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冷たい契約、燃える復讐
冷たい契約、燃える復讐
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月28日
公開日
3.2万字
連載中
――この結婚は、愛のない契約だった。 家族の借金の肩代わりとして、侯爵アルトゥールと政略結婚をした令嬢シエナ。 「これは純粋な契約だ」と突き放され、豪奢な結婚式の裏で始まったのは、冷え切った白い結婚生活。 けれど彼女は泣き寝入りしなかった。 悪意を向けるいとこ、孤独な生活、夫の無関心――すべてを見返すため、シエナは社交界で華麗な反撃を開始する。 そして気づく。冷たいはずの夫が、陰ながら自分を守っていたことに。 「もう、誰かの道具じゃない。私は、私の意思で生きる。」 これは、一度壊れた契約から始まる、本当の愛の物語――。

第1話 :契約の日

 朝靄がまだうっすらと王都の石畳を覆う頃、シエナ・オルディスは自室の窓辺に立っていた。寝台から起き上がるとすぐに、ほとんど無意識のまま、彼女は暗紫色のカーテンを開き放ち、まだ薄暗い外の景色を見つめていた。今日が自分にとってどんな日になるのかを改めて実感するために。


 冷たい空気が肌を撫で、彼女の身体は薄手の寝間着一枚では少し震えてしまう。それでもシエナは窓を閉めることなく、じっと遠方を見つめる。王都の街並みはどこか静寂に包まれ、朝日もまだ本格的には昇っていない。この一見穏やかな風景が、彼女の内心の嵐とあまりに対照的だった。


 ──今日、私は結婚する。

 それも、愛を誓い合った結果ではなく、まったく異なる理由によって。


 シエナは自分の手のひらを見下ろし、そっと握り締めた。冷たい汗がじわりと浮かんでいる。その理由とは、“オルディス公爵家”の莫大な借金を清算するための“契約”であることは、改めて口に出すまでもなく彼女自身が最もよく知っている。彼女が求めたわけではない。だが、彼女を取り巻く家族も、そしてその“契約”の相手となる相手も、誰一人としてシエナの意思を尊重しようとしなかった。


 「……今日で私は、ただの人形になるのね」


 自嘲気味にそう呟くと、寝台の横の小さな机に置いてあった鐘を鳴らす。少しして、執事が控えめにノックをしてから部屋の扉を開いた。

 「おはようございます、シエナ様。今朝はいかがなさいますか?」

 中年の執事は細く背筋を伸ばしたまま、丁寧に問いかける。彼は今日が特別な日であることを十分理解しているはずだが、その表情に余計な感情は一切ない。長年、公爵家に仕えてきた歴戦の執事であればこそ、奥方の内心に迂闊な言葉をかけることは慎んでいるのだろう。


 シエナはぎこちなく微笑んだ。

 「おはよう、ジャミル。……そうね、朝食は軽めにいただこうかしら。少し落ち着かなくて」

 ジャミルは静かに頭を下げる。

 「かしこまりました。すぐに用意させます。ドレスの準備は、侍女たちがもう済ませておりますので、奥様が朝食を召し上がった後にお呼びいたします」


 奥様──その言葉を耳にして、シエナはまだ慣れない響きに胸がざわついた。今夜から、シエナは“レガシス侯爵家”の当主であるアルトゥール・レガシスの“妻”として扱われる。彼女が思い描いていた理想の結婚とはまるで違う、冷たく硬い契約のもとで。


 ジャミルが部屋を出ていくと、シエナは一度大きく息を吐き、鏡台の前に腰掛けた。昨日の夜からよく眠れなかったせいで、目の下にうっすらとクマができている。だが、今日の結婚式はきっと多くの招待客と無数の視線に晒されることになる。悲壮感を表に出してはならない。そう戒めるように、彼女は少しだけ背筋を伸ばして自分の顔を見つめる。

 淡い茶色の瞳、少し青みがかった黒髪はゆるやかにウェーブを描いて肩を覆っている。それは公爵家の令嬢としてずっと大切に手入れされてきた髪だが、今日を境にどんな意味を持ってくるのだろうか。シエナは鏡に映る自分を見ながら、ひどく他人事のように感じていた。


