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第2話 溺愛の兆し



 公爵家の邸に迎えられてから、あっという間に数日が経った。レクシアはまだ新婚生活と呼ぶには遠い、奇妙な生活に戸惑いを覚えていた。何しろ、夫であるダリオン・アングレードは朝早くに屋敷を出ると夜遅くに帰ることも多く、一日のうちで顔を合わせる時間は限りなく少ない。食事もほとんど別々で、彼がいるのは深夜か早朝の短い時間帯だけ。そうした慌ただしさから、二人が会話を交わす機会さえほとんどなかった。


 それでも、公爵家の執事オルディスや侍女たちは「奥様」としてレクシアに丁重に仕えてくれる。皆、礼儀正しく、決して粗相のないよう気を遣っていることが伝わってくるが、どこか遠巻きに見られている感覚も否めない。

 伯爵家にいた頃のように、姉妹や母とおしゃべりをしながら和やかな食卓を囲むこともなく、屋敷の中を歩いていても厳粛で張りつめた空気ばかり。公爵家という格式の高さもあってか、全員が緊張感をもって仕事に臨んでいるようだった。これが“王家に次ぐ家柄”の重圧なのか、とレクシアは思い知る。


 初日は何もかもが物珍しく、広大な館内を案内されるだけで一日が終わってしまったが、その後、使用人たちやオルディスのサポートもあり、少しずつ日常の流れを掴み始める。

 レクシアはもともと人当たりが良く、相手の気持ちを汲むのが上手な性格だ。最初は委縮していた使用人たちも、彼女が積極的に声をかけ、失敗や疑問を素直に尋ねる姿勢を見せるうちに、多少は距離を縮めてくれるようになった。

 とはいえ、公爵家の人々――特に長く勤める侍女や従者――にとって、レクシアは突然やってきた「政略結婚の花嫁」に過ぎない。彼らが心の底から歓迎しているとは言い難く、口調こそ丁寧でも、まだ完全に打ち解けるには時間がかかりそうだった。


 そんなある日、レクシアは朝の食堂で軽い朝食をとり終えたあと、オルディスから声をかけられた。

「奥様、本日は領内の貴婦人方をお招きする日でございます。アングレード家の公爵夫人として、最初のご挨拶をされる機会かと存じますが……準備はよろしいでしょうか」

 これにはレクシアも少し驚いた。公爵家の夫人として社交界に顔を出す――政略結婚であっても、それが自分の務めなのはわかっている。しかし、まだダリオンとまともに話もできておらず、具体的にどのような立ち振る舞いをすればいいのかもはっきりしていない。

「ええっと……もちろん、私にできる限りのことをいたします。皆さまはどのような方々なのですか?」

「ご近所と言っても離れた領地の方や、王都に住まわれながら公爵領を訪問することが多い方など、さまざまでございます。代々アングレード家と親交のある方々が中心ですので、奥様がご結婚されたことをお祝いしたいとのことでした」

「そう……わかりました。私も、ぜひご挨拶したいと思います」

 自分が正式に「公爵夫人」として紹介される場である以上、粗相は絶対に許されない。レクシアは心の中でぎゅっと気を引き締めながら、オルディスに礼を言った。


 その後、侍女長がやってきて、レクシアの髪型やドレスを選びはじめる。伯爵家にいた頃よりもさらに豪奢な衣装や装飾品が取り揃えられており、目移りするほどの豊かさだ。

「公爵家の紋章が入った服飾もご用意できますが、初めての顔合わせですし、あまり威圧感のない装いのほうが好印象かと……いかがでしょうか」

 侍女長は、慎重な態度で相談を持ちかけてくる。レクシアは、これこそが「公爵夫人としての一歩」だと思い、できるだけ上品でありながら自分らしさも感じられるようなドレスを選んだ。色は優しいクリーム色に少しだけ金糸刺繍をあしらったもので、華やかさと落ち着きを兼ね備えている。

「とても素敵です。これなら、私も気負わずに皆さまとお話しできそうです」

 鏡に映る自分の姿にそう呟くと、侍女長は安心したように微笑んだ。


 昼下がり、広々とした応接室に貴婦人方が次々と到着する。華やかな衣装をまとい、上等な香水を纏った彼女たちは、それぞれに洗練された立ち居振る舞いを見せていた。中には年配の夫人もいれば、レクシアと同世代か、あるいはもう少し年上かと思われる女性もいる。

