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第2話 :氷の生活

 朝の光が薄く差し込むレガシス侯爵家の屋敷。その東側に位置する客間の一角を改装した部屋が、結婚後のシエナの居室である。

 大理石の床に優美なカーペットが敷かれ、壁には繊細な花柄の壁紙が貼られている。窓辺には高価なレースのカーテンが垂れ、大きなソファにはふかふかのクッションが並ぶ。眩いほどに豪奢な調度品が揃えられているが、そこに暮らすシエナの心は相変わらず寒々しいままだった。


 あの日、“契約の結婚式”を終えてからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。しかし、夫であるアルトゥールは滅多に屋敷に帰ってくることはなかった。帰ってきたとしても深夜に書斎へ直行し、明け方にはまた出て行ってしまうことが多い。朝食の席や夜の食卓を共にしたことなど、指で数えるほどすらない。ほとんど顔を合わせない夫婦関係。

 もちろん、愛のある夫婦とはほど遠い。むしろ、書面の上でのみ繋がれた“契約の相手”という言葉がぴったりだった。屋敷の使用人たちも、この状況を暗黙のうちに理解しているようで、シエナに対しては丁重ながらもどこか他人行儀。女主人に仕えるというよりは、「アルトゥール様の方針に従って放っておく」という態度がうかがえた。


 今朝もまた、シエナは一人で広いダイニングテーブルに向かっている。長いテーブルの端に座ると、侍女のリリアがスープと温かいパンを運んできた。いつものことながら、レガシス家の食卓は料理の質がすこぶる高い。フルーツやサラダの彩りも美しいが、それを眺めるシエナの目には生気が感じられない。


 「今日もアルトゥール様はお出かけでしょうか?」

 リリアが小声でそう訊ねるが、シエナに答えはない。アルトゥールが何をしているかなど、彼女に知らせが来ることはほとんどないのだ。必要最低限の伝言が書面で届くことはあっても、直接言葉を交わすなど夢のまた夢である。


 「……そうみたいね。執事からも特に聞いていないし」

 箸休め代わりにスープの表面を眺めながらシエナが返事をすると、リリアは寂しげに目を伏せる。リリアはシエナが結婚前から仕えていた侍女であり、王都でも数少ない友人に近い存在だ。シエナの心境を慮りながらも、どうにもならない状況に歯がゆさを覚えているのだろう。


 朝食を終えるとシエナは自室へ戻り、予定らしい予定もないままに机へ向かった。侯爵家の当主夫人という肩書きがあれど、実質的に“するべき仕事”が与えられているわけではない。城下町の孤児院や病院へ寄付をする行事などはアルトゥールが一人で執り行っているようだし、財務関連の管理は優秀な執事が取り仕切っている。シエナはそれらに一切口を出す権限を持たないまま、ただ「レガシス家の名に恥じぬように生きる」ことを求められているだけである。


 ──私は一体、何のためにここにいるのだろう?

 そんな疑問が頭をもたげるたび、シエナは無性に悔しさを覚える。父の命令で結婚させられ、そして冷え切った新生活に放り込まれ、ただ孤独を噛みしめる日々。侯爵家の嫁として振る舞うことが“務め”だとわかってはいても、その実感がまるで湧いてこない。


 机の上に置かれた日記帳のページをめくり、筆を手に取る。結婚式の日から始めたこの日記は、まるでシエナの心の支えのような存在だった。今日起きたこと、考えたこと、感じたことを淡々と綴る。誰にも見せるつもりはないが、“自分が確かにここに生きている”という証を残しておきたかったのだ。

 ──ただ、最近は綴るべき出来事がほとんどない。シエナは一瞬ペン先を迷わせながら、今朝もまたアルトゥールと顔を合わせなかったことを、簡単に書き留める。ついでにリリアの様子や、屋敷の裏庭に咲いた花のことなど、本当に些細なことだけ。

