レガシス侯爵家に嫁いでからというもの、シエナ・オルディスの生活は一変した。政略結婚による「白い結婚」という名の冷たい契約──それは当初、彼女にとって屈辱と孤独を強いるものでしかなかった。しかし、徹底的な自己研鑽と社交界への積極的な働きかけを通じ、彼女は冷ややかな環境を逆手に取り、周囲を味方につけてきた。
いとこのエリサ・ベルモンドが広める悪意ある噂を次々と打ち破り、復讐ともいえる行動を通じてシエナは着実に地位を高めつつある。そこには、夫アルトゥール・レガシスが密かに後押ししている形跡も見え隠れし、シエナは不思議な手応えを感じずにはいられなかった。
もっとも、二人のあいだにはいまだに“愛”という言葉は存在しない。表向きには夫婦であっても、冷たい契約の縛りがある以上、シエナはアルトゥールと一線を画すようにふるまい続けていた。しかし、最近になってふと感じるのだ。
──アルトゥールが私を「対等な存在」として見つめているような気がする。
もしかすると気のせいかもしれない。だが、以前のような完全な無関心ではなく、彼の視線の奥にはどこか興味や期待が含まれているように見えるのだ。果たしてそれは何を意味するのか。シエナ自身も戸惑いを隠せずにいた。
本章では、そうした変化を迎えながらも“白い結婚”の契約ゆえに距離を保とうとするシエナ、そして最後の手段に打って出るエリサとの対決、さらにアルトゥールと親友ライラ・クロノスの協力によってエリサの悪事が暴かれるまでを描く。シエナの復讐劇は、ここでひとつの大団円を迎えることになるのだが──そこに至るまでの物語を、以下に紐解いていこう。
1.アルトゥールの視線
ある日の朝、シエナは侯爵家の書斎で執事や経理担当と話し合っていた。侯爵家の資産運用に口を出し始めてからというもの、彼女は正確な分析と迅速な決断力をもって、レガシス家の財務状況を好転させている。
もともと財力に定評があるレガシス家ではあったが、より広い人脈や投資先を求めるため、シエナは精力的に人と会い、情報を収集していた。その姿勢は使用人からの信頼を得るだけでなく、株や貸付金の管理を担当する経理部門にも大きな刺激を与えている。
「奥様のご提案で再編した投資案件、すでに二割ほど利益が出ております」
経理担当の一人が報告する声は、心なしか弾んでいた。シエナは柔らかく微笑んで、書類に目を通す。
「ええ、いい流れですね。ですが油断は禁物。もう少し市場の動向を見ながら、次の手を考えましょう。とくに新興の貿易商会には不安要素が多いようですし」
そう言いながら、さらなるリスク管理の方策をいくつか挙げていく。公爵家にいた頃は、こうした“経済”の話など男の領域と言われ、ほとんど触れさせてもらえなかった。だが今は、自分の力が明確に数字に現れ、周囲に評価される。それがシエナにとって大きな手応えになっていた。
そこへ、屋敷の使用人が控えめに扉をノックして現れる。
「失礼いたします。アルトゥール様がお戻りになられました。まもなくこちらへお越しになるそうです」
シエナも経理担当たちも一瞬驚いた顔を見合わせる。アルトゥールは滅多に昼間に屋敷へ戻らない。帰宅しても深夜が多く、こうして書斎へ顔を出すことなどほとんどなかったからだ。
「わかりました。お迎えしましょう」
シエナが立ち上がろうとすると、書斎の扉が再び開いた。そこには、いつもながらの冷ややかな雰囲気を纏ったアルトゥールの姿がある。しかし、その瞳はどこか興味深げにシエナを見つめていた。
経理担当たちは一斉に頭を下げる。アルトゥールは軽く顎を引いて挨拶を受けると、淡々とした声で言った。
「仕事中か。続けてくれ。俺は少し傍で見させてもらうだけだ」
彼が“傍で見たい”などと言い出すのは初めてのことだった。シエナも心の中で戸惑いつつ、表向きは冷静を装う。
「それでは、失礼して続けますわ。先ほど報告を受けた投資案件についてですが……」
再び話し合いが再開されるが、アルトゥールの視線が時折シエナへ注がれているのを彼女は感じ取っていた。まるで彼女の言動ひとつひとつを観察するように。
(……私が何か間違ったことをしていると疑っているのかしら?)