 初めて会う人々ばかりではあるが、皆が公爵家に深い縁を持っているからか、言葉遣いは丁寧で礼儀をわきまえている。しかし――レクシアが視線を向けると、その目は興味深げにこちらを値踏みするように輝いていた。

(公爵家の新しい夫人はどんな人間なのか、確かめたいのね)

 そんな思いがひしひしと伝わってくる。レクシアは微笑を崩さず、淑女の所作でお茶を振る舞い、親愛の言葉を交わしていく。娘時代に習った社交術をここで発揮する時なのだと、自分に言い聞かせた。


 「お初にお目にかかりますわ。わたくし、マリシア・フォンブリーズと申します。伯爵家のご令嬢だとかね、ずいぶんとお美しいと噂に聞いておりましたわ」

 にこやかな表情の中にも、さりげなくこちらを観察している気配がある女性が話しかけてくる。彼女は王都近郊の辺境伯家出身で、公爵家とは古くからの婚姻関係があるらしい。

「マリシア様、はじめまして。レクシア・アングレードと申します。こうしてお会いできて光栄ですわ。まだ至らないところばかりですけれど、どうぞよろしくお願いいたします」

 レクシアが微笑んで言葉を交わすと、マリシアは「まあまあ、謙遜なさらなくても」とやわらかな笑みを返してくる。

「ところで、ダリオン様とは仲睦まじく過ごしていらっしゃるのかしら? ご結婚されてまだ日が浅いとはいえ……噂に違わぬ“公爵夫妻”をみな楽しみにしているんですのよ」

 まるで試すかのような問いかけに、レクシアは内心でたじろぐ。まだろくに話もできていないとは、口が裂けても言えない。できるだけ無難な言葉で切り抜けるしかない。

「主人はお忙しい方ですので、なかなかゆっくり過ごす機会も少ないのです。でも、きっとこれから……ね」

 曖昧に言葉を濁すと、マリシアは少し目を細め、意味深な笑みを浮かべた。

「そうですわよね。ダリオン様は王宮でも大変重要なお役目を担ってらっしゃると伺います。あまり無理をなさらず、奥様もご自愛くださいませ。今後も公爵家の行事などでお目にかかれますよう、楽しみにしていますわ」

 そう言ってマリシアはカップを置き、隣の夫人と談笑を始める。

 (ああ、これが社交界……探り合い、牽制、噂話。私はここで“公爵夫人”として振る舞わなくちゃいけないんだわ)

 改めて、伯爵家の頃とは異なる緊張感を痛感するレクシア。結婚してからまだそれほど日は経っていないのに、すでにこうして周囲から好奇の目で見られている。それでも、自分を取り巻く環境を考えれば、これが当然なのだろう。


 数時間におよんだ貴婦人たちとの歓談は滞りなく進み、最後はレクシアが「本日はありがとうございました。またの機会にお会いできますことを願っております」と述べ、来客を送り出す形となった。

 客が帰り、応接室の扉が閉まると、レクシアはどっと肩の力が抜けるのを感じる。

「お疲れでしょう。奥様、少しお休みになられては?」

 オルディスが声をかけてくれる。確かに気疲れは大きいが、こんなことで参ってしまっては先が思いやられる。レクシアは、なんとか笑みを作って首を横に振った。

「大丈夫です。これも大切なお勤めですものね。今日、わたしはちゃんと皆さまに挨拶できていたでしょうか?」

「はい。完璧でございました。皆さま、奥様の穏やかで優雅な所作に感嘆されている様子でございましたよ」

「そう……そう言っていただけるなら良かった」

 先ほどまで張りつめていた緊張が少しとけ、思わず安堵のため息が出る。もっとも、自分ではまだまだだと感じることが多かったが、これが公爵家の当主夫人としての“始まり”なのだと肝に銘じた。