 それでもペンを走らせていると、心がわずかに落ち着く気がする。寂寞とした時間の中で、自分を保てる唯一の習慣だった。


 こうして午前中をやり過ごし、昼食後には図書室へ向かうのがシエナの定番だった。レガシス家の図書室は広大で、貴重な古書や各国の歴史書、最新の政治経済の資料などが数多く保管されている。そこにはいつ行っても使用人の姿が見当たらないのを幸いに、シエナは読みたい本を手に取り、奥のテーブルに腰を下ろす。

 読書の最中だけは、彼女は現実を忘れ、物語の世界に没頭することができた。だが、今日の彼女は本に集中しきれない。ページをめくっても頭に入ってこず、何度も同じ行を読み返してしまう。

 ──このままでは、私の心は乾いていくばかりだわ。

 そんな漠然とした不安に苛まれながらも、シエナは必死に意識をつなぎ止めようとする。せめて、時間を有意義に使う手段を見つけなければ、このまま“幽閉”のような生活に押し潰されてしまうかもしれない。


 すると、図書室の扉が開き、使用人が申し訳なさそうに顔を出した。

 「奥様、申し訳ありません。先ほど、オルディス公爵家の方からお使いの者が参っておりまして……」

 オルディス家。つまり実家からの使者だろうか。シエナの胸が一瞬ざわつくが、彼らが自分を気遣ってくれる可能性は低い。むしろ金銭や何らかの便宜を求めてくるかもしれない、と嫌な予感が走る。

 「……わかりました。案内してちょうだい」

 使用人に従って図書室を出ると、来客用の応接室に案内された。そこには、オルディス家の執事補佐を務める男が恭しく頭を下げて待っている。


 「奥様、大変ご無沙汰しております。ご結婚後のご様子を拝見できて、私どもも安堵しております」

 口先ではそう言いながらも、彼の視線には明らかな計算高さが滲んでいた。案の定、次に出てきた言葉はシエナの予想を裏切らなかった。

 「さて、実はオルディス公爵が少々立て込んでおりまして……以前の借金の一部返済について猶予を願いたく、このように伺った次第です」

 要するに“さらに金が要る”ということ。レガシス家は資産家だという噂が広まっている以上、オルディス家としてはあの手この手で援助を引き出したいのだろう。シエナの心には怒りと呆れが入り混じった感情がこみ上げる。

 「私にそんな権限はありません。アルトゥール様に直接話を通していただくしか……」

 そう答えると、執事補佐は薄く笑い、恐縮するふりで続けた。

 「そこを奥様のお力で、ぜひお取り次ぎいただけないでしょうか。アルトゥール侯爵は大変お忙しいと伺っており、なかなかお会いする機会がございませんので……」


 まるで、シエナがアルトゥールを自由に動かせると思っているかのような物言いだった。だが実際には、シエナは彼の予定を一切把握していない。アルトゥールと対話する機会さえほぼ皆無なのだ。

 ──本当に、どいつもこいつも私を“利用”することばかり考えている。

 虚しくなる思いを押し殺しながら、シエナは当たり障りのない返答をした。

 「……わかりました。できる限り伝えてみますが、確約はできません。アルトゥール様の判断次第ですので」

 これ以上は何も約束できない。それを理解しているのか、執事補佐はそれでも満足げに頭を下げ、礼を言ってから帰っていった。


 その晩、アルトゥールはやはり帰宅しなかった。屋敷の使用人に尋ねても「何も存じ上げません」の一点張り。結婚から一ヶ月が経とうとしているのに、夫の行動を誰も把握していないという事実が、ますます奇妙でありながらも、シエナにとっては半ば諦めに似た感情を呼び起こすだけだった。

 結局、オルディス家の要件を伝えようにも、本人に会えないのではどうしようもない。そんな堂々巡りの思考がシエナの脳裏をぐるぐると回り続けた。


エリサの嫌がらせ


 翌週、社交界で開かれる夜会に、シエナにも招待状が届いた。主催は伯爵家の令嬢で、王都の若い貴婦人たちが多く集まる華やかな社交の場である。レガシス侯爵家の正妻となったシエナには当然のように出席要請が来るが、彼女自身は乗り気ではなかった。