そんな不安が一瞬頭をよぎるが、ここで萎縮してはならない。シエナはいつも通り、自分が培ってきた分析力を活かして提案や指示を続けた。
やがて話し合いが終わり、経理担当たちが退室すると、アルトゥールは小さく息を吐いて言う。
「なるほど。君がこの数ヶ月でやってきたこと、直接見るのは初めてだが、思ったよりも本格的に取り組んでいるようだな」
皮肉や高圧的な言い回しではなく、純粋に評価しているように聞こえる。その変化にシエナは戸惑いながらも、あえて距離を置くように返答する。
「“契約”の義務を果たしているだけです。レガシス家の名に泥を塗らぬよう、私にできることをしているまで」
アルトゥールは彼女の言葉に微かに眉を寄せると、机の端に寄りかかりながら静かな声で続ける。
「なるほど。そのわりには、なかなか大胆な動きだったと思うがね。経理担当たちが随分と感心していた」
ここでシエナはほんの少しだけ自嘲気味に笑った。
「私など、まだまだ足りない部分が多いですわ。……アルトゥール様こそ、何かお気づきの点があれば遠慮なくおっしゃってください」
彼女の視線は書類の上を追ったままだ。アルトゥールを見ると、密かに心が乱されそうになるからだ。
アルトゥールは小さく息を吐く。
「とくにない。ただ、君のやり方は冷静で理にかなっている。……まさか、そこまでできるとは思っていなかったよ」
それは褒め言葉に近い評価だった。しかし、シエナは素直に喜ぶことができない。というのも、いまだに“白い結婚”という契約の鎖が二人のあいだに横たわっているからだ。彼が彼女を高く評価しようとも、その本心がどこにあるのかを知る術はない。
だからこそ、シエナはあえてそっけなく振る舞う。
「恐縮ですわ。ですが、私はあくまで“契約上の妻”です。お気遣い無用に、どうぞお好きにご判断くださいませ」
そう言い放ち、書類を整える彼女の姿はどこか毅然としていて、アルトゥールは一瞬言葉を失ったようにも見えた。
その微妙な空気のまま、二人の会話は終わる。まるで平行線をたどるかのようなもどかしさを残しながらも、アルトゥールは淡々と退出していった。
──お互いに相手を認め合い、しかし“契約”という壁を前に素直に歩み寄ることはできない。そんな関係が形作られ始めているのだった。
2.シエナの冷静さと、エリサの焦燥
一方、シエナは依然としていとこのエリサ・ベルモンドからの陰湿な攻撃にさらされていた。エリサはシエナの株が社交界で上がっていることを面白く思わず、あの手この手で彼女を陥れようと画策していたのである。
エリサの苛立ち
「最近、まったく噂が広まらないじゃない!」
エリサは自宅の自室で、取り巻きの令嬢たちに苛立ちをぶつけていた。もともとはシエナの“夫婦仲の冷え切った可哀そうな嫁”というイメージを吹聴していたが、ここ最近はどうもそれが広まらない。むしろ、「レガシス侯爵夫人は優秀で慈善活動にも熱心」「いずれ侯爵家を支える大黒柱になるのでは」といった好意的な評価すら聞こえてくるのだ。
エリサの取り巻きの一人が、おずおずと言った。
「でも、シエナ様は確かに実績を上げていらっしゃいますし、何よりレガシス侯爵のバックアップがあるとかないとか……。あまり無闇に攻撃すると、こちらが不利に……」
この言葉に、エリサは忌々しそうに顔を歪める。
「侯爵のバックアップですって? あの冷たい男がそんなことするわけないじゃない! 私は知ってるのよ、あの二人は形だけの結婚だもの。わたしを差し置いて社会の注目を浴びるなんて、絶対に許せないわ」
そう言いながら、エリサは机に並べられた書類を見つめた。そこにはシエナの動向を探るためのメモや、シエナが関わっている慈善団体の情報が羅列されている。エリサはこれまでさんざんシエナに陰口を叩き、表面上のスキャンダルを捏造しようとしてきたが、いずれも失敗に終わっている。
しかし、今回は本格的に“最後の手段”を考え始めていた。すなわち、シエナに取り返しのつかない“致命的なスキャンダル”を仕掛け、一気に社会的評価を失墜させるという計画である。
「……もう後には引けないのよ。わたしが白い結婚の被害者だと思わせて、シエナを悪者に仕立て上げればいい。幸せな“ふり”をしているあの女こそが、本当の裏切り者なのだって」