 少ししてからノックがあり、侍女のリリアが朝食を運んできた。香り高い紅茶と軽めのパン、そして口当たりのよいスープ。どれもシエナの好物ではあったが、今日は食が進まない。けれど、空腹のままで式に挑んではきっと体力的にももたないだろう。彼女は無理やり口に運びながら、自分を落ち着けようとした。


 「シエナ様、ドレスの準備が整いました。お召し替えのお時間をいただいても?」

 リリアが遠慮がちに声をかける。彼女は年若い侍女でありながら、シエナにとっては数少ない心を許せる存在だった。しかし今日という日に限って、シエナはリリアにまで余計な感情を漏らす気にはなれなかった。なぜなら、どれほど親しい相手に話したところで、結婚の事実が覆ることはあり得ないのだから。


 「ええ、お願いするわ」

 シエナは小さく微笑み、リリアとともに隣の更衣室へと移動した。そこにはウェディングドレスが存在感を放って置かれている。白いシルクに銀糸の刺繍が美しく施され、光の加減で輝くような一着だ。貴族の結婚式ならではの豪奢な衣装は見る人を圧倒するが、当の本人であるシエナはなぜか遠い世界の出来事のように感じてしまう。


 「本当に……よくお似合いです、シエナ様」

 リリアが優しく髪をまとめながら、感嘆の息を漏らす。確かにドレスを纏ったシエナは、まるで絵画の中から抜け出してきた女神のようだろう。だがシエナは鏡に映る自分を見ても、心がまったく動かなかった。


 「ありがとう、リリア」

 そう答えはするが、笑みはどこかぎこちない。もはや華やかな衣装に喜ぶような少女ではいられない。今日から彼女は――“契約の花嫁”になるのだ。


 支度が終わり、指定された時間に合わせて馬車に乗り込むと、車窓の外にはすでに朝の光が降り注いでいた。王都の中心部に建つ聖グロリア大聖堂へと向かう道は、祭典かと思えるほどの人だかりで賑わっている。公爵家と侯爵家の結婚式ともなれば、それは社交界にとっても大きな関心事だ。華美な馬車が連なり、人々が花を手に歓声を上げる。その浮かれた雰囲気が、なおさらシエナの胸に深い影を落とした。


 ──自分の意志とは無関係に、こんなに大勢の人々が祝福しているように見える。

 シエナは複雑な思いで、馬車の揺れに身を任せる。道行く人々から「公爵令嬢シエナ様、お美しい!」「おめでとうございます!」と声がかかっているのが聞こえるが、それを素直に喜べるような状況ではない。ただ、礼儀として、車窓からそっと小さく手を振るにとどめた。


 しばらくして馬車が大聖堂の前に到着すると、厳かな鐘の音が響き渡った。その音色は澄んだ青空に高く広がり、結婚式の開始を告げる。降り立ったシエナの周囲には、すでに侍女や従者たちが控えており、彼女をエスコートすべく待ち構えていた。こうした盛大な演出こそが貴族社会の儀式なのだと理解していても、シエナは今すぐにでも逃げ出したい衝動を抑えきれなかった。


 入口まで続く長いレッドカーペットの両端には、花束を抱えた子供たちが列を成し、シエナが進むたびに小さな手で花びらを撒く。周囲の貴族客たちは「美しい」「まるで人形のようだ」と囁き合っているが、その言葉を聞くたびにシエナの心は痛んだ。まさに“人形”としてしか見られていないようで。


 大聖堂に足を踏み入れると、壮麗なステンドグラスから差し込む淡い光の中に、アルトゥール・レガシスの姿が浮かんだ。高い天井を仰いでいるようにも見えるが、彼はまるで氷の彫刻のように微動だにしない。その切れ長の瞳は、扉のほうを向いてはいるものの、そこには何の感情も映っていなかった。


