「白い結婚」──それは、政略目的や借金問題など、互いの打算だけで結ばれた形式的な婚姻のことを指す。レガシス侯爵家の当主アルトゥール・レガシスとオルディス家の令嬢シエナ・オルディスは、まさにその冷たい契約によって結ばれた。しかし、数々の事件を乗り越えてきた今、二人の心には確かに新しい感情が芽生え始めていた。
エリサ・ベルモンドが失脚し、社交界での地位を不動のものとしたシエナ。侯爵家の資産運用や慈善活動で成果を上げ、その名声はかつての“利用されるだけの公爵令嬢”という立場を完全に覆していた。一方、夫アルトゥールも、密かにシエナを支えてきたことを周囲に悟られぬよう振る舞いつつ、いつしか彼女の力強さと心根に引き寄せられていた。
しかし、彼らのあいだにはいまだに“契約”が横たわり、互いの距離を隔てている。シエナ自身もまた、利用される恐怖を捨てきれず、アルトゥールの“本心”を推し量りかねていたのだ。だが、そんな微妙な緊張感を崩すかのように、アルトゥールがついに大きな決断を下すときが訪れる。
1.揺れる心──“本当の夫婦”の提案
ある晴れた日、シエナは昼下がりの書斎で書類を読み込んでいた。最近は王都の街の活況が増し、侯爵家の投資先もさらに拡大が見込めそうで、やるべき分析は山のようにある。けれど、こうして仕事に没頭できる時間は彼女にとっての安らぎでもあった。自分の価値を示し、成長を実感できるからだ。
そのとき、控えめなノックの音が聞こえる。
「失礼します、奥様。アルトゥール様が……」
侍女のリリアが言いかけたところで、後ろからアルトゥール本人が現れ、静かに声をかけた。
「シエナ、少し時間をもらえるか」
彼が昼間に書斎に来るのは珍しい。いつもなら仕事や用事で出かけているか、深夜に戻ってくることが多いのだ。シエナは少し驚いたが、すぐに書類を置いて彼を迎える。
「ええ、構いませんわ。どうかなさいました?」
アルトゥールは侍女のリリアに退室を促し、扉を静かに閉めた。書斎の窓からはやわらかな陽光が差し込み、床に細長い影を落としている。アルトゥールはその光の中に立ち、どこか決意を固めたような横顔をシエナに向けた。
「……君と話したいことがある。いや、正確には“提案”と言うべきかもしれない」
シエナは怪訝な顔をする。提案という言葉に、かつての投資案件のような仕事絡みかと思ったが、アルトゥールの表情はそれだけではない、もっと深い決意を帯びているように見えた。
そして彼は、一拍の沈黙のあと、言い放つ。
「……契約を破棄しよう。もうこんな形ばかりの結婚は終わりにしたい」
一瞬、シエナは心臓が止まったように感じた。頭の中が白くなる。契約の破棄――それは、つまり離縁を意味するのだろうか。彼は自分を切り捨てるつもりなのか。それとも……。
不安を抑えきれず、シエナが問い返そうとした瞬間、アルトゥールは続ける。
「離縁の話ではない。……俺は、君と“本当の夫婦”になりたいんだ」
この言葉を聞き、シエナは驚きに声を失った。
“白い結婚”という冷たい契約によって結びつけられただけの関係。それを破棄して、本当の夫婦として新たに誓い合おうというのだ。
「あなた……本気で言っているのですか」
かすれた声でシエナが問うと、アルトゥールはまっすぐに彼女を見つめる。その瞳には、いつもの冷徹な光が消え、何かしら誠実な想いが宿っているようだった。
「本気だ。もちろん、君が嫌だというなら無理強いはしない。だが、これ以上君を“契約”という鎖で縛るのは間違っていると思う。俺は……君を失いたくない」
失いたくない。その言葉に、シエナの胸は一気に熱くなった。しかし同時に、長い間抱えてきた不信感や警戒心が、容易には解けない心の結び目となって胸を締めつける。
(本当の夫婦になろうだなんて……今さらそんなことを言われても、私はもう利用されたくないのに)