 ──行けば行ったで、何を言われるかわからない。それでも、断り続けると“社交界を軽視している”と批判される。


 貴族の身分というのは面倒だと改めて感じながら、当日の夜、シエナは仕方なく馬車に乗り込んだ。アルトゥールはもちろん同行しない。“公の行事”でもない限りは、彼が妻の付き添いをすることなど皆無に等しいのだ。

 会場に着くと、煌びやかな装飾と甘い香りが充満していた。ドレスをまとった貴婦人や令嬢たちがシャンデリアの下で笑いさざめき、まるでそこだけが別世界のような熱気に包まれている。一方、シエナの胸は相変わらず冷えきったままだ。


 会場を一通り見渡したところで、不意に聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

 「まあ、シエナったら、相変わらず素敵なドレスを着ているわね」

 声の主は、いとこのエリサ・ベルモンドだ。シエナとは同い年で、実家が伯爵家の分家筋にあたるため、幼少期から顔を合わせることは多かったが、仲が良いとは言い難い間柄である。むしろ、エリサはシエナへの嫉妬心を隠そうとせず、何かにつけて侮辱や中傷を浴びせてくる存在だった。


 「エリサ……ごきげんよう」

 最低限の挨拶を返すシエナに対し、エリサは意地の悪い笑みを浮かべる。

 「ご結婚、おめでとう。もっとも、あまり夫婦でお出かけしている様子は見ないわね。もしかして“冷たい関係”なのかしら?」


 彼女の高飛車な口調に、周囲の貴婦人たちが面白そうに耳を傾けるのが見てとれる。シエナはあからさまな挑発に乗せられまいと努めて平静を装った。

 「アルトゥール様は公務でお忙しいの。いつも屋敷にはいらっしゃらないから」

 そう答えると、エリサはますます口角を吊り上げる。

 「まあ、お忙しいのはわかるけれど、たまには夫婦で過ごさないと、ただの“家政婦”扱いになってしまわない? それともあなた、もう既に……」


 まるでシエナを嘲笑うかのように言葉を切り、意味深に微笑むエリサ。その場の令嬢たちはクスクスと笑い、シエナの胸にチクリとした痛みを走らせる。噂好きな貴婦人たちは、すでにあちこちでシエナ夫妻の“すれ違い結婚”を面白がっているに違いない。


 だが、シエナはこの程度の嫌がらせに屈しない。もとより、オルディス家で公爵令嬢として数々の貴族社会の洗礼を浴びてきた。理不尽な中傷にも慣れている。相手の思う壺に陥るわけにはいかない。

 「ご心配ありがとう、エリサ。けれど、私たちなりに夫婦としてうまくやっているわ。あなたが想像するような“冷たい家政婦”関係ではないの」

 それだけはきっぱりと言い切ると、エリサは一瞬表情をこわばらせたが、すぐににやりと笑みを返す。

 「そう。ならばいいのだけれど、もし何か困っていることがあれば、いつでも私に相談してね? あなたにとって頼れる身内って、もうオルディス家くらいしかいないでしょうから」


 嫌味と見下しが混ざった視線を投げかけ、エリサは取り巻きの令嬢たちを引き連れて去って行った。背後に残されたシエナの耳には、彼女たちの嘲り笑う声が微かに響いている。

 ──まったく……。

 内心でため息をつきながらも、ここで感情を剥き出しにするわけにはいかない。シエナはそのまま夜会の片隅に移動し、出された果実酒を一口だけ飲んで気持ちを落ち着けようとした。

 社交界とは、こうしてわずかな綻びを執拗につついては面白がる場でもある。家同士の政略や陰謀が渦巻く世界で、シエナは今、物理的にも精神的にも孤立しているのだ。オルディス家の援助を当てにできるわけでもなく、夫も頼れない。唯一の味方といえば、侍女のリリアや友人のライラくらいだろう。


