、今は「ダリオンにもっと近づきたい」という想いが強くなっていた。政略結婚という形で繋がっただけのはずなのに、彼と心を通わせたいと願う自分に気づく。
その一方で、レクシアはまだ“公爵家の当主夫人”として不十分だと感じていた。日々の社交や使用人たちとのやり取りこそ滞りなくこなしているが、ダリオンが抱える仕事の内容や、公爵家の内情には深く関われていない。彼が背負う責任や苦悩を知ることで、もっと彼を支えられるのではないか――そんな思いが募っていた。
けれど、ダリオンは自分の仕事についてめったに語ろうとしない。王宮での政務や、領内の管理、あるいは王家への報告など、山ほど業務があることは薄々感じているが、それがどういったもので、どれほど大変かは想像するしかない。
(いつか私にも協力してほしいと言っていたけど……具体的に何を求められているのだろう?)
ぼんやりとそんな思考をめぐらせながら、レクシアはドレッサーに向かい、軽く髪をまとめる。鏡に映る自分の瞳は、どこか決意に満ちているようでもあった。今まで受け身でいることしかできなかったけれど、少しでもダリオンの力になりたい――そう思うと、自分から動き出す必要があるのではないかと感じる。
朝食を終えると、執事のオルディスがいつものようにレクシアに声をかけた。
「奥様、本日は領内で催される収穫祭の準備があり、使用人たちも何かと外へ出入りいたします。奥様も、もしご興味があればご見学なさってはいかがでしょうか」
「収穫祭……ですか? この公爵領でもそういう行事があるのですね」
「ええ。領民たちの生活や作物に感謝を捧げる伝統行事でございまして、ダリオン様も例年は顔を出されるのですが、今年は公務と重なっております。もし奥様がお出かけいただけるなら、民の方々もきっと励みになるかと」
領民の前に公爵家の人間が現れるのは一種の“お披露目”にもなる。レクシアは少し緊張するが、自分がこの土地に嫁いできたからには、領内の行事に関心を持つのは当然の役目だ。
「それはぜひ行かせていただきたいわ。よろしくお願いします」
そう微笑むと、オルディスもどこか嬉しそうな表情を浮かべて頭を下げた。
***
日が高くなる前に、レクシアは数人の侍女と護衛の騎士に付き添われ、公爵領の城下町へと向かった。馬車が石畳の街道を進むと、軒を連ねる建物の窓から人々がこちらを窺っているのがわかる。
公爵家の紋章を掲げた馬車は当然ながら目立ち、道行く人々がざわざわと声を上げ、軽く礼を示している。レクシアは車窓から穏やかに微笑んで手を振り返した。緊張よりも、今は彼らの温かい気配を感じたことが大きい。
「……政略結婚で嫁いだ令嬢、として好奇の目で見られるだろうけれど、少しでも彼らが安心できるような夫人でありたい」
小さく呟くと、傍に座っていた侍女が「奥様、ご無理なさらずに」と優しく声をかけてくれる。レクシアは感謝の意を込めて「ありがとう」と微笑んだ。
収穫祭の会場は領内でも広い広場に設けられており、すでに多くの露店やテントが並んでいる。秋の豊作を祝うための市場のように、野菜や穀物、果物や手工芸品まで、様々な商品が所狭しと積み上げられていた。
馬車から降りると、護衛の騎士が人々を遠巻きに下がらせながら道を作ってくれる。レクシアはそこをゆっくりと進み、周囲に会釈しながら、各所で出迎えてくれる領民と軽く言葉を交わした。
「公爵夫人様、はじめまして。ようこそお越しくださいました!」
「今年は小麦がたくさん採れまして、ほら、このパンも絶品なんですよ!」
皆、緊張しながらも嬉しそうに笑いかけてくれる。レクシアは彼らの素朴な人柄に触れ、胸が温まる思いをした。こうして直接領民たちと交流することで、公爵家が彼らを守り、導く立場にあるのだという現実を肌で感じる。