表情を曇らせたシエナを見て、アルトゥールは少しだけ苦笑した。
「突然で戸惑っているかもしれない。時間はあるから、ゆっくり考えてくれ。俺はただ、今のままでは君と真正面から向き合えないことに気づいたんだよ。……君はもう十分に強い。契約を口実に君を守るのではなく、対等な夫婦として、互いに支え合って生きていきたい」
その言葉は甘やかで、シエナの心を大きく揺らした。しかし、自分は本当に彼を信じていいのだろうか──“復讐”と“冷たい契約”によって築いてきた自己防衛が、警鐘を鳴らす。
「……考えさせてください。すぐに答えは出せません」
震える声でそう告げると、アルトゥールはゆっくりと頷いた。彼の瞳には落胆や苛立ちではなく、どこか安堵にも似た柔らかさが見える。
「わかった。……いつでもいい。君が答えを出すのを待つつもりだ」
そうして、二人の間に沈黙が流れる。書斎の静謐な空気の中で、その沈黙は何よりも雄弁に、互いの緊張や期待を浮かび上がらせていた。
2.一度は拒否するシエナ
アルトゥールからの衝撃的な提案を受けたシエナは、その日以来、心の整理がつかずに苦しんだ。夜になっても眠れず、ベッドの中で何度も自問自答する。
(本当に、私が彼と“本当の夫婦”になれるの? 利用されるだけで終わるんじゃないの? それとも、あの契約のせいで傷ついた日々はもう過去のこととして乗り越えられるの?)
翌日もシエナは何事もなかったかのように公務や社交活動をこなしながら、心の中ではアルトゥールの言葉が反芻されてやまない。周囲の人々は、侯爵夫人としての彼女を讃える声が多く、「シエナ様はレガシス侯爵家を大いに繁栄させるだろう」と期待を向ける。だが、彼女の胸には空虚感と戸惑いが渦巻くばかりだった。
そんな状態が数日続いたある夜、アルトゥールが屋敷に戻ったタイミングで、シエナは意を決して彼を呼び止めた。場所はレガシス家の広い中庭。外灯の明かりだけがうっすらと足元を照らしている。
アルトゥールはシエナの姿を見て静かに足を止め、「どうした?」と声をかける。彼の表情は穏やかだが、その瞳にはどこか期待が宿っているようにも見えた。
シエナはその視線から逃げるように、わずかに目をそらし、絞り出すような声で言う。
「……ご提案の件ですが、私はやっぱり……受け入れられません」
アルトゥールの瞳が揺れる。だが、すぐに彼は落ち着いた声で尋ねた。
「理由を聞かせてくれないか」
月明かりの下、シエナは自分の胸に手を当て、その奥にある感情を確かめるようにして言葉を紡ぐ。
「私は、この結婚でどれだけ傷ついたかわかりません。あなたに直接責任を追及するつもりはないです。でも、あなたは契約を盾に、私を自分の都合のいいように扱ってきた。確かに、私の行動を密かに助けてくれた場面もあったけれど、それが“契約以上の行為”なのか、それとも“契約の一部”なのか、わからないんです」
アルトゥールは黙って聞いている。シエナは涙をこらえながら続けた。
「私は、もう“利用されるだけ”には戻りたくないんです。エリサにも、家族にも、そしてあなたにも。……だから、『本当の夫婦になろう』と言われても、簡単に飛び込めない。今のままでは、また裏切られるんじゃないかと怯えてしまうから」
しばしの沈黙が訪れる。アルトゥールは月光を背にして立ち尽くし、その横顔はどこか苦悶の色を帯びているようにも見える。
「……わかった。君の気持ちが整理できていないのなら、仕方がない」
そう呟く彼の声は低く沈んでいて、僅かに寂しげだ。シエナもまた、胸が痛む。拒絶したはずなのに、なぜこんなにも辛いのだろう。
「すみません。……あなたの好意を踏みにじるような形になって」
シエナは目を伏せて謝罪するが、アルトゥールは首を振る。