 そのライラ・クロノスも、今夜は別の行事があるとかでここには来ていない。シエナは一人でエリサらの嘲弄を受け流しながら、形だけの交歓をこなしていた。こんな状況では、せめて早く帰りたいと思うのも無理はない。


疑問と孤独


 夜会を早々に辞して屋敷へ戻ってきたものの、深夜を迎えた広い邸内はひっそりと静まり返っている。玄関先で出迎えた侍女にアルトゥールの帰宅状況を尋ねるが、やはり「いいえ、まだお戻りではございません」との答え。シエナはコートを脱ぎ捨てるように部屋へ向かいながら、大きな苛立ちを覚えた。


 ──どうして私は、こんなにも孤独な思いをしなければならないの?

 気がつけば、怒りよりも悲しみが先に立つ。それでも誰にも頼れず、一人で夜の廊下を歩く足音だけが虚しく響く。部屋に戻ってドアを閉めた瞬間、シエナはソファに崩れ込んだ。着飾っていたドレスが少し皺になるが、そんなことは構わない。こうして身を丸めてしまえば、自分がこの広い空間に取り残されていることをごまかせる気がした。


 「何もかも、思い通りにいかないわ……」

 低く呟く声に、当然ながら返事はない。屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、こんな夜更けに彼女の嘆きを聞いてくれる者はいない。夫であるアルトゥールさえも。

 それでも、このまま手をこまねいていては、自分が壊れてしまう。エリサからの嘲りに対して反撃する気力すら失ってしまうだろう。シエナは深い孤独を必死に振り払うように、ソファから体を起こし、再び机に向かった。

 そこに置いてあるのは、侯爵家の財務に関する書類の一部だった。以前、図書室で偶然見つけた過去の決算報告書などをまとめて取り寄せ、少しずつ目を通していたのだ。


 ──なぜ、私がこんなことをしているの?

 自問しても、自分で答えはわかっていた。アルトゥールとの結婚は形だけだが、このまま何もしないでいれば、いずれ本当に“ただの飾り”で終わってしまうと思ったから。それに、オルディス家の借金問題もくすぶったままだ。いつか自分が動かなければ、誰も本気で助けてくれはしない。

 結婚式の日からずっとシエナの胸にこびりついているのは、“自分を利用してきた人間への復讐”という思いだった。その相手はもちろんエリサだけではない。父を含むオルディス家も、アルトゥールも、みなシエナを道具として利用しようとする者たちばかり。ならば、いずれ自分の価値を彼らに思い知らせてやる。それがシエナにとっての唯一の指針となりつつあった。


 「……アルトゥールは何を考えているのかしら」

 口に出してみても、答えは闇の中。けれど、最近シエナは不思議な噂を耳にしていた。アルトゥールが街の孤児院や小規模の病院へ資金援助をしているという話。そして、その事実を極力表に出さないようにしているらしいのだ。

 あれほど冷酷そうに見える彼が、なぜそういった慈善活動に関わっているのだろう? 実家の負債を抱えたまま嫁いだ自分には、理解できない行動だった。もっとも、アルトゥールが本当に“慈善の心”を持ち合わせているとは限らない。何か政治的な目的や損得勘定があるのかもしれない。


 そんなことを考えながら書類をめくっていると、いつの間にか窓の外がうっすらと白んできていた。遠くから鳥のさえずりが聞こえ、夜明けが近いことを知らせている。

 シエナは重いまぶたを何度か瞬かせ、慌てて身支度を整え始める。夜通し書類に目を通していたが、寝る暇もなく朝を迎えてしまった。侍女たちが来る前に、少しでも体裁を整えておかないと、体調を崩したと騒がれてしまう。