 その日の夕方、珍しくダリオンが早い時間に帰邸したとの知らせが届いた。いつもなら夜遅くか、あるいは深夜になることが多いのに、今日は夕食前には屋敷に到着するという。

 レクシアは、彼を迎えるために正面玄関へと足を運んだ。多くの使用人がずらりと並び、窓の外にはさっそく黒塗りの馬車が見えている。やがて馬車が停まると、従者が扉を開ける。そこから、冷たい空気をまとったまま、ダリオンが姿を現した。

「お帰りなさいませ、ダリオン様」

 レクシアは、一応夫人としての務めを果たそうと控えめに声をかけるが、ダリオンはちらりとこちらを見ただけ。

「ただいま」

 それっきりそっけなく答えただけで、足早に館内へ入ってしまう。まるで無言の壁があるかのようで、レクシアは悲しい思いを抱えながらも、少し遅れてダリオンのあとを追った。


 しかし、ダリオンはオルディスに何やら指示を与えたあと、そのまま執務室へと消えてしまう。レクシアは肩を落とすが、声をかける隙さえ与えられなかった。

 夕食の時間になれば少しは話せるかもしれない――そんな期待はあっさりと裏切られる。なぜなら、「本日は当主の要望により夕食を執務室に運ぶことになりました」と侍女から告げられたからだ。

(もしかしたら、私を避けているのでは……?)

 そんな疑念さえ浮かぶ。しかし今のレクシアに、ダリオンを問い詰める勇気もなければ、その立場もない。結婚の経緯自体が「家同士の契約」のようなもの。彼が心を開かないことを責められる立場にはないのだ。

 結局、レクシアは一人で食堂でディナーを済ませることになった。まるで、上辺だけの夫婦生活。いったいいつまでこんな日々が続くのだろう……。


 その夜、日付が変わる頃。レクシアは自室で読みかけの書物を手にしていたが、内容がまったく頭に入ってこない。寝ようにも気が高ぶって眠れず、ふと窓の外に目をやると、月が高く昇り、庭園を薄青い光で照らしているのが見えた。

「少し、夜の空気を吸ってこようかな……」

 そう呟き、薄い上着を羽織って部屋を出る。屋敷は静まり返り、廊下にはわずかに灯火だけが揺れている。こんな夜更けに夫人が出歩くのは不審に思われないだろうかと不安がよぎるが、逆に言えば誰にも見られずに庭を歩けるかもしれない。

 螺旋階段を降り、使用人たちの目を気にしながら静かに外へ出る。広い庭は昼間とは違い、月影に染まって幻想的だ。深夜の冷えた空気を感じながら、レクシアは緊張した胸を鎮めようとゆっくりと歩を進める。


 ふと、奥のほうに明かりが見えた。あそこは馬車や馬を管理する厩舎のあたりだろうか。こんな時間に誰かがいるのだろうかと思い、ほんの少しだけ好奇心が湧いてくる。

 近づいてみると、そこにはダリオンの姿があった。敷地の端にある小さな厩舎前で、彼は一頭の黒馬を撫でている。月明かりが漆黒の馬の毛並みを照らし、ダリオンの横顔を白銀に浮かび上がらせていた。いつもは冷酷ともいえる表情の彼だが、いまは馬に寄り添うように静かに微笑んでいるようにも見える。

 それは、レクシアが目にしたことのない、やわらかく優しい雰囲気だった。思わず声をかけるのを躊躇ってしまうほどに、二人きりの世界がそこにあった。

(あんな表情をするんだ……)

 しばし見惚れそうになるが、そっと視線をそらし、気づかれないように引き返そうとした――が、その瞬間、足元の小石を蹴ってしまった。カランという音が闇夜に響き、ダリオンははっとこちらを振り返る。