「謝らなくていい。俺の提案が唐突すぎたんだろう。……だが、このままでは終われない。もし俺が“誠実”さを示すことができたら、その時は君も考え直してくれるか?」
誠実さ──その言葉に、シエナはかすかに胸を震わせる。これまでの彼は、どこか冷徹で合理的な姿しか見せてこなかった。しかし、“誠実”という言葉を口にするアルトゥールを初めて見た気がするのだ。
「……わかりません。でも、もしあなたが本当に誠実さを示すというのなら、私はそれを見極めたい」
そう答えると、アルトゥールはわずかに微笑んだように見えた。
「ありがとう、シエナ。俺は必ず、君の不安を払拭してみせる。……だから、もう少しだけ時間をくれ」
3.アルトゥールの誠実な告白と行動
一度は拒否の姿勢を示したものの、シエナはアルトゥールの“必ず誠実さを証明する”という言葉がどこか引っかかっていた。あれほど冷たい契約結婚に執着していた彼が、なぜ急に変わったのか。その理由を知りたいとも思い始める。
そんなシエナの心境を察してか、アルトゥールはまず行動で示していった。具体的には以下のような変化が起きる。
(1)家族問題への取り組み
シエナの実家、オルディス家の借金問題は一応、レガシス家が肩代わりして形だけは解決していた。しかし、まだ残務処理や細かな契約の見直しなどが山積みの状態。にもかかわらず、アルトゥールはこれまではほとんど関与せず、執事に一任していたに過ぎなかった。
ところが、ここ最近はアルトゥールが自らオルディス家の執事や会計士とも会い、より健全な財務再建策を導入しようと動き始めたのだ。シエナが直接頼んだわけでもないのに、彼は「オルディス家をただの負債と見るのではなく、今後は“君の家族”として再生してもらいたい」と言って、具体的な支援策を講じていく。
シエナは驚きながらも、アルトゥールの意図を尋ねた。すると彼は静かに答える。
「君がオルディス家を背負って苦しむ姿を、もう見たくないんだ。あくまで俺の意思で動いているだけだが……もし嫌なら止める」
嫌なわけがない。むしろシエナは“契約による義務”以上に、彼が誠心誠意尽くしてくれているように感じ、胸を複雑な思いで満たされた。“利用する”というよりは、“助けになりたい”という意思が表れているように思えたからだ。
(2)孤児院へのさらなる支援と、堂々たる姿
アルトゥールはこれまでも密かに孤児院を支援していた。だが、それはあくまで目立たぬように行ってきた。ところが最近は、シエナとともに公の場で慈善活動に参加し、孤児院や養護施設への寄付を堂々と行うようになった。
もちろん、その場には多くの貴族や商家も集まる。アルトゥールが表立って動けば、一気に注目の的になる。それを避けてきた彼が、なぜ急にオープンになったのか。彼はシエナに対し、「君が評価されているところを俺も支えたい」とだけ言い、具体的な理由は明かさない。
だが、シエナは感じていた。彼は“冷徹な契約者”として社交界で評判だったが、じつは自分なりに弱者を救いたいという志を持っていたのではないか、と。契約を利用してシエナを守っていた頃と違い、今は彼自身が堂々と姿を表すことで、シエナへの外圧をも排除しようとしているようにも見える。
こうした行動は、シエナの中に“アルトゥールは本当に私を大事に思っているのかもしれない”という新たな光を灯し始めた。
(3)心からの告白
そして何より、アルトゥールは言葉でも自分の心を示そうと努めるようになった。これまでは仕事や契約の話が中心だった二人の会話に、時折「君と一緒に考えたい」「これからは二人で決めていきたい」という表現が混ざるのだ。
ある夜、孤児院の基金を立ち上げる検討を終えたあと、シエナがソファで一息ついていると、アルトゥールが隣に腰掛けてきた。彼女は驚いて身を引こうとするが、彼はそれを制するようにそっと手を重ねる。