 ──また、一日が始まる。

 そう思うと、結婚から続いている同じような孤独な時間が永遠に続くのではないかという錯覚に陥った。だが、シエナは歯を食いしばり、今日も生き抜くしかない。自分が存在を示すために、何かを掴むために。


小さなきっかけ


 そんな生活が続いて数日後、シエナは思いがけない人物から手紙を受け取った。差出人は“ライラ・クロノス”。彼女は商家の娘でありながら社交界にも顔が広い、シエナの数少ない親友の一人だ。結婚前はよく一緒にお茶を楽しんだり、買い物に出かけたりしていたが、シエナが嫁いでからはなかなか会う機会がなかった。

 ライラの手紙には、こう書かれていた。


シエナへ

ご無沙汰しているわね。お手紙を書くのは初めてだったかしら。

近頃、あなたのことをあまり見かけないので気になっていたの。

実は最近、少し気になる噂を耳にしたの。アルトゥール様のことよ。

詳しくは直接話したいから、もしよければ明日の午後、街にある私のお店に来てくれないかしら?

待っているわ。


ライラ・クロノス


 ライラが“少し気になる噂”と言うからには、何か具体的な情報を掴んでいるのだろう。アルトゥールに関しての噂は多数あるが、ライラのように裏事情に詳しい人間がそう言うとなると、見過ごせない。

 ちょうど外出の口実も欲しかったシエナは、さっそく侍女のリリアを伴い、翌日の午後にライラの店へ向かうことにした。ちなみに、アルトゥールへ外出の報告をする必要はない。彼は屋敷に不在だし、シエナがどこへ行こうとも干渉してこないのだから。


 街へ出るのは久々だった。侯爵家の馬車に乗って王都のメインストリートを進むと、通りには多くの人々が行き交い、活気に溢れている。商店の看板が並び、露店からは元気のいい呼び声が上がり、子供たちが駆け回る。そんな当たり前の光景にさえ、シエナはどこか懐かしさを覚えた。

 ──そういえば、結婚前はライラとこうして街を巡っては、色々なお店を覗いていたっけ。

 心の奥にわずかな温もりが蘇る。あの頃は自由がなかったとはいえ、まだ家族の一員として体裁を取り繕う程度で済んでいた。今は“自由”に見えても、実は何も変わっていないのかもしれない。そんな複雑な思いを抱えながらも、馬車はライラの店の前に到着した。


 ライラが手掛ける店は、女性向けの装飾品や香水などを扱う小さなブティックだ。ライラ自身がデザインに関わる商品もあり、若い貴婦人を中心に評判が高い。店の奥まった場所にあるサロンが、ライラのお気に入りの打ち合わせスペースでもある。

 「いらっしゃい、シエナ! 来てくれたのね」

 出迎えてくれたライラは、相変わらず柔らかい雰囲気を持ちながらも、商家の娘らしい快活さを感じさせる笑顔を見せた。淡いグリーンのドレスに身を包み、くるりとまとめた栗色の髪には自作のヘアピンが光っている。

 「忙しいところ悪いけれど、ゆっくりお話できる時間はある?」

 シエナがそう尋ねると、ライラは「もちろんよ」と頷き、さっそく奥のサロンへ案内してくれた。


 そこは白を基調とした落ち着いた空間で、テーブルと椅子がいくつか並べられている。リリアは一旦外で待機し、シエナとライラだけがテーブルを囲む。運ばれてきた紅茶の優しい香りが、シエナの張り詰めた神経を少しだけほぐしてくれた。

 「それで、アルトゥール様の噂って?」

 お互いに簡単な近況を交わした後、シエナは単刀直入に切り出す。するとライラは少し表情を曇らせた。


 「実はね……アルトゥール様が最近、“夜の街”に頻繁に姿を見せているらしいのよ。街の貧しい地区で、しかも普通なら貴族が踏み込まないような場所にまで行くって。しかも、かなりの額のお金を動かしているって話もあるわ」