エリサの瞳には狂気にも似た憎悪が宿っていた。まるで自分がシエナの被害者であるかのように錯覚しているかのようで、その言動は取り巻きの令嬢たちにさえ異様な印象を与えている。
そして、エリサはある人物へこっそり連絡を取る。社交界の裏で暗躍し、偽の証言や怪文書を作ることを生業とする“闇商人”のような存在だった。
3.距離を保ち続けるシエナ
一方、シエナはアルトゥールの微妙な“視線”を意識しながらも、やはり一線を越えないよう慎重に行動していた。理由は簡単だ。白い結婚の契約ゆえに、ここで情を移しては後に傷つくのは自分だと思い知っていたからだ。
白い結婚の契約の意義
シエナにとって、この結婚はあくまで「オルディス家の借金を肩代わりするための政略」だった。アルトゥールが何を考えているかは依然として不透明で、もし彼が自分をただの駒とみなしているのであれば、深入りした時に痛い目を見るのはシエナだろう。
それに、シエナにはまだ消えない復讐心があった。エリサや父をはじめ、自分を利用してきた人々に思い知らせたい。自分を貶めようとする者には倍返しを食らわせたい。そのためにも、あまりにも早くアルトゥールに心を預けるのは得策ではないと考えていた。
──私が強くなるには、まだ道のりが必要。今はただ、白い結婚という冷たい鎖を武器に変えながら、自分自身の価値を証明していく段階なのだ。
こうしてシエナは、社交界での行事に出席するときも、夫妻としてではなく単独、もしくは友人のライラ・クロノスを伴う形を貫いた。周囲が「せっかくの夫婦なのにもったいない」と噂しても、一切動じない。むしろ“慎ましい貴婦人”としての評価が高まり、彼女の人気はいやが上にも増していく。
そうした行動がアルトゥールの耳にも入っているのか、彼は特に何も言わない。だが、シエナが帰宅した夜更け、廊下の向こうに立つアルトゥールの気配を感じるときがある。声をかけるでもなく、ただ彼女を見送るだけ。そしてお互い、まるで何事もなかったかのように部屋へ戻る。
──ともすれば、歯がゆい関係かもしれない。しかしシエナには、この距離こそが今の自分を保つために必要だった。
4.エリサの最後の手段
エリサは、これまでの小細工が全く効かないと見るや、ある極端な計画を練り始めた。偽造した証言や書類を用い、シエナが“二重契約”をしているかのように見せかけるというものである。
つまり、「シエナはアルトゥールとの契約結婚を装いながら、別の貴族との密通や不正契約をしている」という虚偽をでっち上げ、証拠らしき書類を散りばめるのだ。その貴族の名も実在する人物を用意し(ただし軽い借金を抱えている名家の跡取り息子)、「シエナが金銭のやり取りと引き換えに、愛人関係を結んでいる」という噂を流布する。
万一これが社交界で事実だと受け止められれば、シエナはただの“不貞の妻”として糾弾され、レガシス侯爵家の名誉を汚した大罪人となる。アルトゥールがどう出ようとも、このスキャンダルが大きく広まれば彼女の地位は失墜し、社交界から追放される可能性すらある。
これまでエリサが流していたのは「夫婦仲が悪い」「シエナが冷たく放置されている」といったレベルの噂だったが、今回の計画は段違いの破壊力を持っていた。むろん嘘が暴かれればエリサが大きな痛手を負うリスクもあるが、それでも彼女は賭けに出た。
「やるしかないのよ。ここまで追い込まれた以上、あの女を引きずり降ろさないと、私が終わってしまう!」
エリサは夜な夜な書類を偽造し、その筆跡をシエナのものに似せるため、何度も練習を繰り返す。取り巻きの中には引きつった表情で「そこまでしなくても……」と止めようとする者もいたが、エリサの狂気に満ちた瞳を見ると何も言えなくなる。
──こうしてエリサは“最後の手段”へと突き進むのであった。
5.スキャンダル発覚と逆転
日を選んだエリサは、大きな社交パーティーの席で一気にシエナを陥れるつもりでいた。そのパーティーは豪商の娘が主催する大掛かりなイベントで、貴族や上級商家が多数出席することが決まっていた。シエナもライラ・クロノスと連れ立って出席する予定であり、まさに好都合の舞台である。
エリサの仕掛け