「……ごめん、無理に触れる気はない。ただ、君と同じ視線で、この先の未来を語りたいんだ」
その声は以前とは打って変わり、しっとりとした温かみを含んでいた。シエナはドキリとする。
「視線を合わせたところで、私はまだ契約を乗り越えられたわけでは……」
消え入りそうな声で言うと、アルトゥールは苦しげに眉を寄せ、深く息をついた。
「それでも、俺は君と一緒に歩みたい。もう契約などという形には頼らない。……シエナ、もう一度言う。俺は君を、俺の妻として、心から迎えたい」
目の奥に宿る真剣な光。彼の誠実そうな眼差しが、シエナの心を徐々に溶かしていく。“本当の夫婦になりたい”という彼の想いは、偽りには見えなくなってきた。
4.最後の試練──シエナの決断
アルトゥールの行動と告白は、シエナの中にある恐怖心と警戒心を少しずつほどいていった。しかし、それでも心の奥底には“もしまた裏切られたら”という声が残っている。長年染みついた“利用される”恐怖は、そう簡単には消えないのだ。
そんなシエナの背中を押す出来事が起きたのは、オルディス家との話し合いの場だった。以前にも触れた通り、アルトゥールはオルディス家の借金を整理するため、詳細な再建計画を立てている。シエナもその場に同席することになり、父デリック・オルディス公爵や執事たちとの面談に臨んだ。
かつての父は、シエナをただの“家を救う道具”としてしか見ていなかった。だが、今やレガシス侯爵家の“有能な夫人”として名を馳せるシエナに、彼は頭を下げて「すまなかった」と告げる。
「シエナ、お前を犠牲にしたことを悔いている。だが、こうしてアルトゥール侯爵が我が家の財務再建を助けてくれると聞いて、本当に感謝しているのだよ」
その言葉に、シエナはかつて感じた屈辱感と悔しさが蘇る。それを必死で押さえ込みながら、彼女は真っ直ぐ父を見返す。
「私もずっと、家のために犠牲にならなければならないと思い込んでいました。……でも、もう違います。私はレガシス家の一員であると同時に、“私自身”として生きる道を見つけました。もし父がこれ以上私を利用しようとするなら、その時は容赦しません」
鋭い言葉が場の空気を凍らせた。だが、隣にいるアルトゥールはシエナの手にそっと触れ、優しい力で包み込むように握る。
「シエナの言う通りだ。彼女はもう貴方たちオルディス家の道具ではない。俺も、シエナを二度とそんな目に遭わせるつもりはない」
このやり取りを経て、シエナははっきりと自覚する。自分を唯一無二の存在として尊重しようとしているのは、アルトゥールだ。
彼が“契約”を破棄しようと提案するのも、ただの気まぐれではなく、真剣にシエナを一人の女性として迎えようとする証だと感じられるようになってきた。今や、それを拒否する理由がどこまで残っているだろうか。
5.真実の愛を確認し合う
(1)“もう一度”のプロポーズ
オルディス家の会合が終わった夜、シエナは長い廊下を歩きながら、まだ高ぶる感情を持て余していた。父に対する怒りと失望、そしてアルトゥールに対するありがたさ。そんな入り混じった想いに気持ちが乱れている。
すると、不意にアルトゥールが後ろから追いかけてきて、彼女の名前を呼んだ。
「シエナ、少し一緒に外へ出ないか」
彼が誘う先は、屋敷の中庭だった。穏やかな月明かりの下、花壇がほんのりと風に揺れ、夜の静けさに包まれている。アルトゥールはそこで足を止め、彼女に向き合うように立つ。
「……今朝、君が父上と話しているのを見て、改めて思ったんだ。君は確かに強くなった。だけど、その強さは痛みから生まれたものでもある。俺は、もう君を悲しませたくないし、利用したくもない。だから――」
アルトゥールは深呼吸をして、まるで儀式のように膝をつき、シエナの手をそっと取った。彼女は驚きに息を呑む。こんな仕草は初めてだ。