(ダリオン様は、きっと毎年こんな人々と触れ合ってきたのね。忙しい公務の合間を縫ってでも大切にする理由がわかる気がするわ)
ただ、レクシアが歩みを進めるにつれ、少しだけ奇妙な視線も感じるようになってきた。歓声や敬意の眼差しの中に、どこか敵意や疑念に満ちた視線が混ざっている気がするのだ。周囲を見渡すが、誰かがあからさまに睨んでいるわけでもない。
「どうかされましたか、奥様?」
騎士の一人が心配そうに尋ねてくる。レクシアは「いえ、なんでもありません」と首を振り、その場はやりすごした。何かの気のせいかもしれない。けれど、その胸騒ぎは簡単には消えなかった。
その後、露店でパンや果物を買い求め、領民たちから「こんな美しい公爵夫人様なら、公爵様との間に素晴らしいお子様が……」などと微笑ましい話をされ、レクシアは頬を赤らめてしまう。政略結婚とはいえ、こうして周りから祝福されると、少し恥ずかしくもあり、同時に嬉しかった。
しばらくして、食堂として利用されている大きなテントに入り、レクシアはそこで一息つく。護衛の騎士と侍女たちも一緒に簡単な食事をとるが、突然テントの外が騒がしくなった。
「何事かしら……?」
不安げに外へ出ると、二人の商人らしき男が口論をしているのが見える。周囲の人々が困惑した様子で距離をとっている。どうも出店の場所や売り上げを巡って口論になっているらしい。
仕切っているはずの役人が間に入ろうとするが、男たちは興奮状態で言い合いをやめようとしない。
(こういうときこそ、公爵家の人間が冷静に対処すれば、皆が安心してくれるのでは……?)
レクシアはそう思い、侍女や騎士を伴って前へ進み出た。
「少し落ち着いてください。何があったのか、教えてもらえますか?」
怯えた様子の周囲の人々が一斉に視線を向ける。まだ公爵夫人として在位して日も浅いレクシアだが、どこか威厳を保ち、相手を宥めるように話しかける。すると、男たちは一瞬きょとんとしてから、言葉を張り上げ始めた。
「オレの場所を勝手に取られたんだ! こっちは一週間前からここを借りるって役人に言ってたのに、こいつが今朝になってから陣取ってやがって!」
「違う! 俺もちゃんと許可をとってるんだ。役人がダブルブッキングしてるのが悪いんじゃないか!」
どちらにも言い分があるようだ。役人の手違いで同じ区画を重複して割り当てたらしい。事態を知った役人は平謝りしているが、二人の怒りは簡単には解けない。
レクシアは一通り話を聞き、なるほどと頷くと、役人にも確認する。どうやら書類の登録ミスがあったようで、意図せず同じ場所を二重に割り当ててしまったというのだ。
「それなら、少し離れた場所で追加のスペースを作ることはできませんか? ここで時間をかけて言い争っているより、そのほうがお二人にとっても売り上げにつながると思うのですが」
レクシアの提案に、役人が慌てて地図を取り出し、「そうですね……ここなら十分な広さがありそうです。ただ、少しだけ端になりますが……」と案を示す。
商人たちは互いに顔を見合わせ、不服そうではあるが、「たしかに、このままじゃ両方とも商売あがったりだ」と渋々ながら同意をする。
最終的に、騎士たちが荷物の運搬を手伝い、2軒の店はいったん移動することになった。二人も少し落ち着きを取り戻し、最後には「公爵夫人様、ありがとうございます」と頭を下げていく。
周囲にいた人々も安心した様子で散っていく。レクシアはほっと胸を撫で下ろした。
(ただの口論だったかもしれないけれど、こういう小さな問題が領民を不安にさせることもあるのよね。これもダリオン様が普段から対処している事柄のひとつなのかもしれない)
