朝方のやわらかな光がレガシス侯爵家の書斎の窓ガラスを淡く照らしている。結婚してからしばらく続いた張り詰めた空気は、少しずつではあるが柔らぎ始めているようにも見えた。もっとも、屋敷の主人であるアルトゥールとシエナの関係が劇的に変わったわけではない。それでも、シエナの存在が静かに、しかし確実にこの家の歯車を動かし始めているのを使用人たちは肌で感じていた。
その理由の一つは、シエナが近頃、侯爵家の資産運用について執事や財務担当者と頻繁に話し合いをしていることだった。冷淡な結婚生活の中で、シエナは自分にできることを見つけては必死に行動を重ねてきた。政略と借金返済のためだけに嫁いだ身であるならば、逆にその立場を利用して“自分を見くびった者たち”に一泡吹かせたいという思いが、彼女の心を支えているのだ。
「……ここをもう少し積極的に投資してみるのはどうかしら? リスクはあるけれど、今のままでは眠っている資金が多すぎると思うわ」
ある日の午後、シエナは執事ジャミルの前に分厚い書類を広げ、真剣な表情で提案をしていた。財務を直接管理するのはアルトゥールが雇った経理係だが、彼らに対してシエナが詳細な意見を提示してくるのは初めてのことだ。
ジャミルは驚きつつも、シエナの洞察が的を射ているのを感じていた。
「奥様、失礼ながら……本当にここまで調べられたのですか?」
「ええ。私は公爵家で育ったから、多少は数値や財務の知識を持っているの。もっとも、オルディス家ではその知識を活かす場がほとんどなかったけれど」
彼女の声音にはどこか悔しさや虚しさが混じっている。実家のオルディス公爵家は借金問題が膨らみ、彼女を侯爵家へ政略結婚させることでどうにか延命を図ってきた。それに振り回されたのはシエナ自身であり、家族と名乗る者たちに“利用される”ことへの怒りと反骨心はまだ燻っている。
──ならば、自分を使い捨てにするような世界を、逆に利用してやればいい。
その思いこそが、シエナをこうして積極的な行動へと駆り立てていた。
「……私としては、奥様のご提案をアルトゥール様にお伝えする義務がございますが、よろしいでしょうか?」
ジャミルは慎重に言葉を選びながら尋ねる。シエナは一瞬ためらったあと、首を縦に振った。
「ええ、構わないわ。むしろアルトゥール様にきちんと目を通していただきたい。もし不要と思われるなら、それまでのことよ」
かつてなら、アルトゥールに否定されるのが怖かったかもしれない。しかし今のシエナは、それほどまでに臆病ではない。むしろ、“こんなことをしても無駄だ”と思われたところで構わない。実際に採用されれば儲けものであるし、却下されたところで次の手を考えればいいのだ。
ジャミルは深々と頭を下げ、書類を携えて部屋を後にする。その背中を見送りながら、シエナは内心で静かな闘志を燃やしていた。
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社交界への復帰
一方で、社交界にもシエナの行動が徐々に伝わり始めていた。結婚当初は“冷たい契約結婚の犠牲者”や“利用価値のないお飾り侯爵夫人”などと囁かれていたのだが、彼女が最近積極的に慈善事業や音楽会、サロン会へと顔を出し、落ち着いた態度で貴婦人たちと交流している様子が噂となりつつあった。
その動きの背後にはいとこのエリサ・ベルモンドが悪質な中傷を続けているにも関わらず、どうやらシエナの評価は以前よりも好転している。いつの間にか、“アルトゥール侯爵からは放置されているけれど、それを逆手に取り、自分の活動を自由に行っている才女”というイメージが広がり始めていたのだ。
ある晩、子爵夫人が主催する小宴会の席で、シエナは久しぶりにエリサと顔を合わせた。エリサは相変わらず装飾をふんだんにあしらったドレスで着飾り、取り巻きの令嬢たちを引き連れている。会場に入るなり、シエナを見つけて嘲るような笑みを浮かべた。
「まあ、シエナ。相変わらず一人でいらっしゃるのね。アルトゥール様は今夜もお忙しいのかしら?」
挑発的な声が周囲に届くよう、わざと大きめに話す。その場にいた貴婦人たちの視線が集まるが、シエナは慣れたもので、やんわりと笑みを返した。
「そうね、アルトゥール様はたいへん多忙ですから。だけど、それを理由に私が閉じこもっている理由もないでしょう? こうして皆様と交流するのが好きなのよ」