 アルトゥール・レガシス──今日、シエナが“契約”によって結ばれる相手であり、レガシス侯爵家を継ぐ若き当主。年齢はシエナよりやや上だが、その表情は常に冷ややかで、周囲に近づき難い空気を漂わせている。

 王都においては有能な政治家であり、財政面でも多くの功績を上げていると聞くが、その実像を正確に知る者は少ないといわれる。それほどまでに彼は自分を表に出さず、あらゆる人間関係を利害で測る冷徹な性格だと噂されていた。シエナがこれまでに数回会った印象も、まさにその噂通りだった。


 ──この人と夫婦になる。それがどれほど虚しいことなのか。


 シエナはその場に立ち尽くしたまま、胸が苦しくなるほどの圧迫感を覚えた。父であるオルディス公爵はすでに前方の列に座り、花嫁の到着を見守っている。彼の視線にも温かな慈しみはない。むしろ“これでオルディス家が救われる”という安堵感が見え隠れしているようで、シエナの心はひと際冷え込む思いだった。


 やがて聖職者の高らかな声が響く。

 「皆様、神聖なる結婚の儀を取り行うため、お集まりいただき誠にありがとうございます。シエナ・オルディス殿、アルトゥール・レガシス殿、こちらへ」


 促されるまま、シエナはゆっくりと祭壇へと歩みを進める。アルトゥールの隣に立つと、彼の瞳が一瞬だけ動いたように思えた。しかしそれだけで、挨拶の言葉すらない。シエナの胸には不安と諦念が交錯する。


 聖職者は式辞を述べ、二人の家系や結婚の意義について形式ばった言葉を続けた。シエナは上の空だった。頭の中ではずっと、これから自分が歩むことになる道を想像しては、そのあまりの冷たさに恐怖している。


 やがて、誓いの言葉を交わす場面となる。

 「アルトゥール・レガシス殿、貴方はシエナ・オルディス殿を正妻として迎え、健やかなるときも病めるときも変わることなく……」

 定型文を読み上げる聖職者の声だけが大聖堂にこだまする。アルトゥールはまるで人形のように微動だにせず、さりとて感情的になる様子もない。

 「……貴方の愛を注ぎ続けることを誓いますか?」


 この問いに、アルトゥールは少しの沈黙の後、はっきりとした声で「誓います」と告げた。それは情熱や愛情が籠もった響きではなく、あくまで儀礼としてのものでしかない。にもかかわらず、周囲の貴族たちは歓声を上げ、まるで感動の名シーンのように受け止めている。シエナはその光景を、どこか現実味のないものとして眺めていた。


 聖職者は次に彼女へ向き直る。

 「シエナ・オルディス殿、貴女はアルトゥール・レガシス殿を正妻として……」


 ここでも同じ形式的な問いが投げかけられる。シエナは胸の奥に、まるで燃えさしのような痛みを感じながら、答えざるを得なかった。

 「……誓います」


 その瞬間、周囲の拍手が一斉に沸き起こった。歓声と拍手、それに花びらが舞う華やかな世界。しかしシエナにはすべてが耳障りに感じられる。これが“幸せな結婚”のはずがないことを、誰よりも自分自身がわかっていたからだ。


 指輪の交換と契約書への署名を経て、ついに二人は正式に“夫婦”と宣言される。だが、アルトゥールとシエナが一度たりとも視線を合わせることはなかった。たとえ周囲が祝福の言葉をかけようとも、それを真に喜ぶ者はどこにもいないように思えた。


 式が終わり、大聖堂を出るときには、さらに多くの人々が待ち構えていた。華麗な馬車が再び出迎え、シエナたちはそこに乗り込む。拍手喝采が途切れることなく続く中、馬車の扉が静かに閉められた。車内にはアルトゥールとシエナ、そして最低限の従者しかいない。


 アルトゥールは奥の席に腰を下ろし、何か書類のようなものに視線を落としていた。まるで仕事に戻ったかのように、彼にとってこの結婚はただの手続きに過ぎないのだと見せつけるようだった。シエナはその姿を横目で見つめ、喉の奥に言葉にならない怒りを覚える。