その後、レクシアは夕方近くまで収穫祭を見て回り、領民たちと言葉を交わした。トラブルはあったが、概ね穏やかで和やかな雰囲気に包まれている。公爵家の領地は豊かな土壌と人々の活気に満ちており、彼らが誇りをもって生活している姿に感銘を受けた。
いつもダリオンが守ろうとしているのは、こうした人々と土地なのだ。そう思えば、彼の多忙や厳しさも理解できる気がする。
「いつか、わたしもダリオン様の役に立てるようになりたい……」
思わずそんな言葉が口をついて出た。まだ彼との距離は遠いかもしれないが、少しずつでも近づいていきたいと願う。
***
翌日、レクシアが公爵家の書庫で書簡の整理をしていると、侍女が急いだ様子でやってきた。
「奥様、大変です。エルデ伯爵家の使者の方が、ご面会を求めて来られました」
「えっ……伯爵家から?」
レクシアの実家であるエルデ伯爵家。その家族からの連絡は結婚以来ほとんどなく、たまに母から手紙が届く程度だったので、使者が直接公爵家を訪ねてくるのは珍しい。
「わかりました。私が会います」
そう告げて、レクシアは緊張しながら応接室へ向かった。結婚という大きな使命を果たすため、無理やり嫁がされたというのが現実なので、今更どんな用件だろうと戸惑いが募る。
応接室に入ると、そこには伯爵家の従者らしき男が一人待ち構えていた。恭しく頭を下げ、レクシアに対しては「お久しゅうございます、レクシアお嬢……いえ、奥様」と言葉を慎重に選んでいる。
「急に押しかけてしまい申し訳ありません。伯爵様がぜひ奥様にお伝えしたいことがある、と言付けを仰せつかりまして……」
「父が? いったい、どのような要件なのですか?」
レクシアは伯爵家の財政難がどうなったのか気になりつつ、居住まいを正して尋ねる。すると使者は紙の束を差し出した。
「こちらの書類をご確認いただきたいとのことです。今、伯爵家はあまり芳しくない状況に陥っておりまして……公爵家の力添えをいただけないか、と……」
嫌な予感が胸をよぎる。政略結婚によってエルデ伯爵家の破産は回避されたはずだが、完全に立ち直ったわけではなかったのだろう。書類を受け取り、その場でざっと目を通すと、領地の管理費や王宮への献上品の不足、さらには商会との契約トラブルなど、不穏な単語が並んでいる。
(こんなに問題が山積みだなんて……しかもまた公爵家に頼ろうというの?)
伯爵家が一方的に頼る形になれば、ダリオンの負担になるのは明白だ。それに、レクシア自身も今の立場で安易に実家を援助できるわけではない。公爵家の公的資金と、私的な思惑は完全に区別しなければならないからだ。
「……わかりました。父や伯爵家の関係者にも事情を聞いてみたいので、改めてこちらから返答します。今日はご足労いただき、ありがとうございます」
深く頭を下げる使者を見送りながら、レクシアは胸の奥がざわつくのを感じていた。この書類にある問題が事実だとすれば、伯爵家はますます窮地に陥っているのかもしれない。そんなときに頼れる相手として、公爵家の権力を利用しようとしているのだろうか。
(でも、ダリオン様に相談しても、彼はどう思うだろう……? 私の実家の問題なんて、関わりたくないと思うかもしれない。それでも放っておくわけには……)
悩ましい思考が頭を巡る中、レクシアはふと「ダリオンはまだ帰邸していない」と気づく。いつも通り、王宮に出向いているのだろうか。もし彼にこの話を切り出すなら、どう切り出すべきか。
(結婚前から分かっていたことだけど、伯爵家は私を“切り札”のように使ってきた。財政難を救うための縁談だったし……。でも私は、ダリオン様にこれ以上の負担はかけたくない。どうしたらいいの……?)