「……レクシア? こんな時間にどうした」

 ダリオンの声には怒気は感じられないが、驚いた気配が混じっている。

「あ、あの……少し眠れなくて、外の空気を吸いたくなっただけです。ご迷惑でしたら、すみません」

 慌てて弁解するが、ダリオンは微かに首を振る。

「迷惑じゃない。……馬が好きなのか?」

「え? 馬、ですか……」

 突然の問いに面食らう。レクシアは伯爵家でも馬車に乗ることはあっても、馬そのものに触れ合う機会は少なかった。ただ、小さい頃に乗馬の練習を少しだけした記憶はある。

「特に苦手意識はありません。でも、こんなに立派な黒馬を見るのは初めてかもしれません」

 そう言うと、ダリオンは馬の首筋を軽く撫でながら、微かに口元をほころばせる。

「こいつは“ナイトメア”という名だ。俺が王宮へ行くときにも乗る、相棒のような存在だよ。気性が荒く見えるが……慣れれば大人しい」

 その言葉に、レクシアは胸が弾むのを覚える。ダリオンの口調が、どこか優しげだったからだ。

「ナイトメア……とても立派ですね。近くで見ても大丈夫でしょうか」

「構わない。噛みつきはしないはずだ」

 許可を得て、レクシアはおそるおそる黒馬の顔に手を伸ばす。馬の大きな瞳がこちらを見つめ、鼻先から温かい息が漏れた。

「……すごい。大きい……」

 馬の体温を感じながら、レクシアは少しだけ笑みを浮かべる。すると、ダリオンが手綱を軽く引きながら、レクシアの横に寄ってきた。


「お前がここにいるなんて、珍しいな」

 ダリオンは言葉を選ぶように、低い声で続ける。

「眠れないなら、侍女に薬を頼めばいい。こんな真夜中に一人で外に出るのは危ない」

 口調は素っ気なく聞こえるが、その言葉にはわずかな気遣いが含まれているようにも感じられた。

「……すみません。でも、あなたがこんなところにいるなんて思わなくて。本当はすぐに部屋に戻るつもりでした」

 レクシアがそう言うと、ダリオンは一瞬だけ視線を下ろし、馬の耳元を撫でる。

「……時々、こいつと過ごすことで気持ちを落ち着かせている。公爵家の嫡男として仕事をこなすのは当然だが……どうしても頭が煩わしくなるときがあるからな」

 それは、ダリオンの本音だろうか。彼が自ら「自分の心の内」を語るなんて、レクシアにとっては初めての経験だった。

 (ダリオン様も、人間なんだ。当たり前だけれど、ちゃんと苦労している部分があるんだわ)

 そう考えると、少しだけ親近感が湧いてくる。


 ナイトメアは鼻を鳴らしながらレクシアの手をぺろりと舐め、彼女を歓迎しているようだった。レクシアはくすぐったさに笑みをこぼす。すると、ダリオンが小さく息をつく音が聞こえた。

「……夜風が冷たい。部屋へ戻ったほうがいい」

「はい。そうですね……あの、一緒に戻りましょうか」

 もちろん、そう提案して断られてしまうかもしれない。だが今のレクシアは、わずかなチャンスを逃したくなかった。

 しかし、ダリオンは馬具を整えながら「先に行っていてくれ。俺は厩舎を片付けてから戻る」と言うだけだった。

「そう……では、お先に失礼します」

 期待は空振りに終わるものの、今夜のダリオンの様子はいつもほどの冷たさはなかった――それだけで、レクシアの心には小さな灯がともる。

 (ほんの少しだけど、彼にも優しさがあるんだわ。私に対しても……いつか、もう少し心を開いてくれるかもしれない)

 思わずそう願わずにはいられなかった。


 翌日。レクシアは朝食をとろうと食堂に行き、侍女から「旦那様はすでに出発されました」と告げられる。いつものこと、と言えばそれまでだが、昨夜のことを思い出すと、少し寂しさが募る。

 だが、テーブルに腰を下ろした瞬間、目の前に見慣れない花束が飾られていることに気づいた。それは、薄いクリーム色のバラを主とした上品なアレンジで、淡いグリーンの小花が彩りを添えている。

「あら……? このお花、いつの間に……」

 侍女に訊ねようかと顔を上げると、彼女が控えめに口を開く。

「実は、今朝早く執事長が花屋に手配して取り寄せたようです。旦那様が“朝食のテーブルに飾っておいてくれ”とご指示されたとか……」

 それを聞いた瞬間、レクシアの心臓がどくりと高鳴る。ダリオンがわざわざ朝早くにこんな花束を用意するなんて、彼らしくない。もしかして、昨夜の出来事がきっかけで少しだけ気を遣ってくれたのだろうか。