パーティー当日、会場となる豪商の館は豪奢な飾りで彩られ、誰もが華やかなドレスを纏って踊り、談笑している。シエナはいつも通り落ち着いた面持ちで来賓に挨拶をし、ライラとともに軽く食事を取りながら談笑を楽しんでいた。
しかし、その少し離れた場所で、エリサは薄笑いを浮かべながら“道具”を準備している。偽造書類と、架空の愛人役として仕立て上げた貴族の跡取り息子。買収済みの人物とグルになって、「私こそがシエナ・レガシスの恋人です」と大声で“告発”させる筋書きだ。
その男は仕方なく契約に応じているだけで、本心では気が進まないようだったが、エリサに弱みを握られているらしく逆らえないようだ。
「さあ、見ものだわ。あの女がどんな醜態をさらすのかしら」
エリサは人が大勢いる場の中央へと歩み出る。その周囲に取り巻きや、観客役の協力者が自然に散らばっていく。
“告発”の瞬間
やがて、エリサが手を叩いて周囲の注意を引きつける。豪商の主人やほかの客たちは「何事だろう」と視線を向ける。そこに、先ほどの跡取り息子が現れ、声を張り上げた。
「……皆さま、どうか聞いてください! 私、グレゴリー・ファレンスは、レガシス侯爵夫人シエナ様と深い仲にございまして……本当は先日、相応の契約を結んでいただきました!」
会場がざわめく。ファレンスが手にしているのは偽造した書類であり、シエナの筆跡に似せた署名と、アルトゥールとの結婚契約に反するような“愛人契約”の文言が記されている。にわかに立ち上がる騒然とした声、人々の動揺した表情。
シエナも、ライラとともに男の声を聞きつけて驚き、場の中央へ足を運ぶ。エリサはまるで被害者のような顔をして、「まあ、どういうことなの!」と芝居がかった悲鳴を上げる。
「シエナ様、それは本当なの? あなたはアルトゥール様と結婚しているのに、こんな裏切りを……!」
瞬く間に広がる疑惑の囁き。ここがエリサの狙いだった。シエナが弁明しようとしても、混乱の中で声を届かせるのは容易ではない。
逆転の一手
ところが、その時。
「それは面白いな。もし本当なら、この場で真偽を確かめさせてもらおう」
重く響く声が会場を鎮めた。人々が振り返ると、そこにいたのは黒い礼服に身を包んだアルトゥール・レガシスその人だった。普段は社交イベントに顔を出さないはずの彼が、どういう風の吹き回しか、今日はこの場に現れたのだ。
シエナも驚きのあまり思わず目を見張る。アルトゥールはそんな彼女を一瞥すると、ファレンスの持つ書類を一瞬で奪い取り、鋭い眼差しで内容を確認する。そして、まるで冷笑するかのように口元を歪めた。
「……ずいぶん稚拙な偽造だな。筆跡は似せているつもりだろうが、この署名には致命的なミスがある」
アルトゥールが指摘したのは、筆圧やクセ字の微妙なズレ、さらにはシエナが絶対に使わない言い回しが含まれている点などだった。彼はすでにシエナの書類を多く見慣れているため、違和感に即座に気づいたのだ。周囲の人々は「そう言われてみれば……」とばかりに書類を覗き込み、戸惑いの声を上げる。
さらにアルトゥールは、ファレンスに冷ややかな視線を向けながら言った。
「君は“私と契約した”と言うが、その証拠はこの書類だけなのか? なぜこんな公衆の面前で、君と“内密な契約”をしているなどと暴露する必要がある?」
ファレンスは言葉に詰まり、取り繕うように口を開く。
「し、仕方がなかったんだ……! 俺はシエナ様に冷たく捨てられたから、その悔しさで……!」
どこか歯切れが悪い。周囲の人々は徐々に「これは本当に仕組まれた芝居なのでは?」と疑い始める。エリサは青ざめた顔をしながらも、「いえ、これはシエナが裏で……!」と必死に否定しようとするが、誰もが混乱している状況だ。
すると、会場の隅に控えていたライラが一歩前に出た。
「皆さま、失礼いたします。私、ライラ・クロノスと申します。実はこの件について、少々お伝えしたい証拠がございます」
そう言うや否や、ライラは証拠写真や書面の写しを取り出し、このファレンスとエリサが数日前から密会していた事実を示す。しかもそこでは“手付金”の受け渡しや、筆跡を練習している様子が目撃されており、完全に後ろ暗い動きだということがわかる。
「これは……!」
誰もが息を呑む中、アルトゥールは冷徹な視線でエリサを見やり、「これが事実なら、君がこの場で嘘のスキャンダルを捏造し、わが妻を陥れようとしたことになる。いかなる理由があろうと、看過できない行為だな」と言い放った。