さらりと返す言葉に、エリサの唇がわずかに歪む。せっかく“可哀想な夫人”という印象を植え付けようとしているのに、本人が堂々と応じてしまうせいで揺さぶれないのだ。
「まあ、そう……。たしかにあなたは“自立”しているものね。もっとも、夫婦の形がそれでいいのかしら? 私だったら耐えられないわ」
あくまでもエリサは攻撃の手を緩めない。以前はそれに対して落ち込んでいたシエナだったが、今ではむしろエリサの痛々しい必死さが滑稽に感じる。
「お心遣いありがとう、エリサ。けれどご安心なさい。アルトゥール様は私のことを何も気に掛けていないわけじゃないの。ですから、あなたがご心配いただくことは何もないのよ」
言葉の端々に余裕が感じられる。その態度がエリサには目障りだったのか、彼女は鼻を鳴らして取り巻きたちを連れて向こうへ行ってしまった。
しかし、エリサが大人しく引き下がったわけではないことを、シエナは知っている。彼女はきっと別の場所で、別の方法でシエナを貶める噂を流すに違いない。今までも、そうして何度も繰り返してきたのだから。
──だけど、もうあの頃の私ではない。
シエナはグラスに注がれたワインを一口だけ含み、心の中で呟く。貴婦人たちとの会話を巧みにこなし、音楽家の演奏を楽しむふりをしながら、次の一手を考える。そのとき少しだけ視線を感じて振り返ったが、誰もこちらを見ている者はいない。
しかしシエナは妙に胸騒ぎがしていた。まるで誰かが遠くから自分の行動を監視し、見守っているような──そう、まるでアルトゥールがどこかにいて、彼女の進捗を確かめているような気がしたのだ。
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エリサの画策とシエナのカウンター
予感は当たったのか、翌週、シエナのもとへ奇妙な噂が聞こえてきた。曰く「レガシス侯爵夫人は、アルトゥールが留守の間に他の貴公子と親しくしているらしい」というものだ。実際には、シエナは孤児院やバザーなどの慈善活動に出席していただけで、特定の男性と密会した事実など全くない。
だが、この手の“浮気噂”は格好の餌になる。とりわけ、エリサがこれを利用して「シエナは侯爵家の嫁としての品位が欠けている」と貶める可能性は高かった。
──やっぱり来たわね。
シエナは半ば呆れながらも、心の中で冷静に事態を分析する。下手に否定だけを繰り返していては、逆に噂を大きくする恐れがある。必要なのは、エリサの策略そのものを掴み、逆手に取ることだ。
そこでシエナは、旧知の商家の娘ライラ・クロノスに相談することにした。彼女は情報通であり、社交界の裏話にも精通している。
「またエリサが余計なことをしているのね。まったく、懲りない人だわ」
ライラは苦笑しながら、いくつかの情報をシエナに提供してくれた。エリサはどうやら、伯爵令息のアルマーという人物の名前を利用し、シエナと彼がひそかに会っているというシナリオをでっち上げているらしい。アルマー本人は温厚な性格で、シエナとの接点などほぼ皆無だというのに、勝手に“恋の噂”を仕立て上げられているのだ。
「噂が出始めたばかりの今なら、すぐに真相を公にすればダメージは最小限に抑えられると思うわ。ただ、証拠や当人の証言をきちんと固める必要があるわね」
ライラのアドバイスに、シエナは頷く。
「わかっているわ。……それからもう一つ、私にいい考えがあるの」
シエナはライラに耳打ちし、エリサの一番の弱点を突く計画を語る。ライラは聞き終えると、目を丸くしながら微笑んだ。
「なるほどね。エリサが流している噂を“嘘”と証明すると同時に、彼女自身の立場を危うくするような仕掛けをするわけね。……いいわ、協力する」
こうして、二人はエリサが動き出すであろう“社交の場”を狙って反撃する段取りを組み立てた。
数日後、エリサの遠縁である子爵家が主催する夜会が開かれることになった。そこはエリサが贔屓にしている家筋でもあり、噂話が好きな人々が集まりやすい。まさにエリサがシエナへの攻撃を加速させるには絶好の場所だろう。
予定通り、シエナはライラとともに会場へ足を運んだ。いやが応にも注目を集めるのはわかっていたが、目立ってしまった方が、エリサにとっても攻撃しやすい環境になる。計画通り、エリサは案の定、社交界の令嬢や若い貴婦人たちを相手に、さっそくシエナとアルマーの噂話を広めにかかっていた。