思い悩むうちに、あっという間に夕刻の鐘が鳴り、レクシアは侍女と共に夕食の準備へと向かった。しかし、ダリオンはその日も夜遅くまで戻らなかった。
***
翌朝。レクシアは決心して、ダリオンの執務室を訪ねることにした。いつもなら「夫の仕事を邪魔してはいけない」と遠慮していたが、今はそうも言っていられない。何より、伯爵家の問題は結婚によってもたらされる可能性のある“公爵家への損害”にも関わるのだ。自分一人で抱え込むわけにはいかなかった。
執務室の扉をノックすると、ダリオンの声が返ってくる。
「入れ」
恐る恐る扉を開けると、そこには机に向かって書類を読み込んでいるダリオンの姿があった。薄暗い室内は静寂に包まれ、窓から差し込む朝の光が重厚な家具を照らしている。ダリオンは顔を上げ、レクシアを見つめた。
「レクシアか。どうした?」
「少し……相談がありますの。お忙しいところ申し訳ありませんが、お時間をいただけますか」
ダリオンは一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたが、「座れ」とソファを勧める。レクシアはその正面に腰を下ろし、昨日渡された書類を鞄から取り出した。
「これは……伯爵家の従者が持ってきた書類です。父が公爵家へ助力を仰ぎたいと。内容としては、借金の返済や領地の維持費、商会との揉め事が多々あって……」
淡々と事実を伝えながら、レクシアはダリオンの表情を窺う。彼は書類に目を通しつつ、険しい面持ちになった。
「エルデ伯爵家が、また公爵家に支援を求めている、というわけか。お前の結婚によって財政難は一時的に解消されたはずだが……ずいぶん安易だな」
その言葉には明らかな苛立ちが滲んでいる。レクシアは胸が痛むが、それでも口を開く。
「私も、同じように感じています。でも、伯爵家はこのままだと取り返しのつかないことになりかねません。だからといって、公爵家の資金や権力を簡単に使うのは問題ですよね。私としては、どうするのが最善か、ダリオン様にご相談したくて……」
ダリオンはしばらく黙り込んだまま、書類を読み込む。部屋の静寂が重くのしかかり、レクシアは息苦しささえ覚える。
「伯爵家は、王宮の貴族の中では比較的地位が低く、財政も脆弱だ。だからこそ、公爵家との縁を欲しがった。その結果、君と俺が結婚した……そこまではいい。だが、何度も言うように、俺たちが支援をするとなれば、“公爵家にただ乗りした”と周囲から反発を買いかねない。王宮内にも、エルデ伯爵家を快く思わない者は多いからな」
淡々と語るダリオンだが、最後のほうは少し言葉を濁す。レクシアは不安が膨らむ一方だった。
「では、伯爵家はどうすれば……?」
「方法がまったくないわけではない。ただ、何かしらの“条件”を付ければ、公爵家が一方的に損を被らない形にできる。だが、それを伯爵家が呑むかは別だろう」
「条件、ですか……?」
「例えば、伯爵家の領地の一部を公爵家の管理下に置くとか。商会との契約権を公爵家が握るとか、いくつか手段はある。もっとも、君の実家はそれを受け入れるだろうか?」
その言葉に、レクシアはハッとする。それはつまり、伯爵家の権力を大幅に削る提案だ。父や伯爵家の関係者がすんなり了承するとは思えない。
(そうなると、また揉め事が起きてしまうかもしれない。でも、このままでは彼らが再び破産寸前になるのは目に見えている……)
どうにも出口が見えない話だ。かといって、このまま伯爵家の訴えを放置すれば、いずれ大きな騒動に発展する可能性もある。
ダリオンは書類を机に戻し、腕を組んでレクシアを見据える。
「君はどうしたい? 俺にこうして欲しいという希望があれば、聞こう」
その問いに、レクシアは思わず息をのむ。いつもならダリオンは勝手に物事を決めるタイプだと思っていたが、ここにきて自分の意見を求めてきた。それは、ある意味“夫婦としての意思”を尊重してくれているとも取れる。
レクシアは真剣に考えを巡らせる。自分の実家が大切なのは当然だが、公爵家にも迷惑をかけたくない。ダリオンや使用人たちに負担を強いてしまうような形は避けたい。そして、伯爵家の人々や領民も、できるだけ救いたい。