「そう……ありがとうございます。とてもきれいですね」

 言いながら、レクシアは花びらにそっと指を触れる。柔らかな感触とともに、ほんのかすかな薔薇の香りが漂う。

 決して派手ではないが、繊細で優美なこの花は、まるで今のレクシアの心情を映し出しているようだった。ほんの少しだけ色づいた、優しい幸せの兆し。


 さらにその日の午後、レクシアは公爵家の図書室へ足を運んでいた。ここには歴代公爵や貴族たちが収集した膨大な書物が並び、学問書から詩集、さらには歴史資料まで様々な本が揃っている。伯爵家の図書室とも比べ物にならない規模で、一度ゆっくり見て回りたいと思っていた場所だった。

 古文書や帝国史の資料を興味深く眺めていると、扉が開き、オルディスが控えめに姿を現す。

「奥様、失礼いたします。実は、旦那様の書斎にある書物をお探しになられているのですが……もしお時間ございましたら、お手伝いいただけますでしょうか」

 ダリオンの書斎で使う本を探すらしい。書斎はダリオン専用の場所で、普段は彼が仕事をするために使っていると聞く。レクシアは少し迷ったが、自分にできることがあるならやってみたいという気持ちが勝った。

「ええ、わかりました。喜んでお手伝いします」


 オルディスに案内されて向かったのは、図書室のさらに奥にある書庫だ。そこには王宮から貸し出された公的な文書や、ダリオンが政務で使うであろう文献がきちんと整理されている。ただし量が多すぎて、オルディス一人では探すのに時間がかかりそうだ。

「こちらにある『王国行政改革史』という分厚い本を探しているのですが、見当たらなくて……表紙が深い緑色で、背表紙に金の文字が刻まれているはずです」

「わかりました。私も探してみますね」

 レクシアは周囲の棚を確認しながら、一冊一冊慎重に確認していく。貴重な資料が多いので、下手に乱雑に扱うわけにもいかない。

 しばらくして――古めかしい背表紙が目に止まる。金色で刻まれた文字はかすれているが、しっかり“王国行政改革史”と読める。かなり高い位置の棚に収まっているが、レクシアは手を伸ばしてなんとかその本を引き出そうとした。

 ところが、書物が想像以上に重い。ぐっと引き抜いた瞬間、隣の本も連鎖的に崩れてきて、レクシアは思わず体勢を崩しそうになる。

「あ……っ!」

 棚から雪崩のように数冊の厚い本が落ちかけた。その瞬間、誰かが後ろから腕を伸ばし、レクシアの身体をぐいっと引き寄せる。どさりという鈍い音が響き、本が床に散らばる。


 「大丈夫か」

 聞き慣れた低い声。驚いて振り返ると、ダリオンがこちらを支えるように腕を回していた。思わずレクシアは目を丸くする。

「ダ、ダリオン様……? いつから……」

「オルディスに書物を探してもらっていると聞いて、様子を見に来た。まったく……無茶をするな」

 ダリオンは呆れたようなため息をつきながらも、レクシアをしっかり抱きとめている。彼の体温や腕の力をじかに感じ、レクシアは激しく動揺する。

「す、すみません……私、手伝おうと思っただけなんです。でも、重い本がこんなにあるとは知らなくて……」

 慌てて弁明しつつも、ダリオンの腕の中にいるという状況に意識が集中し、冷静になれない。ダリオンはそんなレクシアの様子には目もくれず、周囲に散らばった本をオルディスに渡す。

「怪我がなくて何よりだ。これ以上は執事や使用人に任せればいい。君は……危ないことをするな」

 まるで主人が子どもを叱るように言うが、その声音にはわずかな安堵が感じられた。レクシアは気づかないふりをしながら、ありがとう、とだけ伝える。


 (ほんの少しだけど、ダリオン様が私を守ってくれた……)

 これが夫婦なら当たり前のことなのかもしれないが、レクシアにとっては初めての「庇われた」という実感だった。彼が自分を全く省みない存在だと決めつけていたけれど、決してそうではないのかもしれない。