「だって、この前なんて、シエナったらアルマー様とこっそり書簡を交わしていたのよ。まあ、私も直接見たわけじゃないけど、かなり信憑性があるって聞くわ」
エリサの取り巻きたちが相槌を打ち、その場にいないシエナをあれこれと面白おかしく話題にしている。ご丁寧に、“どこで会っていたか”などという架空の舞台まで設定している始末だ。
「あら、そうなの? ではそのアルマー様とやらを、お招きしてみるのはいかがかしら?」
突如として響いたシエナの落ち着いた声に、一同はぎょっとして振り返る。いつの間に近づいたのか、シエナはライラを伴ってエリサの後ろに立っていた。
「あなたがそこまで噂にするくらいだから、アルマー様もこの会場にいらっしゃるでしょう? 私と彼が“密会”しているならば、きっと何か決定的な証拠をお持ちのはずよね?」
その言い分にエリサは目を瞬かせたが、すぐに冷笑を浮かべる。
「まあ、何を言い出すのかと思えば……。そんなの、あなたが隠そうとしているに決まっているじゃない。証拠なんて、そう簡単に出てくるはずないわ」
「そう。では、私から皆様にご紹介するわ」
シエナが軽く手を挙げると、ライラが合図を受け取って奥の部屋へ向かう。そして連れてきたのは、当のアルマー伯爵令息本人だった。アルマーは先日、ライラを通じて“噂の捏造に加担されている”と聞かされ、大いに困惑していたという。しかし、誠実な性格の彼は自分の名誉に関わるとあって、真相を明かすために協力を承諾してくれたのだ。
「シエナ様と私が恋仲? そんな事実は一切ありません。書簡も交わしたことはございませんし、そもそもお話をまともに交わした回数すら片手で足りるほどです」
アルマーは困惑した表情をしつつも、毅然とした口調で周囲に話す。もちろん、噂の根拠など何一つない。こうして本人の口から否定された以上、“浮気噂”は一気に白紙と化すだろう。
「えっ、ええと……」
エリサは予想外の展開に動揺を隠せず、視線を泳がせる。取り巻きたちも気まずそうに顔を見合わせ、居場所を失いかけていた。
シエナはその様子をじっと見つめたあと、軽くため息をつくように言った。
「エリサ、あなたが私を嫌っているのはわかるわ。でも、あなたの虚言で人を巻き込むのはやめてちょうだい。私よりも、アルマー様に対してとても失礼ではないかしら?」
周囲の貴婦人たちや令嬢たちがひそひそと囁き始める。
「こんな話、まるでエリサ様が仕組んだようじゃない……?」
「最初に噂を言い出したのもエリサ様と聞くし……」
エリサが必死に取り繕おうとする前に、シエナは優雅な微笑みを浮かべたまま続けた。
「私からは、何も要求しないわ。ただ、今回のことが“事実無根の噂”であったと、みんなの前で認めてくださるだけでいいの。……エリサ?」
心底困り果てた様子のエリサは口を開きかけるが、うまく言葉が出ないらしい。取り巻きの中からも「エリサ様、どういうことなんですか?」という詰問が飛び出してきて、彼女は完全に四面楚歌だった。
結局、エリサはしどろもどろになりながら「……そ、その、噂を聞いたから……あたしは悪気はなくて……」と曖昧な弁明をするしかなかった。だがその姿は誰の目にも“言い逃れ”と映り、会場の空気は一気に冷めたものへと変わった。
こうしてエリサの策略は見事に失敗に終わり、逆に“事実無根の浮気噂をでっち上げた張本人”として彼女自身の評判が一段と下がることになる。シエナは周囲の好奇の視線を浴びつつも、毅然とした態度でその場を立ち去った。
──これで少しは気が済んだわ。
心の奥で、小さく勝利をかみしめる。もちろん、これで完全にエリサが黙るとは思っていない。それでも、一度はっきり反撃したことで、少なくとも“シエナはもはや簡単に貶められる相手ではない”という印象を社交界に与えられただろう。
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アルトゥールの密かな介入
夜会から数日後、シエナは久々にライラの店を訪れ、手頃な装飾品や香水を選んでいた。先の浮気騒動が収束した今、彼女の心には少しだけ余裕が生まれている。
「うちの店の常連貴婦人たちが、最近あなたのことを絶賛しているわ。“レガシス侯爵夫人は肝が据わっている”とか、“とても知的で魅力的”だとか」