「私としては、伯爵家が公爵家に依存するだけの関係は変えたいです。少なくとも、ただ援助を受けるのではなく、何かしらの相応の対価を支払ってもらう――そういう形を取らないと、周囲からの反発もあるでしょうし、伯爵家自身のためにもならないと思います」
それを聞いて、ダリオンはわずかに口元をゆるめる。
「そうだな。では、近々、王宮で伯爵家の問題を取り上げる場を作る。そこで伯爵家がどう動くか見極めたうえで、公爵家としての方針を決めるのが良いだろう。君には、その場での“証人”として出席してもらうかもしれないが……覚悟はあるか?」
「証人……私が?」
「君はエルデ伯爵家の令嬢だったが、今は公爵夫人という立場でもある。両方の目線を持つ人間だ。場合によっては、上手く立ち回らなければならない。覚悟がいるぞ」
重々しいその言葉に、レクシアは戸惑いながらも頷く。結婚によって、伯爵家の人間でもあり、公爵家の人間でもある。中立とも言える立場でありながら、どちら側に力を貸すかによって状況が変わる。その責任は小さくない。
「わかりました。私なりに、最善を尽くします。……ダリオン様、ありがとうございます。お忙しいのに、こんな話を聞いていただいて」
そう言うと、ダリオンは少しだけ眉を寄せながら、視線を外すように窓を見やる。
「……当然だろう。君は俺の妻であり、公爵家の夫人だ。守るべき存在なのだから、君が抱える問題に耳を傾けるのは当たり前だ」
その言葉の端々に、レクシアはダリオンなりの優しさを感じ取る。まるで照れ隠しのように見えるのは、自分の思い違いだろうか。
一方で、ダリオンが「守る」と口にするたび、レクシアの胸は微かに熱くなる。昔なら彼の冷たい印象しかなかったはずが、今は彼に対してかすかな信頼と愛着を抱いている自分がいるのだ。
レクシアが執務室を辞して扉を閉じようとしたとき、ダリオンがふいに呼び止めた。
「レクシア」
「はい?」
振り返ると、ダリオンは机に手を置いて立ち上がり、かすかに口を動かす。
「……お前のやり方で構わない。遠慮なく行動してみろ。もし困ったときは、俺が“力”を貸す」
それは、まるで一緒に“問題を解決しよう”という宣言のようにも聞こえた。思わずレクシアは胸がいっぱいになり、かすれた声で「わかりました。ありがとうございます」と答える。
――自分は、一人じゃない。ダリオンが後ろ盾となってくれるなら、きっと伯爵家の問題も公爵家の立場もうまく両立させられるかもしれない。そう信じられるのは、彼が傍にいてくれるという確かな安心があるからだ。
(こんなふうに、ダリオン様と一緒に何かを乗り越えていくことができたら……)
レクシアは廊下を歩きながら、胸の高鳴りを必死に抑える。公爵家と伯爵家の利害の狭間で揺れながらも、彼女は新たな決意を固めたのだった。
***
それから数日後。レクシアは昼過ぎの読書を終えたあと、ダリオンが書庫に置いていた文献を返しに行こうとしていた。そこへ、侍女の一人が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「奥様! 先ほど公爵家に妙な客がいらして、執事様が応対されているのですが、どうも伯爵家からの“使者”を名乗っているようで……」
「えっ? また伯爵家の……? 先日来られた方とは別の人ということ?」
「はい。少なくとも、先日の使者の方とは違うお姿です。公爵様の許可もなく突然押し掛けてきたようで、こちらとしても困っております」
レクシアは一瞬嫌な予感に襲われる。なぜ伯爵家がこんなにも積極的に公爵家へ接触を図ってくるのか。しかも、勝手に名乗り込むだなんて、常識的に考えておかしな話だ。
急いで応接室へと向かうと、そこには憮然とした表情のオルディスと、いかにも胡散臭そうな男が睨み合っている。男はまだ若く、上等な生地の服を着てはいるが、その態度は粗野で礼儀をわきまえているようには見えない。
「どういうことですか。無作法だと承知のうえで来たんじゃないのか。この公爵家に勝手に押し入るとは……」
オルディスが冷静に諭そうとするが、男は耳を貸さず、むしろ声を荒らげる。
「公爵家に用事があるっつってんだよ! 伯爵家の関係者って言や、さすがに追い返しはしねぇだろうが!」
その場の空気は険悪なムードで満ちている。レクシアが入室すると、男は小馬鹿にしたように目を細めてこちらを見た。