 ──こうして私は、ただの契約で手に入れられた“花嫁”として扱われるのか。

 そう自問したとき、ふと父の顔が脳裏に浮かんだ。

 「シエナ、お前なら大丈夫だろう。オルディス家の将来はお前にかかっているのだ」


 あのとき、父はそんな言葉を口にした。そこに娘を思う優しさなどは微塵も感じられなかった。むしろ、オルディス家という家名を守るための“犠牲”としてシエナを差し出しているに過ぎない。彼女には逃げる術などなかった。もし拒めば、オルディス家は財政破綻を起こし、家族全員が没落してしまう。あまりに現実は非情だった。


 馬車はレガシス侯爵家の広大な屋敷へと向かう。道すがらアルトゥールは一度もシエナに言葉をかけなかったし、視線すら合わせない。まるで彼女がそこに存在しないかのようだ。窓の外には、盛大な祝福ムードに包まれた王都の街並みが流れていく。赤やピンクの花飾りが立ち並び、市民たちが手を振りながら口々に「おめでとうございます」と叫んでいる。だが、その声はシエナの耳には虚しく響くだけだった。


 ――どうせ、表面的な祝福に過ぎない。誰も私の心の底など考えもしない。

 彼女は思わず拳を握りしめる。自分にできることはあるのだろうか。これから先、ただ黙って受け身のままでいたら、本当に人形と化してしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたい。そう思い始めたとき、馬車が緩やかに止まった。


 「……着いたようだな」

 珍しくアルトゥールが声を発した。それは結婚して初めて彼が彼女に向けた言葉だったが、まるで事務的な報告のようで、温かみは皆無だった。扉が開き、従者が恭しく階段を下ろす。アルトゥールが先に降り、続いてシエナが足を運ぶと、そこには見上げるほど広大な庭園と、白亜の屋敷がそびえ立っていた。レガシス侯爵家の本邸は、王都でも屈指の規模を誇ると聞いていたが、その壮麗さは想像以上だ。


 しかし、目の前に広がる華やかな景色も、シエナの心を躍らせることはなかった。むしろ、自分が踏み入れた世界はどれだけ眩しくとも、そこには暗い影しか感じられない。これから過ごすことになる生活を思うと、気が滅入るばかりだ。


 「ようこそ、我がレガシス家へ」

 玄関先で待っていたのは、屋敷の執事長と侍女長らしい老齢の男女だった。彼らはシエナを“奥様”と呼び、丁重に挨拶する。その間、アルトゥールはすでに書斎へ向かったのか、いつの間にか姿を消している。まるでこの結婚式の新婦など眼中にないとでも言わんばかりだ。


 執事長に案内されるまま、長い廊下を進み、奥まった場所にある居室が彼女の部屋だと告げられた。扉を開くと、あまりに広い空間が広がっており、豪奢な調度品の数々が並んでいる。公爵家の自室も十分に広かったが、ここはその倍以上だろう。

 「奥様、何かご不明な点がございましたら、いつでも私どもにお申し付けください。ご結婚、おめでとうございます」

 執事長は深々と頭を下げ、ドアを静かに閉めた。


 シエナは辺りをぐるりと見回したが、自分の居場所がどこにもないように感じた。部屋の中央には柔らかそうなソファがあり、壁際には大きなベッドが鎮座している。どれも最高級の品なのは一目でわかる。しかし、まるで心がそこに追いつかない。


 ──私は、ここで暮らしていくのだろうか。あの冷たい人と夫婦として?

 そう思うと、気力が失せてベッドの端に腰掛ける。結婚式の衣装を着たままでいるのが息苦しく感じられた。侍女を呼び出して、早く着替えたいと思うが、今は誰とも話す気になれない。心の重さが蓄積されて、息をするのもつらいほどだった。