 夜の街。娼館や裏商売が密集する薄暗い地域を指すことが多い。貴族が足を踏み入れるなど、相当の目的がなければあり得ない行為だ。シエナは思わず息を呑んだ。

 「……どうしてそんな場所に? 慈善活動とは思えないわ」

 ライラは首を振る。

 「私も詳しいことまでは掴めていないの。でも、人によっては“闇商人とつながりがあるんじゃないか”とか、“街の孤児院への寄付も実は隠れ蓑”とか、いろいろ噂が飛び交っているわ。もちろん真相は不明だけど、これまでの彼の行動を考えると、何か大きな取引を進めている可能性もあるかもしれない」


 シエナの頭は混乱していた。冷酷なアルトゥールが裏で慈善活動をしているという話だけでも驚きだったのに、今度は“夜の街”や“闇商人”などという物騒な噂まで飛び出してきたのだ。

 ──一体、彼は何をしているの?

 復讐心を抱きながらも、シエナはアルトゥールのことを何も知らない自分に苛立ちを感じた。妻であるはずなのに、なぜこうも遠い存在なのだろう。

 「ライラはどう思う? アルトゥール様は、そんな危険な商売に手を染めるような人だと思う?」

 尋ねるシエナの声には、わずかながら期待するような色が混じる。しかしライラは難しい顔をしたまま、はっきりとした答えを返せない。


 「正直なところわからないわ。レガシス家は昔から財務に長けているし、アルトゥール様も若くして政治や経済に関わってきた人物よね。表に出ない策略を巡らせているとしても、不思議じゃない。けれど、だからって違法なことに手を出すとは限らないのも事実。私が知っているのは、あくまで“噂”だから」

 ライラは慎重に言葉を選びながら続ける。

 「それに、あなたのことを心配していないわけではなさそうなのよ。裏で、ある程度は“シエナが社交界で袋叩きに遭わないように”手を回しているらしいって情報も耳に入っているの。だから余計、どこまでが事実かわからないのよね」


 この言葉に、シエナは目を見開いた。アルトゥールが裏で自分を守っている? そんなことがあるだろうか。彼は表向きシエナに無関心を貫き、ほとんど屋敷にも寄り付かない。なのに、裏では何か手回しをしているというのだろうか。

 ──いったい、何が真実なの?

 自分の中で渦巻く疑念と、どこか期待めいた気持ちの間で、シエナは翻弄される。しかし、ライラの知る範囲でも確定的な情報は少ない。今の段階では、事実を追い求めるにしても足がかりが不十分だ。

 「ありがとう、ライラ。あなたからの話を聞けて本当によかったわ。もう少し状況を探ってみる」

 そう伝えると、ライラは心配そうな表情を浮かべながらも、笑顔で頷いてくれた。


 「シエナ、もし何かあったらいつでも連絡して。私にできることは協力するから」

 この言葉だけでも、シエナにとっては大きな救いだった。帰り際、ライラから手渡された小さな包みには、香りの良いハーブティーが詰まっていた。

 「疲れたときに飲んで。少しは心が落ち着くわ」

 親友の優しさに胸が温まると同時に、改めて感じるのは“孤独”だ。屋敷に戻れば、再びシエナは一人。そんな暮らしが続く以上、自分が動かなければ何も変わらない。

 ──知りたい。アルトゥールの本当の姿を。

 胸の奥で芽生え始めた好奇心と疑問。それが、この冷たく張り詰めた結婚生活に一筋の光を差し込むのか。それともさらなる深い闇へ繋がっていくのか、シエナにはまだわからなかった。


氷の城で


 それから数日後の夜、シエナはいつものように屋敷の一室で書類を確認していた。侯爵家の資産状況や投資記録を読解する作業は地道で時間がかかるが、少しずつ知識を蓄えることが今の彼女にとって唯一の“反撃の準備”となりうる。