品物を見ながらライラが楽しげに言う。シエナは苦笑しつつも、まんざらではなさそうに微笑みを返した。
「ありがたいわ。エリサの嫌がらせに反撃した甲斐があったみたい。でも、まだまだ気は抜けないわね。あの人、簡単に大人しくなるタイプじゃないから」
ライラも頷き、「それに」と切り出した。
「噂によると、エリサはもう一つの手札を隠しているらしいのよ。あなたを貶めるためじゃなく、アルトゥール様に近づく目的で――」
「アルトゥールに?」
シエナは思わず声を上げた。エリサがアルトゥールに言い寄ろうとしているという話は、以前からちらほら耳にしていたが、それがどの程度の本気なのかはわからなかった。
「どうやらエリサは“アルトゥール様とシエナが冷え切っている間に、自分が彼の関心を引けば、彼に取り入れる”と本気で考えているみたい。もっとも、アルトゥール様が取り合うとは思えないけど……」
アルトゥールとエリサ。想像するだけで嫌な組み合わせだが、アルトゥールがどう反応するかは未知数である。彼は社交界でも“冷徹な策士”として知られているが、一方でその内面を詳しく知る者は少ない。むやみにエリサを利用しようとする可能性も否定できないし、逆に一刀両断に拒絶する可能性もある。
「……でも、アルトゥールはたぶんああいうタイプを相手にしないと思うわ。私はあの人と深く話したことがあるわけじゃないけど、少なくともエリサのような露骨な駆け引きは嫌いそうに感じるの」
シエナがそう言うと、ライラは安心したように笑った。
「そうだといいけれどね。でも、もし何かあったらすぐに相談して。エリサはあなたを陥れられないとわかれば、今度はアルトゥール様を利用しようとするかもしれないから」
店を出る頃には外はすっかり夕闇に包まれていた。馬車を待つ間、シエナはふと空を見上げ、月のかけらが澄んだ光を放っているのを眺める。アルトゥールの行動は、まるであの月の光のように、冷たく遠いが、どこか微かに自分を照らしているようにも思える。
――あの人は、私に興味があるのかないのか。
思考を巡らせていると、風がひときわ強く吹き付け、シエナは身震いした。自分が彼に関心を抱くのは滑稽なことかもしれない。だけど事実として、社交界でシエナに危険が及びそうになると、なぜかその周辺が鎮まっているのだ。浮気疑惑だって、実はアルマーを呼ぶよう裏で手配していたのはライラだけでなく、“侯爵家の中”からも助力があったという噂を耳にしている。
シエナはそっと胸元に手をあて、心臓の鼓動を感じた。危うい感情に踏み込んでいるかもしれないと自覚しながら、しかしまだ何もわからない。それでも、ほんの小さな揺らぎが彼女の中で芽を吹きつつあるのは確かだった。
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資産運用の成功とアルトゥールの評価
やがて数日が経ち、侯爵家の財務担当からシエナに知らせが届いた。彼女が提案した投資の一部が思いのほか好成績を上げ、わずかながらではあるものの、レガシス家の財産にとってプラスの影響を与えたというのだ。
「奥様の案が実を結んだ、と言って差し支えないでしょう。詳しい報告はアルトゥール様にお渡ししますので、何かお言葉がございましたら……」
そう語る経理係はどこか興奮しており、シエナへの尊敬の念を隠せない。公爵家出身とはいえ、実務に明るい女性は珍しいからだ。ましてや政略結婚で嫁いできたとされるシエナに、これほどの手腕があるとは思わなかったのだろう。
「ご丁寧にありがとう。……アルトゥール様がどうお感じになるかはわかりませんが、私としては嬉しいわ」
シエナは静かな笑みで応じる。正直、彼女はこの成果を“アルトゥールに認められたい”から行っているわけではない。むしろ“復讐”の一環として、誰にも期待されていない自分が才覚を示してやることに意義を感じていた。
とはいえ、こうして実際に周囲から評価されると、心のどこかで小さな満足感が芽生えるのも事実だ。長らく“利用されるだけの女”として扱われてきた反動が大きいのだろう。
夜になり、シエナは自室の机で一人きり、淡いランプの明かりを頼りに書物を開いていた。時刻は深夜に差しかかっており、使用人たちも大半が就寝している。そんな静寂の中、ふと書斎の方から人の気配を感じ取る。
──アルトゥール、今夜は帰ってきているのかしら?