 しばらくすると、ドアがノックされる。返事をする前に、アルトゥールが何の前触れもなく部屋に入ってきた。彼の視線は相変わらず冷たい。

 「部屋の様子はどうだ?」

 いかにも形式的な問いに、シエナは思わず唇を噛んだ。

 「……立派な部屋だと思います」

 彼女の返事もまた素っ気ない。するとアルトゥールは軽く頷いただけで、続けて言った。

 「今夜は披露宴がある。形式上、夫婦として客前に並ばなければならない。準備は怠らないように」


 その言いように、シエナの胸に棘が刺さるような痛みが走る。結婚式に続いて披露宴というのは貴族の常だが、その場でも愛の証を見せつけるような演出を求められるに違いない。でも、この男は愛など微塵も感じていないくせに、どう振る舞うつもりなのだろう。

 そう思ったが、口に出すことはできなかった。彼女が問い詰めたところで、アルトゥールは“契約”という言葉を盾にするだけだとわかっていたから。


 「わかりました。準備は……しておきます」

 気力のない声で答えるシエナを一瞥して、アルトゥールは踵を返した。結婚して初めての会話が、このように機械的で無機質なものだとは、シエナもさすがに想像していなかった。彼が部屋を出て行くと、ドアが閉まる音がやけに大きく響き、シエナは思わず肩を震わせる。


 「……私の価値なんて、所詮この程度なのね」

 呟いた声は虚空に溶ける。彼女はこのまま人形のように扱われ、誰かの都合のいい駒として人生を終えるのだろうか。父ですら彼女を守ろうとはせず、アルトゥールも彼女を愛すらしない。

 だが、その一方で、彼女の胸の奥には微かながら“怒り”が宿り始めていた。押し潰されそうなほどの無力感の中で、かすかに燃え上がる炎。

 ──いつか、私が報いを受けさせてやる。このまま黙ってはいないわ。


 その感情は、彼女が初めて“自分の意思”を鮮明に意識した瞬間だった。オルディス家に生まれたからというだけで背負わされる宿命や、侯爵家の道具として利用されることへの憤り。もしすべての人間が自分を利用するばかりならば、いつか必ずこの状況を逆手に取り、彼らを思い通りに翻弄してやる――そんな決意が、シエナの中で密やかに芽生えていたのだ。


 夕刻になり、披露宴の時刻が近づいてきた。シエナは侍女たちに手伝ってもらいながら、華やかなドレスに着替える。昼間のウェディングドレスとはまた違い、胸元や裾に繊細なレースがあしらわれた淡い水色のドレスだ。背中には銀の糸で細工された美しい刺繍が施されている。

 「奥様、とてもお似合いです」

 侍女の言葉にもどこか力がないのは、シエナの表情が絶望的だからかもしれない。それでも、恥をかかぬよう最低限の身だしなみは整えなければならない。きらびやかな貴族社会の目は厳しいから。


 決められた時間になり、使用人たちにエスコートされて大広間へと向かうと、そこではすでに多くの招待客が歓談を楽しんでいた。大きなシャンデリアに照らされた会場はまるで昼間のように明るく、至るところに花々が飾られ、テーブルには贅を尽くした料理が並んでいる。その中心に立つべき存在として、シエナは視線を痛いほど感じる。


 「お待たせしました、シエナ」

 背後から低い声が聞こえ、振り返るとアルトゥールが立っていた。黒の礼服を身にまとい、侯爵としての威厳を放っている。周囲の賓客たちは彼を見れば一目で立派だと称賛するだろう。だが、シエナはその冷徹な瞳を見て、改めて重い現実を突きつけられた思いがする。


 「アルトゥール様、お待ちしておりました」

 できるだけ穏やかな声を作り、シエナは微笑む。すると彼は形式的に腕を差し出し、彼女をその腕に添えさせた。これが“夫婦”を演じるためのポーズなのだと思うと、シエナはやりきれない気持ちになる。


 すると賓客たちは盛大な拍手とともに声をあげた。

 「おお、なんとお似合いのご夫婦でしょう!」

 「さすがレガシス侯爵とオルディス公爵令嬢、まさに華やかな組み合わせですな」


 その賛辞の言葉を聞くたび、シエナは胸が痛む。まるで舞台の上で台本通りに演技をしている役者のようだ。アルトゥールも相変わらず冷え切った表情で、隣のシエナを見ることもなく、賓客に挨拶を返している。