 読書灯の明かりが書類の文字を照らし、部屋の外では風が強く吹いているのが音でわかる。季節は徐々に寒さを増し、もうすぐ冬がやってくるのだろう。レガシス家の庭木も色づきを失い、枯葉が地面を覆い始めている。


 突然、廊下を慌ただしく走る足音が聞こえた。めったにないことにシエナは眉をひそめていると、部屋のドアがノックされる。

 「奥様、大変申し訳ございませんが、アルトゥール様がお戻りになりました。今、書斎に向かわれておりますので……」

 使用人の報告に、シエナの胸が一瞬ざわめく。こんな時間に帰宅して、そのうえわざわざ知らせに来るとは何事か。いつもであれば深夜にこっそり戻り、書斎に籠るだけなのに。

 「アルトゥール様が私に何か?」

 恐る恐る尋ねるが、使用人は首を横に振った。

 「いいえ、直接のお言葉はいただいておりません。ただ、しばらく留守にされていたので……。もし奥様にお話があるようでしたら、この機会を逃すまいと思いまして」


 シエナは使用人の気遣いに内心感謝しつつも、微かな戸惑いを覚える。アルトゥールが自分に会う気がないのなら、会いに行っても追い返される可能性もある。それでも、このまま何もしないでいては何も始まらない。

 「わかったわ。ありがとう。少しだけ書斎へ行ってみる」

 そう告げて部屋を出ると、冷たい廊下の空気が肌に刺さるように感じた。数歩進むたびに心臓が高鳴る。アルトゥールとまともに話す機会など、結婚以来ほとんどなかったのだ。


 重厚な扉がそびえる書斎の前に立ち、シエナは静かにノックする。少しの間、返事がなかったが、やがて低い声が「入れ」と応じる。扉を開けると、室内は暖炉の火が灯り、本棚が壁一面を覆っている。豪奢な机の後ろにアルトゥールが立っていた。

 「……こんな遅くに申し訳ありません。お帰りになられたと伺って……」

 シエナは精一杯、平静を保って挨拶する。アルトゥールは書類を机に置き、彼女を一瞥した。その双眸には、やはり読めない冷たさがある。

 「何か用か?」


 その一言にシエナの胸がざわつく。礼儀や優しさなど皆無の問いかけだが、今さら驚くことでもない。むしろ、彼がこうして正面から問いかけるだけでも珍しいと感じてしまうほどだ。

 「オルディス家から使者が来ていました。借金の返済期限をもう少し猶予してほしい、と……。アルトゥール様に直接お話しするよう伝えたのですが、なかなか戻られないので……一応、報告を」


 アルトゥールはそれを聞き、わずかに眉を動かした。

 「そうか。それで?」

 「……私には何もできませんので。アルトゥール様のご判断に委ねるしかないと思っています」

 まるで他人行儀な会話。だが、事実そうなのだから仕方がない。シエナが苦い表情で言葉を続けようとしたとき、アルトゥールは冷えた声で遮った。

 「もう一つ何か言いたいことがあるのでは?」


 その指摘に、シエナは息を飲んだ。自分がここに来たのは、オルディス家の件だけが理由ではない。ライラから聞いた噂のこと、エリサからの侮辱、そしてアルトゥールが屋敷に寄り付かない理由に対する疑問――言いたいことは山ほどある。しかし、どこまで踏み込んでいいのかわからない。

 「……アルトゥール様は、どうしていつも家にいらっしゃらないのですか?」

 意を決して問いかけると、アルトゥールの瞳がわずかに険しくなる。だが、すぐにそれは消え、彼は机の上の書類を手に取った。

 「俺の仕事だ。いちいち君に報告する義務はない。契約で結ばれただけの関係だろう?」


 あまりにも素っ気ない返答に、シエナの手が小さく震えた。だが、その悔しさを抑え込んで、さらに言葉を重ねる。

 「わかっています。……でも、噂を聞くのです。アルトゥール様が街の孤児院を支援していることや、裏社会との繋がりまであるんじゃないかって。私は、何が本当なのか知りたいのです」