この瞬間、エリサの顔面は真っ青に染まった。取り巻きたちも悲鳴のような声を上げて後ずさる。嘘が暴かれるだけでなく、侯爵家を貶めようとした罪を追及されれば、それこそ社交界からの追放は免れない。
「い、いや……そんな、誤解よ! ちょっとした冗談のつもりで……」
エリサは必死に弁明しようとするが、もはや状況はどうにもならない。人々の視線は冷ややかで、先ほどまで囃し立てていた取り巻きでさえ、我が身可愛さにエリサを見捨てようとしている。ファレンスも怒りに震えながら「金を返せ!」とわめいており、会場はまさに修羅場と化した。
6.頂点に立つシエナ
こうして、エリサの“最後の手段”は見事に失敗し、逆に自滅する形となった。シエナに罪をなすりつけようとした計画が白日の下に晒されたことで、エリサは社交界での信用を一気に失う。加えて、「エリサはこれまでにも同様の陰謀を働いていたのでは」という過去の悪事まで取り沙汰され、彼女は完全に失脚することになった。
人々は口々にシエナを讃え、同情し、さらに「いざというときにアルトゥール様が妻を守った」という事実を話題にし始めた。もちろん、その“妻を守った”行動は“愛情”に基づくものなのか、“ただの名誉を守る義務”なのか判然としない。だが、ともかく今回の件で、シエナとアルトゥールは“絆”と呼べそうな何かを示したようにも見えた。
社交界の頂点へ
エリサ失脚後、シエナは社交界でさらなる注目を浴びるようになる。もともと彼女は資産運用や慈善活動を通じて高い評価を得ていたが、今回の事件で“毅然とした態度で陰謀に対処し、事実無根の疑惑を跳ね返した女性”として一躍名声を高めたのだ。
貴婦人たちは「冷たい契約結婚を強いられたにもかかわらず、自ら道を切り開いている」と称え、若い令嬢たちは「シエナ様のように強くなりたい」と憧れの眼差しを向ける。彼女を陥れようとしたエリサの存在はもはや過去のものとなり、誰もその名を口にしなくなった。
そうして、気づけばシエナは“社交界の頂点”に近い位置にいた。王族に次ぐほどの発言力を持つわけではないが、少なくとも貴婦人たちにとって“時流を象徴する存在”として捉えられているのは間違いない。
その事実は、かつて孤独の中で苦しんでいたシエナにとって何よりの成果だった。復讐の気持ちだけでなく、これから先の未来を見据えて自分の意思で道を選べる。そう思えるだけでも、大きな前進である。
7.心の氷が溶けるとき
パーティーの翌晩、レガシス侯爵家の屋敷。シエナは自室で書類を整理していた。エリサの件で騒ぎになったものの、まだ落ち着いていられない。これからさらに社交界の行事や、家の財務管理、オルディス家の動向など、やるべきことは山積みだ。
そんなとき、扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ」
シエナが答えると、現れたのはアルトゥールだった。こうして夜更けに訪ねてくること自体が極めて珍しく、彼女は思わず緊張感を抱く。
「……こんばんは。今よろしいか?」
アルトゥールは以前のような冷徹な雰囲気を漂わせながらも、その眼差しにはどこか柔らかな色がある。シエナは胸の奥がわずかにざわめくのを感じたが、表向きは静かに応対する。
「構いませんわ。何かご用でしょうか」
アルトゥールは部屋に入ると、扉を静かに閉めた。
「昨日の一件について、礼を言いに来た。……君とライラ・クロノスがあの場の証拠を用意していたからこそ、速やかにエリサの陰謀を暴くことができた。あれがなければ、もっと時間がかかったかもしれない」
意外な言葉だった。シエナはほんの少し目を見開く。これまで彼がこうした“礼”の言葉を口にすることはほとんどなかったからだ。
「いえ、私も自分の身を守るためです。あなたこそ、現れてくださって助かりましたわ」
そう返しながらも、シエナの声音はどこか柔らかい。さすがに、あの場にアルトゥールが現れていなければ、混乱の規模は大きくなり過ぎ、回復に時間がかかっていただろう。彼の一言が周囲を沈黙させ、流れを変えたのは紛れもない事実だ。
アルトゥールは沈黙のまま、しばしシエナを見つめる。