 やがて主賓のスピーチが始まり、続いて音楽隊の演奏が場を盛り上げる。人々は酒宴に興じ、美食を堪能しているが、シエナは料理にほとんど手をつけることなく、周囲への対応に追われていた。


 「新婦のシエナ様、おめでとうございますわ。まさかこんなに早くご結婚されるなんて」

 どこかの伯爵令嬢が軽く皮肉めいた言葉をかけてくる。シエナは微笑みを保ちながら、受け流す術を心得ていた。公爵令嬢として長年社交界に身を置いた経験が、この場面でも役に立つ。しかし、その伯爵令嬢が去ったあと、シエナは自嘲気味に思う。

 ──結婚を急いだのは私の意思じゃない。私だって、好きな人を見つけて幸せになりたかった。


 宴は華やかなまま、深い夜まで続いた。最後までアルトゥールと会話することはほとんどなかったが、周囲からは「仲睦まじいご夫婦」という認識を持たれてしまった。皮肉なものだ。彼が少しだけシエナの肩に触れたり、微笑みを浮かべるようなそぶりを見せたのは、全ては賓客たちの視線を意識してのことに過ぎない。


 ようやく披露宴が終わり、使用人に導かれてシエナが自室へ戻ろうとすると、廊下でアルトゥールが声をかけてきた。

 「今夜は疲れただろう。明日からは君の好きに過ごしてかまわない。ただし、レガシス侯爵家の名に恥じぬよう、その点だけは肝に銘じてくれ」

 まるで他人行儀な言葉に、シエナは思わず切り返したくなった。しかし彼女は唇を引き結んで、ただ静かに頭を下げるだけで終わった。


 部屋に戻り、侍女にドレスを脱がせてもらうと、重圧から解放されて体がぐったりとソファに沈む。まるで魂が抜けたようだ。

 ──本当に、これが私の“結婚”なの?


 窓の外を見やると、夜の闇が濃く屋敷を覆っている。この先、自分が迎える朝はどんなものになるのだろう。思い描いていた幸せな結婚生活とはかけ離れた現実がある。だが、シエナはすでに投げ出すことはできない立場だ。オルディス家の借金問題という重い鎖が、彼女を縛りつけている。


 寝台に倒れ込むように横になり、シエナは天井を見上げた。暗がりの中で見えるはずもないのに、そこには自分の行く末を暗示するかのような漆黒が広がっているように感じる。しんと静まり返った部屋の中で、ふと気づけば涙が頬を濡らしていた。


 「私の人生って、一体なんだったの……」


 声に出すと、余計に虚しさが増幅する。それでも口を閉ざせなかった。誰にも聞かれたくはないが、誰かに救いを求めたい気持ちが確かにあるのだ。そんな矛盾だらけの感情を抱え、シエナは浅い眠りへと落ちていく。


 ──こうして、シエナ・オルディスはアルトゥール・レガシスとの“契約の日”を迎えた。

 煌びやかな祝福も、盛大な披露宴も、すべては外見だけを取り繕った飾りに過ぎない。そこに愛は存在せず、あるのは“借金の清算”と“政略”という冷たい目的だけ。シエナは自らの誇りを失わぬよう、必死で心を保ち続けていたが、この結婚がもたらす今後の日々は、想像以上に過酷なものになるだろう。

 しかし、その冷たい契約生活の奥には、やがてシエナが知ることになる“真意”や、暗躍する者たちの思惑が潜んでいることは、まだ彼女自身も知る由もなかった。


 すべてが始まった、契約の日。

 この日を境に、シエナの運命は大きく軋みながら動き始める。孤独と苦悩の先に、一体何が待ち受けているのか。白いドレスの輝きとは裏腹に、彼女の未来は薄闇に包まれていた。だが、その奥底でひそかに燃え上がる復讐心が、シエナをただの“犠牲者”では終わらせない。

 彼女が最初の夜を過ごし、まぶたを閉じたその時から、すべての歯車は静かに回り出したのだ。これが、白くも冷たい結婚の幕開けである。






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