思わず耳を澄ませてみるが、廊下を歩く足音はすぐに遠ざかり、再び静寂が訪れる。シエナは迷った末、そっと部屋を抜け出して書斎へと向かった。そこが灯りでぼんやりと照らされているのが、廊下からでも見えたからだ。
扉をノックしても返答はない。けれど明かりがついている以上、誰かが中にいるはず。シエナはおそるおそる扉を開けると、そこには見慣れた光景──壁一面の本棚と大きな机があり、書類が山積みにされている。その机の前に立つアルトゥールが振り向いた。
「……こんな時間に、どうした?」
低く落ち着いた声。相変わらず無表情だが、以前よりも刺々しさは感じられない。それでも、“妻”が勝手に書斎へ入ってくることを許すほど、彼は甘い男ではないだろう。シエナは深く頭を下げてから、意を決して言葉を紡いだ。
「先日、私が提案した投資が少しだけ成果を上げたようです。報告は受け取られましたか?」
するとアルトゥールは無言で机の一角を指差す。そこには先ほど経理係が言っていた通りの報告書が置かれていた。どうやらもう目を通したらしい。
「なるほど。……悪くない結果だ」
唐突な褒め言葉とも取れる発言に、シエナは思わず動揺する。アルトゥールが自分の行動を認めることなど想像していなかったからだ。彼女が返答を迷っていると、アルトゥールは書類を軽く指で弾いて続けた。
「だが、リスクを最小限に抑えるにはまだ工夫が足りない。次に動くなら、もう少し安全策を練ってからにするべきだ。……これは素人考えかもしれないがな」
それは、まるで“建設的なアドバイス”と呼べるものだった。シエナは一瞬息を飲み、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
──私のことを馬鹿にするでも、厄介者扱いするでもなく、意見を交わしてくれる。
それがどれほど小さな進展であっても、彼女にとっては深い喜びだった。感情を表に出さないよう、彼女は一度まぶたを下ろしてから静かに口を開く。
「ありがとうございます。私も、もっと勉強してみようと思います。……もしご不快でなければ、今度はもう少し詳しくお話を伺わせていただきたいのですけど」
アルトゥールはわずかに目を細めたが、即座に拒否の言葉が返ってくることはなかった。むしろ、彼の瞳に微かな興味が宿ったようにも見える。
「その時になったら、改めて声をかけろ。……今はもう夜も遅い。休むがいい」
それだけ言うと、アルトゥールは机の上の書類を片づけ始めた。シエナはそれ以上何も言わず、深く一礼して書斎を後にする。廊下を戻る途中、胸の奥が熱いものに包まれているのを感じた。
──何だろう、この気持ちは。
あの冷淡なアルトゥールが、少なくとも自分を一笑に付すだけの存在とは見なしていない。それがわかっただけで、シエナは今夜ぐっすり眠れそうな気がした。
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さらなる反撃の始まり
翌朝、シエナは久々に目覚めが良かった。侍女のリリアが部屋に朝食を運んできたとき、彼女は珍しく晴れやかな表情を浮かべていた。
「奥様、お顔の色がよろしいですね。何か良いことがあったのでしょうか?」
リリアが興味深げに尋ねるが、シエナはあえて詳しく答えず、ただ微笑むだけにとどめる。アルトゥールとのささやかなやりとりは、まだ自分の胸に秘めておきたかったのだ。
「今日は少し外に出るわ。ライラのお店に寄って、それから……そうね、社交界の小さな集まりがあると聞いているわ。そこに顔を出してみようかしら」
リリアはうれしそうに頷く。彼女にとって、シエナが元気に行動している姿を見るのは何よりの喜びだった。結婚当初から、夫の不在やエリサの中傷によって塞ぎがちだったシエナの変化は、リリアにとっても救いのように感じられるのである。
シエナがこうして外出して行動を起こすのには、もちろん理由がある。エリサの浮気噂を打ち破ってから、社交界の空気は明らかに変化していた。シエナを“哀れな女”と見る者は減り、逆に“やるわね”と好奇の視線を向ける人が増えている。これを好機ととらえたシエナは、より一層活動的になり、自分に追い風を吹かせると決めたのだ。
オルディス家の借金問題という重荷はまだ消えてはいない。しかし、今のシエナは“絶望のまま終わりたくない”という強い意志を持ち、具体的な行動に移す準備を進めている。エリサを牽制しながら、自分を否定してきた家族や社交界の人間たちを見返すために。