「シエナ・オルディス。……もう一度、正式にプロポーズさせてほしい。これからは“白い結婚”などではなく、名実ともに夫婦として、俺と生きてほしい」
月の下でアルトゥールが捧げる想いは、冷たい夜風さえも温かく感じさせるほどだった。シエナの瞳に涙が浮かぶ。かつて、彼が自分を道具のように扱った日々は過ぎ去ったのだろうか。今、彼はこんなにも真摯な言葉をかけている。
「私……それでも、まだ心のどこかで怖いんです。もう裏切られたり、利用されたりしたくない。それでもいいの?」
アルトゥールは彼女の手を握ったまま、まっすぐに頷く。
「もちろんだ。もし今後、俺が君を利用するような行為をしたら、君はいつでも俺を捨ててくれていい。それぐらいの覚悟はできている」
その誓いに嘘偽りは感じられない。アルトゥールの表情は凜としており、微塵の揺らぎもなかった。シエナは涙をこぼしながら、そっと頷く。
「……わかりました。私も、あなたをもう一度信じてみます。本当の夫婦として、これからを生きるために」
こうして、二人は契約とは無関係の“真実の愛”を誓い合う。夜空には無数の星が輝き、地上の静寂を映し出すようにきらめいていた。まるで、これまでの苦難と孤独を乗り越えた先にある祝福を象徴しているかのように――。
6.名実ともに夫婦となる
(1)契約破棄の宣言
翌日、アルトゥールはレガシス家の関係者や法律家を集め、かつて取り交わされた“白い結婚”の契約書を破棄する旨を公式に宣言した。法的にも認められた書面を取り扱い、廃棄の手続きを進める。
「皆さま、これより我がレガシス家とオルディス家との“政略的契約”は解消いたします。……今後は、私アルトゥール・レガシスと、シエナ・オルディスは、純粋に夫婦として共に歩むことをここに報告いたします」
彼の宣言に、使用人や法律家たちはそれぞれ驚きや感慨の表情を浮かべるが、誰一人として反論する者はいない。むしろ、知る者はみな「ようやくこの時が来たか」と目を潤ませていた。あれほど冷徹だった侯爵が、妻にここまで情熱を傾ける姿は前代未聞だったからだ。
一方、シエナも公式の場で契約書を破り捨てる瞬間を、複雑な胸中で見守っていた。
(あれだけ私を縛っていた紙切れが、今こうして消え去ろうとしている)
心に込み上げる解放感と、これから始まる未来への期待が混ざり合い、シエナは胸を熱くした。
(2)本当の意味での挙式
数日後、アルトゥールは改めてシエナに挙式を提案する。かつて行われた結婚式は形式だけであり、愛の誓いなどまるで存在しなかった。だからこそ「今度こそ、本当の意味での夫婦として新たな誓いを立てたい」と彼は言う。
シエナは最初、そこまで大げさにしなくても……と思ったが、アルトゥールの熱意に負けて承諾した。「もしこれが純粋な夫婦の契りだというのなら、私もきちんと向き合いたい」と。
こうして、シエナとアルトゥールは小さな式を執り行うことになった。場所は豪奢な聖堂などではなく、孤児院に併設された小さな礼拝堂。二人が慈善活動で関わってきた子供たちも出席し、ささやかで温かな式が始まる。
参列者はあまり多くはない。使用人たちや、親友ライラ・クロノス、そして信頼できる数名の貴族仲間が見守る中、二人は静かに互いの手を取り合った。
司祭の前で、それぞれ短い誓いの言葉を述べ合う。その内容は盛大なものではなく、むしろ慎ましやかなものだったが、二人の胸には確かな愛の炎が燃えていた。
「私はレガシス侯爵家のシエナとして、もう二度と誰かに利用されるだけの人間にはなりません。……そして、あなたを伴侶として尊重し、共に歩みます」
そう告げるシエナの声は、かつての冷え切った結婚式とは比べ物にならないほど力強く、輝いていた。アルトゥールもまた、彼女の決意を正面から受け止め、静かに微笑む。
7.誇りを語り、幕を閉じる
(1)幸せの形