「おや、あんたが公爵夫人か。ずいぶん可憐なお姿だねぇ。で、俺は誰かっていうとね――」
彼は胸を張り、嘲笑を浮かべながら名乗る。
「俺の名前はクエスト。エルデ伯爵家との商会で働いてる者さ。伯爵家が借金の返済を滞納しているから、その肩代わりを公爵家に求めに来たのよ」
その言葉に、レクシアは青ざめる。まさか、今度は商会の人間が自ら押しかけてきたというのか。しかも“滞納”などという穏やかでない単語が出てきている。
「伯爵家の借金……それは、具体的にどのような……」
「まあまあ、細かいことは置いておいて。お宅のダリオン公爵さんが、いざとなればバックアップすると伯爵家の人間に約束したって噂を聞いたんでね。それならさっさと肩代わりしてくれりゃあいいだろうが!」
クエストと名乗った男は、どこか挑発的な目つきをしている。何か裏があるかもしれない、とレクシアは警戒心を強める。
「そんな噂、私たちは聞いておりません。いずれにしろ、公爵家があなたのような方と直接金銭の話をすることはありません。まずは伯爵家と正式な手続きを行うべきでは?」
毅然とした口調で答えるレクシアに、クエストはせせら笑う。
「そう言うだろうと思って、ここに来たんだよ。あんたがエルデ家の娘なら話が早い。色々と事情があるんだろ? ま、言っとくけど、このまま支払いが滞るようなら、伯爵家は破産どころか、もっと悲惨なことになるぜ? あんたが嫁いだせいで、ますます帳尻が合わなくなってるらしいじゃねぇか」
居丈高な態度に、レクシアは憤りを感じると同時に不安が増す。伯爵家の内部がそこまで混乱しているというのは、いったいどういうことなのか。そして、それがこの男にとって都合がいいのか――あるいは、この男自身が伯爵家を追い込もうとしているのか。
「失礼ですが、クエストさん。公爵家はあなた方の借金を肩代わりする義務など一切ありません。今後そうした話を持ち出すのであれば、それなりの正式な場を設けてください。公爵様は現在不在ですので――」
最後まで言い終えないうちに、クエストが苛立ちを隠せない様子で言葉を遮る。
「へっ、わかったよ。でもな、あんたがこんな態度を取り続けてりゃ、伯爵家がどうなるかわからないぜ? 噂が広まってからじゃ遅いかもしれない。どうせダリオン公爵も、エルデ家を切り捨てるつもりなんだろ?」
まるで“脅し”のような言い方に、オルディスが怒りを含んだ声を上げる。
「いい加減にしてください。ここは公爵家です。これ以上の無礼は許しませんよ」
周囲の護衛が一歩前に出ると、クエストは舌打ちしながら引き下がる。
「ちっ……まあいい。いずれ会う機会もあるだろうしな。あんたらがどう足掻こうが、伯爵家はもう破滅寸前なんだ。せいぜい気張んな」
そう言い捨てると、クエストは侍女たちの制止を振り切って出て行ってしまった。残されたレクシアとオルディスは、しばし呆然とする。
「なんという態度……あれが商会の人間だというのなら、伯爵家は相当悪質な相手に取り込まれている可能性があるかもしれませんね」
オルディスが静かな声でつぶやく。レクシアも同感だった。
(あの男の言葉がどこまで真実なのかわからないけれど、伯爵家が危険な状態なのは間違いなさそう。公爵家が支援しないと知れば、連鎖的にトラブルが起きるかもしれない……)
まるで渦中の存在になっている伯爵家。その縁者であるレクシアも、巻き込まれずにはいられない。先日、ダリオンが言っていた「条件付きで救済する案」も、このままでは遅れをとるかもしれない。
けれど、その夜ダリオンは王宮からの緊急召集で宿泊になり、帰邸できないと連絡が入った。相談したいことは山ほどあるのに、話し合う機会さえ訪れない。
レクシアは眠れぬ夜を過ごしながら、胸を締めつけられるような不安と、ダリオンを頼りたいという切ない想いを抱える。それでも、ただ待つだけでは状況は好転しない。
(わたしがもっと強くならないといけない……。ダリオン様がいなくても、公爵家の夫人としてできることがあるはず)
そう自分に言い聞かせ、レクシアはまだ見ぬ“次の一手”を必死に模索する。そして、伯爵家を取り巻く陰謀や、クエストのような男たちが抱える“真の狙い”にも、いつかたどり着かなければ――。