 アルトゥールはシエナを睨むように見下ろす。その鋭い眼差しに一瞬ひるみそうになるが、ここで退いては今までと同じだとシエナは堪える。

 やがて、アルトゥールは短く息をつき、書類をデスクに戻した。

 「……確かに孤児院には顔を出している。だが、それは表沙汰にする必要がないから黙っているだけだ。君が探るような“闇商人”との関係はない」

 低い声だが、どこか面倒そうな響きが混ざっている。シエナは少し拍子抜けした気持ちと同時に、逆に強い疑念が湧いた。そこまで否定するなら、やはり何か事情があるのかもしれない。


 「では、なぜそんな活動を……」

 問いかけようとすると、アルトゥールは机を回り込んでシエナの目の前まで歩み寄った。その距離の近さに、シエナは息が詰まりそうになる。アルトゥールは一瞬だけ彼女を見下ろし、冷たい声で囁いた。

 「……君には関係のないことだ。いいか、これだけは言っておく。俺は自分の判断で動いている。それ以上、口を出すな」


 突き放すような言葉。目の前の存在から発せられる圧倒的な威圧感に、シエナは心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。屈辱や怒りが込み上げる一方、彼の中に何かしらの秘密が隠されていることを確信する。

 しかし、今の彼女にはそれ以上問いただす術はない。アルトゥールの言葉は絶対的であり、相手は自分の“夫”とは名ばかりの存在。立場をわきまえろと言わんばかりに、そのまま彼は振り返りもせずに書斎の奥へと向かった。


 追撃する言葉が喉まで出かかったが、シエナは何とかその場で飲み込む。抗っても、今はアルトゥールから情報を引き出せない。その冷酷な雰囲気が、はっきりと拒絶を示しているからだ。

 「……失礼します」

 か細い声でそう言って部屋を出ると、廊下の寒さが骨身にしみるように感じた。まるでどこか別世界に行ってしまったような、言いようのない喪失感がシエナを包む。


 ──あの人は、本当に何を考えているの?

 孤児院の支援に通っているということは事実だった。だが、その本心や目的はわからない。ライラから聞いた噂が、完全なる誤報とも思えない。

 けれど、このまま黙っていては、いつまでも自分はアルトゥールや周囲の人々に翻弄されるだけだ。オルディス家の問題も、エリサの嫌がらせも、結局は同じこと。シエナが強くならない限り、“利用されるだけの人生”は変わりようがない。


 部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、シエナはこみ上げてくる涙を必死にこらえた。言いようのない悔しさと虚しさ。そして、自分が何も知らないことへのもどかしさ。

 「私は……負けない」

 小さく誓うように呟き、再び机に向かう。その目は先ほどまでとは違う決意を帯びていた。アルトゥールの冷たさに傷ついてはいられない。いとこのエリサに嘲笑されても泣き寝入りはしない。自分で道を切り開くしかないのだから。

 ──復讐なのか、それとも自分を守るための抵抗なのか。シエナはその境界を明確に区別できないまま、手当たり次第に資料や書類を読み進める。アルトゥールの行動を探りたいという好奇心も含まれていた。誰も教えてくれないのなら、自分で見つけるまで。


 深夜になり、屋敷全体が静まり返る頃、シエナはとうとう力尽きて机に突っ伏したまま微睡んだ。夢か現か、薄闇の中で誰かが自分を見ているような気がしたが、目を開けてもそこには何もない。

 ──変わらない夜の帳が、今日も侯爵家を覆い続ける。だが、シエナの内心には小さな光が宿り始めていた。それは疑念とも希望ともつかない灯火だが、この冷え切った生活においてはそれすら大切な拠り所と言えた。

 孤独の中、シエナは反撃のための“準備”を着実に進めていこうと心に誓う。いつの日かこの氷の城を打ち破り、真実と自由を掴むために。そうしなければ、自分の人生が何だったのかすら見失ってしまうからだ。


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