「……君は本当に強くなったな。最初に契約を交わしたころの君とは、まるで別人のようだ」
それは彼がずっと感じていたことなのだろう。シエナはあの日から今日まで、復讐心や生存本能に突き動かされるように努力を重ねてきた。財務管理、慈善活動、社交界での立ち回り──すべては「二度と誰にも利用されないため」に選んだ道だった。
「人は変わるものですわ。あなたも意外だったのではありませんか? 私がここまで動けるなんて」
声に出して言いながら、シエナはアルトゥールの反応を窺う。すると彼はわずかに口角を上げ、目を細める。
「そうだな。正直言って、最初はただの“人質”のようにしか見ていなかった。俺が求めたのは、オルディス家の負債をクリアにするための政略結婚。それ以上でも以下でもないと考えていた。……しかし、今は少し考えを改めさせられている」
彼の言葉には、確かに敬意のようなものが感じられた。冷たい契約に縛られながらも、自力で光を掴み取ったシエナを認めざるを得ない、そんな空気が漂っている。
しかし、シエナはあえて微笑みながらも、一歩踏み込むことを躊躇した。なぜなら、彼女の心にはまだ“契約”という壁があるからだ。
「恐縮ですわ。私も、あなたのことを理解しきれてはいません。あの孤児院への援助や、裏で私を守ってくださるような行為があると聞き及んでおりますが、それが本心からなのかどうかは、私にはわかりません」
アルトゥールはわずかに目を伏せ、息をつく。
「……契約がなければ、もう少し踏み込んだ話ができるのかもしれないがね。君もわかっているだろう。俺たちはまだ互いに、背負うべきものがある」
そう言われ、シエナは痛感する。そう、オルディス家の借金問題はまだ完全に解決したわけではない。アルトゥールはアルトゥールで、政治や経済の裏舞台で多くの駆け引きを行っているに違いない。その一端しか彼女は知らないのだ。
「ええ、わかっています。……だから、私はこの距離を保ちたいのです。あなたのことを憎んでいるわけではありませんが、“白い結婚”の鎖を忘れるわけにもいきませんから」
その言葉に、アルトゥールの瞳が微かに揺れた気がした。しかし、彼もまた踏み込んだ感情を口にしない。
「理解した。……ただ、今回のようなことがまた起きないとも限らない。そのときは、俺を頼ってもいい。いや、頼らなくても勝手に動くがね」
最後はやや照れ隠しのようにも聞こえる。シエナは思わず苦笑しそうになったが、なんとか表情を保つ。
「承知しました。いずれにせよ、私も自分の足で立ち続けるつもりです。あなたに守られるだけの存在ではありませんから」
「……ああ、わかっているよ」
そうして二人の短い会話は幕を閉じた。アルトゥールが部屋を出ていった後、シエナは深く息を吐き、胸に手を当てる。
──少しだけ、心の氷が溶けていく音がした気がする。
表面にはっきりと出せないが、互いの心には確実に変化が生まれ始めていた。
8.“冷たい”契約の先に
エリサの失脚により、シエナは完全に社交界の頂点へとのし上がった。彼女自身もまた復讐の一面を果たした満足感に浸りつつ、これからは自分の力でさらに広い世界を見据えて生きたいという欲求が湧いてきていた。
アルトゥールとは依然として“白い結婚”の関係ではあるが、その奥底に眠る“真意”や“感情”が、いつか芽生え合う瞬間が来るのではないか――シエナはそう期待していないわけではない。
しかし、まだ道半ば。オルディス家や侯爵家を取り巻く政争や陰謀は、今後もシエナの前に立ちはだかるだろう。彼女がこれまで以上に強くならなければ、いつまた別のエリサのような敵が現れるとも限らない。
それでも、もう孤独ではなかった。親友ライラの存在、そしてどこか頼もしいアルトゥールの後ろ姿がある。さらに、シエナ自身が獲得した強い意志と知性は、誰にも奪えないものだ。
そして何より、白い結婚という冷たい鎖がある一方で、胸の奥には微かな温もりを感じつつある。まだそれを“愛”と呼ぶには早いが、いつの日か、その氷が溶けきる瞬間はきっと訪れるのではないだろうか。
──エリサは消え、社交界は彼女を称え、アルトゥールはシエナを一目置く。
だが、これは終わりではなく、新たな幕開けだ。冷たい契約の先にある“本当の結婚”へと至る道のりは、これから始まるばかりなのである。