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10:悦子・3

 悦子は洗濯機のスイッチを入れ、うるさい音と共に洗濯が始まったのを確認してからリビングに戻った。ベランダの大きな窓から差し込む日曜日の朝の日光が、今はとても頼もしい。


 彼女は窓際の棚に置いた小箱を眺めた。中には水晶のさざれ石が詰められ陽光に煌めいている。その上に先日消えてしまったようになったのと同じお守りが、3個並べられている。

 他人に見られたら馬鹿にされるだろうが、悦子はもうそんな事を気にしていられる気分ではなかった。

 お守りが消えたという事は、魔除けに効果があるという事だろうと、再度神社に赴き今回は3個も授けて貰ったのだ。


 朱美から届くメールは、どんどん内容が洒落にならないレベルで怖くなっている。

 しかし朱美はなぜか怪奇現象とは思わず、他人が家に勝手に入り込んだぐらいに思っているのがどうにも解せない。いや、もちろん他人の侵入でも十分に怖い。でも常識的に考えて、深夜の床下に潜り込んだ人間がケラケラと笑って済ませるはずが無いのに。

 大雨だろうと朝晩必ず通る自転車の郵便配達員も気味が悪すぎる。

 家の中でも茶碗を叩くような音は続いているようだし……。


 悦子の焦ったような危惧に拍車をかけたのは、母親からの電話だった。母親によると、電話での朱美はかなりつっけんどんで、欲しい物は「肉が欲しい。それ以外はいらない」と言ったという。以前はねだる品物は、ちょっと高級なスイーツ系ばかりだった末っ子の妹の言葉とは思えない。

 最近は電話に出ない事も多い。とにかく一度、お守りを持って石並村に行こう、出来れば朱美を説得して、ここまで連れ帰ろうと悦子は予定を立てた。

 電話で姉の訪問予定を聞いた朱美もこの時ばかりは喜んで、楽しみに待ってくれている。

 仕事の都合も何とかつけて、明日の早朝に出発する事にしている。そうすれば早い時間に向こうに到着出来るだろう。


 そして、悦子は昨夜、鮮明な夢を見た。

 亡くなった祖母が、暗闇に立ってじっと悦子の方を見ている。何も言わないし無表情だ。悦子が夢の中でももどかしく思った時、祖母は悦子の足元をすっと指差して一言だけ言った。


「仕方ないね」


 そこで、目が覚めた。

 目が覚めた瞬間、もう手遅れなのだろうか、と押しつぶされたような気分になる。それから、いや諦めてたまるかと自分を奮い立たせる。幽霊や怪奇現象に負けてたまるか。だいたい、朱美は何も悪い事はしていないのだ。理不尽に怖い目に遭っている妹を絶対に助けてみせる。


 洗濯の終わったピーピーというお知らせ音で我に返った。お守りを眺めてぼんやりしている時間は無い。今日中に一通り掃除を済ませておかないと。

 洗濯機から洗濯物を取り出し、籠に入れてからベランダに出ようとした悦子は、足を止めた。


 ベランダの柵を、皮膚が赤く爛れたようになっている細い指が掴んでいる。


 誰、と言いそうになっても口から言葉が出てこない。ここは5階なのだ。

 凝視していると、下からゆっくりと丸い形の何かがせり上がってくる。悦子は咄嗟に理解した。

 柵を掴んでいる何者かが、顔を見せようとしている。恐らくは、指と同じように赤く爛れた皮膚の顔がもうすぐそこに……。


たまらなくなって一歩後ずさりした悦子の背中を、腰を、足を、強い衝撃が襲った。それは巨大な何者かに思い切り殴られたようだった。

 悦子は受け止めきれず、ベランダに倒れ込んだ。籠の中の洗濯物が辺りに散らばり、右足首の激痛で視界がかすむ。呻き声しか出せない悦子の耳に、どこからか、低い声と小さく拍手をするような音が聞こえた。


 ――しーかたーなーいーねー……

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