その日、シエナはライラの店で新作の香油を試しながら、今後の社交活動について作戦を練った。さすがにライラも、“シエナがこれほど積極的に動く”とまでは予想していなかったようだが、彼女の意気込みに感心するばかりだった。
「本当に勢いづいてきたわね。エリサが次に何をしてくるかわからないけれど、私としてはあなたの成功を見届けたいわ」
ライラの言葉に、シエナは少し照れくさそうに微笑む。
「ありがとう。ライラがいてくれるからこそ、私はここまで来られたのよ。……何があっても、私はもう逃げない。自分が傷ついても、今度は泣き寝入りするつもりはないわ」
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アルトゥールの興味とさらなる連携
こうしたシエナの動きを、アルトゥールが遠巻きに見守っているという事実は、やがて彼女自身の耳にも届き始める。直接的な言葉は交わさないものの、彼女が出席する行事で警備が増強されているとか、孤児院への寄付金がタイミングよく追加されているなど、小さな“偶然”が重なっていく。
「アルトゥール様はああ見えて、実は細かいところに目を配る方なのよ。あなたが何をするか、きっとずっと見ていると思うわ」
ライラの言葉は、ある程度シエナを勇気づけるものだった。彼女は“冷たい契約結婚”のまま終わりたくないという思いを抱く一方、完全にはアルトゥールを信頼しきれていない。だが、こうして密かに守ってくれているらしい行動がある以上、彼をただの冷血漢とは思えなくなっていた。
「私はまだ、あの人の真意を知らない。……でも、それを知るためにも、まずは私がもっと強くならなきゃ」
シエナはそう決意し、さらなる“反撃”と“飛躍”の準備を進める。エリサのように表立って他人を陥れるわけではなく、自分の才覚と行動力を世に示し、誰にも舐められない存在になることで、真にこの結婚の“主導権”を握ろうとしているのだ。
シエナが屋敷に戻ると、執事ジャミルが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「奥様、実はオルディス公爵家からまた使者が届いておりまして……。ご実家の事情で大金が必要とのことで、再び猶予を求めているようです」
──やはり、来たか。
シエナは表情を曇らせながらも、すぐに頭を切り替える。父であるオルディス公爵が、自分を政略結婚に使ってからというもの、ますます安易に“レガシス家に頼ればいい”と思っているのだろう。
「アルトゥール様はその件をどうお考えなの?」
「まだ直接のお話はありませんが……書類は既にご覧になったようです。今は何とも仰らず、黙って奥の書庫へ向かわれました」
シエナは少しだけ笑みを浮かべる。なるほど、アルトゥールは自分に判断を任せようとしているのか、それとも試しているのか。いずれにせよ、この機会に自分の意思をしっかり伝えるべきかもしれない。
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結びにかえて
エリサとの攻防で明確に示されたように、シエナはもはや受け身のままの存在ではなくなっている。社交界での評価を取り戻し、家の財力を強化する提案を行い、そしてアルトゥールの冷たい態度の裏にも、実は自分を支える行動があると知った今、彼女の心には確かな手応えが芽生えていた。
──いずれは復讐を果たし、自由を手にするために。
その決意と行動力は、同時にアルトゥールの興味を惹き、かの冷徹な侯爵にも微かな変化をもたらし始めている。両者が同時に意識し合いながら、なおかつ“契約結婚”という冷たい幕が下りたままの関係を続けることが、今後どんな運命を呼び込むのかは、まだ誰にもわからない。
しかし一つだけ確かなのは、シエナが今回の一連の出来事によって、はっきりと“反撃の序曲”を奏で始めたということだ。これまで彼女を見下し、利用してきた者たちへの怨嗟を糧に、シエナは自分の居場所を力強く確立しつつある。
エリサが再度牙を剥く前に、アルトゥールがどんな手を打つのか。オルディス家の借金問題はどのように解決へ向かうのか。侯爵家の資産をさらに拡大し、社交界で揺るぎない存在感を得たとき、シエナは“白い結婚”のその先に何を見出すのだろう。
夜の闇に閉ざされていたレガシス侯爵家には、少しずつ夜明けの兆しが差し始めている。シエナの冷静な分析力と復讐心が、今や社交界と侯爵家の運命を大きく動かそうとしていた。