 その後、ダリオンは無言のまま書物の埃を払い、必要な本を数冊手に取る。レクシアは胸が高鳴って仕方がないのに、それを悟られないよう、必死に平静を装う。

「……この本も必要なんですか? よろしければ私が――」

「もういい。わざわざ君に手伝わせる必要はない」

 ダリオンはぶっきらぼうにそう言い放つと、腕に抱えた本をひょいと持ち直す。だが、先ほどのわずかなやり取りが嘘のように淡泊な態度に戻ってしまった。

 レクシアは少し胸を痛めながらも、それでもあの一瞬の「守ってくれた」という事実が頭から離れない。彼には確かな力と、何より危機を救ってくれるだけの行動力がある――それが、今の自分には何よりも頼もしく思えた。


 夕暮れ時、レクシアは自室で身支度を整えていた。まだダリオンは執務室にこもり、夕食はいつものように別々になるかもしれない。けれど、もし今夜も少しだけ顔を合わせられるなら、そのときに何か話題を作りたい。

 特に、「ナイトメア」に関することならばダリオンも口を開いてくれるのではないか――そんな期待が心の片隅にある。

 昨日までなら、彼の不在や冷淡な態度に傷つくばかりだったが、今日はどこか浮き立つ気持ちを感じる。わずかながらダリオンとの距離が縮まった気がして、どうにも落ち着かないのだ。

(私、こんなにも彼のことを意識している……?)

 ふと鏡に映る自分の表情が、心なしか上気しているように見えて、レクシアは慌てて頬を押さえる。政略結婚だという現実は変わらないが、それでも希望を捨てきれない自分がいる。

 ――いつか、ダリオンの優しさや本心に触れられる日が来るかもしれない。昨日の花束や、厩舎でのやり取り、そして今日の書庫で見せた一瞬の行動が、そう思わせてくれる。


 夜になっても、ダリオンは執務室から出てこなかった。侍女の話では、王宮から届いた公文書の対応に追われているらしい。結局、レクシアは食事を済ませると、おとなしく部屋に戻り、読書をして時間を潰すことにする。

 不意に扉をノックする音が聞こえ、レクシアは本を閉じて「どうぞ」と声をかける。入ってきたのはオルディスだった。

「奥様、失礼いたします。……旦那様から連絡がございまして、本日は執務が長引くため夜分はお休みになられてよいとのことです」

「あ……そうですか。わかりました……」

 少し落胆を隠せないレクシアの表情を見たのか、オルディスは控えめに微笑んだ。

「旦那様も、こう見えて奥様を気にかけておられるかと存じます。何ぶん、表にはあまり出されないお方ですが……どうぞお気を落とされませんよう」

 その言葉に、レクシアは少しだけ救われたような気がした。


 「ありがとうございます。今はまだ、私が知らないだけかもしれませんしね。……彼の思いや、本当の姿を」

 そう呟くと、オルディスは穏やかな笑みを浮かべて深々と一礼し、退出する。レクシアは静まった部屋の中で再び本を開き、しかし文字を追うことには集中できないまま、思考をめぐらせる。

 ――ダリオン・アングレード。冷酷と言われる公爵家の嫡男は、しかし少しずつ“人間らしさ”を覗かせている。厩舎で見た優しい表情、書庫での一瞬の救いの手、そして無言のまま用意されていた朝の花束。そこには、確かに「無関心」とは思えない何かがあった。

 (もしかして、ほんの少しでも私に心を開こうとしてくれているのかな……)

 自分でも甘い期待だとは思う。それでも、希望があると思えれば、今の閉塞感に押しつぶされずに済む。

 レクシアはそっと瞼を閉じ、布団に身を沈める。頭の中に浮かぶのは、ダリオンの横顔と、彼が見せた刹那の表情。その思い出を大切に抱きしめながら、明日こそもう一歩近づけますようにと祈る。


 そうして訪れた夜明け。まだ薄暗い空が白みはじめたころ、レクシアは不思議とすっきりとした目覚めを迎えた。

 ――これから、どんな日々が待っているかはわからない。でも、昨日までとは違う一歩を踏み出せるかもしれない。そんな予感を抱きながら、レクシアはゆっくりと身支度を始める。

 たとえ形ばかりの政略結婚であっても、そこにかすかな“溺愛の兆し”があると感じられるのなら――レクシアは、まだ頑張れる気がした。

 少しずつ近づく二人の距離。それが温かな愛へと変わる未来を、彼女は信じたい。その想いが、まだ幼い恋心のように胸の中を甘く満たしていた。





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