式が終わると、子供たちは花びらを撒いて二人を祝福し、屋外では簡単なパーティーが開かれた。大きくはないが、真心のこもった祝宴だ。シエナは子供たちから「ありがとう、シエナお姉ちゃん」と抱きつかれ、アルトゥールは子供たちに「おじさん、もっとお菓子ちょうだい!」とせがまれて苦笑している。
こんな光景は、かつての“白い結婚”のスタート時には想像すらできなかった。シエナ自身も、利用されるだけの日々から抜け出し、本当に笑顔になれる未来があるとは思っていなかった。
ふと、そんな穏やかな雰囲気の中でライラが近づいてきて、耳打ちする。
「シエナ、感慨深いわね……本当に、よかった。あなたがこんな笑顔でいられる日が来るなんて」
シエナはライラの手を握り返す。
「ありがとう、ライラ。あなたがいてくれたから、ここまで来られたのよ。……でも、私の物語はまだ続くわ。これからは、真実の夫婦としてレガシス家を支えるだけでなく、自分自身の道も切り開いていくつもりよ」
(2)シエナの宣言
夕暮れ時、パーティーも一段落し、アルトゥールとシエナが子供たちを見送ったあと、最後に使用人たちと身内だけが集まって小さな乾杯を交わした。その場で、皆の視線がシエナに注がれる。
「何か、奥様から一言いただければ……」
そう言われたシエナは、少しだけ照れながらも意を決して口を開く。
「私は今まで、オルディス家の借金問題やエリサの陰謀、そして冷たい契約結婚の苦しみに翻弄され続けてきました。……だけど、もう私は利用されるだけの人間ではありません。独立した女性として、自分の意思と力で未来を選びとっていくつもりです」
場の空気が静まり返る。シエナの瞳は、自信に満ちあふれていた。まるで、“白い結婚”と呼ばれた冷たい契約の日々を総括し、完全に卒業したかのような力強さ。
「これから先、レガシス侯爵家は私にとっても大切な場所ですが、私は決して立ち止まらずに、さらなる可能性を探り続けたい。慈善活動にしても、資産運用にしても、やりたいことは山のようにあるんです。……アルトゥール、あなたは私を支えてくれますよね?」
名指しで投げかけられた問いに、アルトゥールは微笑んで頷き返す。
「当然だ。俺も君に支えられているよ、シエナ。今や、俺は君なしではこの先の未来を描けない」
その言葉を受けて、使用人や親しい友人たちが拍手と笑顔を送る。ライラは目に涙を浮かべ、そっとハンカチを握りしめていた。
(3)物語の幕引き
こうして、長きにわたる“白い結婚”の冷たい鎖は解き放たれ、シエナとアルトゥールは真実の夫婦として、新たな一歩を踏み出すことになった。
かつては契約の犠牲者だったシエナは、今や誰にも縛られない“独立した女性”として、夫の隣に立つ。その表情には、もう怯えや孤独は微塵も感じられず、自らの誇りと意志をしっかりと抱きしめている。
エリサのような策略家は二度と彼女を陥れることはできないだろう。オルディス家や社交界に翻弄された日々は過去のものとなり、今は目の前にある未来へと向かって歩んでいく。アルトゥールもまた、シエナと共にある道を選択し、冷たい仮面を脱ぎ捨てつつある。二人の関係は、もはや“契約”という言葉などで縛れるほど浅いものではなくなったのだ。
夕闇が降りてきた空の下、シエナは屋敷のバルコニーに立ち、遠くに見える王都の灯を眺めながら思う。
「私はもう、利用されるだけの人間ではない……」
そのつぶやきは誰かに向けられたものではなく、自分自身への宣言でもあった。そして、彼女の背後にはアルトゥールがそっと寄り添い、二人は互いの存在を温かく確かめ合う。
こうして、全てが変わったわけではないが、二人の間にあった冷たい契約は崩れ去り、“真実の結婚”がそこに立ち上がる。今後どんな困難があろうとも、シエナはもう“利用されるだけ”ではなく、自分の力で、そして愛する人と共に乗り越えていけるだろう。